一条真也です。
19日の早朝から、松柏園ホテルの神殿で月次祭が行われました。今朝の小倉は曇りで、気温は22度でした。
ホテルの貴賓室には父の遺影が・・・
朝、ホテルに到着して貴賓室に入ったら、デスクの上に父である佐久間進名誉会長の遺影が置かれていました。父は、いつも見守ってくれています。わたしは遺影に向かって「これから月次祭と天道塾ですよ」と語りかけました。
神事の冒頭で一同拝礼!
月次祭のようす

玉串奉奠で玉串を巫女から受ける

玉串奉奠で玉串を祭壇に捧げる
皇産霊神社の瀬津禰宜によって神事が執り行われました。サンレーグループを代表して、わたしが玉串奉奠を行いました。会社の発展と社員の健康・幸福、それに能登半島地震の被災者の方々の日常が早く戻ることを祈念しました。
山下常務に合わせて拝礼
神事の最後は一同礼!
この日は、わたしに続いて山下常務が玉串奉奠をしました。山下常務と一緒に参加者たちも二礼二拍手一礼しました。その拝礼は素晴らしく美しいものでした。わが社が「礼の社」であることを実感しました。儀式での拝礼のように「かたち」を合わせると「こころ」が1つになります。神事の後は、恒例の「天道塾」を開講しました。
開講前のようす
最初は、もちろん一同礼!
社長講話を行いました
とりあえず、毎日、身体を鍛えています!
月次祭の後は、恒例の「天道塾」が開かれました。会場は松柏園のメインバンケット「グランフローラ」でした。登壇したわたしは、「先日、62歳になりました。6月4日、横浜でグリーフケアの講演を行います。翌5日には、格闘技プロモーターで元プロレスラーの前田日明氏と東京で対談します。三度の飯より格闘技とプロレスが好きなわたしが本当に心酔したのは、アントニオ猪木と前田日明の2人。猪木さんと対談する夢は叶いませんでしたが、前田さんと対談できる喜びを嚙みしめています。とりあえず、毎日、身体を鍛えています!」と言うと、会場から笑いが起きました。よし、つかみはOK牧場!(笑)
『遊郭と日本人』を紹介
それから、わたしは日本文化の話をしました。まずは、ブログ『遊郭と日本人』で紹介した法政大学の元総長で江戸文化研究の第一人者である田中優子氏の著書を取り上げました。田中氏は、「遊廓は日本文化の集積地でした。書、和歌、俳諧、三味線、唄、踊り、琴、茶の湯、生け花、漢詩、着物、日本髪、櫛かんざし、香、草履や駒下駄、年中行事の実施、日本料理、日本酒、日本語の文章による巻紙の手紙の文化、そして遊廓言葉の創出など、平安時代以来続いてきた日本文化を新たに、いくぶんか極端に様式化した空間だ、と言えるでしょう」と述べています。わたしは「冠婚葬祭は日本文化の集大成」と考えており、そのことを『冠婚葬祭文化論』(産経新聞出版)に書きましたが、遊郭が日本文化の集積地であるという田中氏の指摘には虚を突かれた思いでした。

遊郭は「文化の集積地」であった
2021年末に放送された人気アニメ『鬼滅の刃』第二期では遊廓が舞台になり、親御さんたちは子供にどう説明すれば良いかわからないということが紹介され、著者は本書を読むことによって、2つの側面を説明してあげてほしいといいます。ひとつは遊女が、江戸時代当時の一般の人々でもなかなか身につけられなかった伽羅という輸入香木を、着物と髪に焚きしめ、とても良い香りを放っていたこと。和歌を勉強し、自分で作ることができたこと。漢詩を勉強する遊女もいたこと。書を習い、墨で巻紙に手紙を書いていたこと。三味線を弾き、唄い、琴を弾く遊女もいたこと。生け花や抹茶の作法を知っていたこと。遊廓では一般社会よりはるかに、年中行事をしっかりおこない、皆で楽しんでいたこと。それによって日本文化が守られ継承されたという側面は、ぜひ伝えてほしいと訴えています。

遊女=日本文化の体現者
もうひとつは、遊女は、家族が借金をしてそれを返すために遊廓でおつとめをしていて、地位の高い男性のお客様をもてなすために高い教養を持っていたけれど、同時に、借金を返すために男女関係を避けることができなかったことです。著者は、「それを目的に来る客たちもいたことを伝えて欲しいと思います。女性が全人格的にではなく、性行為の対象としてのみ見られることは、今日では許されないことも、ぜひ伝えて欲しいと思います」と述べています。女性として遊郭を研究してきた著者の思いがこの一文には込められているように感じました。
テーマパークとしての吉原遊郭
同書の第二章「遊郭とはどういう場所か?」の「遊郭の空間」では、吉原遊廓は、畑の中に人工的に作られた四角い町で、現代で言えばテーマパークといったところだというふうに説明されます。遊廓の「廓」とは、囲われて独立した区域という意味です。「遊郭はなぜヒトを魅了したか」では、現在の芸能人は芸能を売りますが、色は売らないとして、「美しさを売りますが、身体は売りません。ではなぜ前近代の女性芸能者は性を売ったのか。これは人間と文化にかかわる深いテーマです」と述べます。

遊郭が日本文化を継承した!
茶の湯という文化を例にして、田中氏は「手順、作法、着物、美意識、建築、諸道具、庭園、絵画、生け花、料理、季節感などの総合空間芸術であり時間の芸術で、現在でも複数の家元がおり、高価な茶碗や諸道具が伝えられています。この文化は抽象的なものではなく『茶』や『料理』という人間の五感の快楽に支えられています」と述べます。また、歌舞伎や日本舞踊という伝統文化があるとして、「これらは音楽と踊りと演劇で成り立っていますが、やはり音、響き、リズムなど五感の快楽を前提にしています。芸能が今のよう遠い舞台の上やテレビやスクリーンの中ではなく、座敷に呼んで間近に楽しむものであった時代、その迫力と魅力を一時的にであっても独占したいと思うことがあっても不思議ではありません」と述べます。
遊郭は移動する芸能者が作る「別世界」
熱心に聴く人びと
遊廓は、移動する芸能者である遊女が選ばれて集まる場所として作られました。その時、その空間は普段の社会とは異なる「別世界」になったと指摘し、著者は「その記憶から、吉原入るまでの道程は、特に川を使って舟で近づいていく時、辺境の別世に入っていくような気分にさせる仕掛けになっていました。日常の都市の中に、別世の都市が作られたのです。幕府が新吉原を移転させたのは、秩序のためだったわけですが、それがまさに『秩序からはみ出た悪所』を成り立たせ、その非日常が人を惹きつけたのです」と述べるのでした。
「色好み」は大切なことです!
「『色好み』の日本文化」では、遊女の能力や人柄は、和歌や文章や筆など平安時代の文学にかかわること、琴や舞など音曲や芸能にかかわること、中世の能や茶の湯や生け花、漢詩、俳諧など武家の教養にかかわること、着物や伽羅や立ち居振る舞いなど生活にかかわることなど、ほとんどが日本文化の真髄に関係していることが指摘されます。そしてこれらの、特に和歌や琴や舞などの風流、風雅を好む人を平安時代以来「色好み」と呼んでいました。「色」には恋愛や性愛の意味もありますが、もともとは恋愛と文化的美意識が組み合わさったもので、その表現としての和歌や琴の音曲を含むものだったのです。
恋愛は人間の精神にとって大切な感情
著者は「遊女が貴族や大名の娘のように多くの教養を積んでいたのは、日本文化の核心である色好みの体現者となり、豪商や富裕な商人、大名、高位の武士たちと教養の共有、つまり色好みの共有を果たすことが求められていたからでしょう。これらの伝統的文化に遊ぶことこそが、彼らにとっての『遊び』だったのです」と述べる一方で、「しかし遊廓にはもうひとつの側面があります。それが売色です。色を好み趣味を共有する、その「色」の中には恋愛、性愛が含まれました。性愛そのものは人類の存続を支えるもので、人の愛情の根幹を成すものです。恋愛は人間の精神にとって大切な感情です。だからこそ人権に価値を置く時代になれば、恋愛や性愛は力の不均衡、不平等のもとでは成り立たないのです。独立した人格を認め合い、尊敬し合う関係の中で初めて価値を持つ」と述べています。

続いて「任侠」について話しました
「遊郭」に続いて「任侠」の話をしました。任侠とは、仁義を重んじ、弱きを助け強きを挫くために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す言葉です。ヤクザ史研究家の藤田五郎氏によれば、正しい任侠精神とは正邪の分別と勧善懲悪にあるといいます。仁侠(じんきょう)、義侠心(ぎきょうしん)、侠気(きょうき)、男気(おとこぎ)などとも呼ばれます。仁義を重んじる任侠的精神は、当然ながら儒教と深い関わりがあります。中国での任侠の歴史は古く、春秋時代に生まれたとされ、情を施されれば命をかけて恩義を返すことにより義理を果たすという精神を重んじ、法で縛られることを嫌った者が任侠に走ったとされます。正義よりも義理が優先される世界なのです。
『史記』の「遊侠列伝」について
戦国四君は食客や任侠の徒を3000人雇って国を動かしたとして各国から評価され、四君の中でも特に義理堅い信陵君を慕っていた劉邦は、任侠の徒から前漢の初代皇帝にまで出世しました。この任侠らを題材にしたのが『史記』の「遊侠列伝」です。登場人物の朱家は有名で、貧乏ながらも助命をすることが急務としました。朱家はそのことで礼を言われることを嫌っていたために名声が高かったといいます。以後、任侠は庶民の間で地位を得、権力者の脅威となりました。任侠に武術を取り込んだ武侠小説は現代でも人気が高いです。

任侠とヤクザ・チンピラは違う!

熱心に聴く人びと
なお、『史記』「遊侠列伝」の著者である司馬遷は、「『仁侠』の志を知らずに彼らをヤクザやチンピラなどと勘違いして馬鹿にするが、それは悲しいことだ」と述べています。中国は広大な面積と複数の言語や民族が存在するので、地方においては法の権威が及ばない、あるいは中央の監視が行き渡らないため人民が地方官僚の暴政に悩むという背景がありました。そんな中、任侠とは庶民の中にあり圧政や無法地帯の馬賊から庶民を守る正義の味方という側面があったのです。そこから、法に頼らない個人レベルとしての恩に対する義理や義兄弟の忠誠が強調され、賊であっても義賊であることも可能でした。
日本における任侠の形成
日本でも任侠を主体とした男の生き方を「任侠道」、またこれを指向する者を「仁侠の徒」といいますが、日本では江戸時代以降、近代および現代を通して政治が安定して法治主義が隅々まで行き届いており、反乱などもほとんど長続きしないという状態であったため、任侠の精神は社会の最下層の人間や非合法の輩の間でしか存在できないという状態が存在しました。たとえば、天保の飢饉に苦しむ貧民を率先して救い刑死した上州の博徒、国定忠治は任侠の徒として高く評価されています。
武士道から任侠道へ
戦前の日本の知識人や近年の国内外のヤクザ研究者のあいだでは、任侠道と武士道は同列のものであり、ヤクザは武士の倫理的継承者であるという言説が広く受け入れられています。日本人は生まれながらに大和魂を持ちますが、その魂が武士に顕れれば武士道、町人に顕れれば侠客道だというわけです。また、新渡戸稲造は明治32年に英文で著した『武士道』の中で、武士道精神は男達(おとこだて)として知られる特定の階級に継承されていると述べています。任侠道と武士道には精神的血縁が存在するのです。
暴力団には「任侠」の欠片もない!
暴政や馬賊などがはびこる半無法地帯の中での庶民の正義という旧中国と違い、法治国家における無頼の輩が「相互扶助を目的に自己を組織化した」のが「暴力団」です。このような組織は法治国家においても、闇の部分である繁華街、不法移民の潜入ならびに不法就労の仲介、売春、賭博、麻薬、興行、闇金融、そして昔なら闇市などの分野で持ちつ持たれつ、あるいは搾取する立場のものとして活動してきました。もともとの任侠は反権力ではあっても、あくまでも暴政に対する対抗や無法地帯において脅かされる庶民を守る存在でしたが、庶民に危害を加えたり、いじめたりする暴力団には「任侠」の欠片もありません。

任侠と芸能・文学について
本物の「任侠」を求めて、日本では1960年代から70年代にかけて東映を中心に、任侠映画(ヤクザ映画ともいう)が作られ、一大ジャンルを築きました。やくざ自体を主題とする映画は、長谷川伸の「瞼の母」や子母澤寛の股旅物、伊藤大輔監督の「忠次旅日記」(1927年)など、戦前からありました。また戦後も「清水の次郎長伝」「次郎長意外伝」「次郎長富士」「国定忠治」などが盛んに制作されました。清水の次郎長が登場する映画は約200本、国定忠治が登場する映画は約130本あるとか。任侠映画は日本人の心情になじんだ主題を現代に置き換えたものでしたが、制作が本格化するのは日本経済が高度成長に向けて走り始めた1960年代に入ってからでした。

仁義の切り方を知っていますか?
1964年、後に東映の社長となった岡田茂が東映京都撮影所(東映京都)の所長に復帰します。岡田所長は、同撮影所のリストラを進め、不振の続く従来型の時代劇はテレビに移し、時代劇映画からヤクザ映画(任侠映画)路線の転換を行いました。東映東京で成功した任侠路線を東映京都改革の切り札として持ち込み、その任侠二大路線として、初の本格的ヤクザ映画、鶴田浩二主演の「博徒シリーズ」と高倉健主演の「日本侠客伝シリーズ」を企画したのです。「日本侠客伝」は亡き主君のために復讐を成し遂げた義理堅い武士たちの物語であり、岡田茂が『忠臣蔵』をモデルとして構想したものでした。任侠路線は通常は明治から昭和初めを時代背景とし、着流し姿の主人公が我慢に我慢を重ねて最後に義理人情に駆られて仇討ちに行くというほぼ似通った筋立てでした。

熱心にメモを取る人も・・・・・・
東映の任侠映画路線は、「人生劇場 飛車角」(1963年)のシリーズに始まって、「博徒」(1964年)、「日本侠客伝」(1964年)、「網走番外地」(1965年)、「昭和残侠伝」(1965年)、「兄弟仁義」(1965年)、「緋牡丹博徒」(1968年)、「日本女侠伝」(1969年)の各シリーズで頂点を迎えました。俳優は鶴田浩二・高倉健・藤純子・北島三郎・村田英雄らが主役になり、池部良・若山富三郎・田中邦衛・待田京介・丹波哲郎・嵐寛寿郎・松方弘樹・梅宮辰夫・大原麗子・三田佳子・佐久間良子 らが脇を添えました。メガホンを取った監督は、マキノ雅弘・佐伯清・加藤泰・小沢茂弘・石井輝男・山下耕作などでした。
任侠路線は当時、サラリーマン・職人から本業のヤクザ・学生運動の闘士たちにまで人気があり、「一日の運動が終わると映画館に直行し、映画に喝さいを送った」という学生もいました。「博奕打ち」シリーズ第4作「博奕打ち 総長賭博」(1968年)は三島由紀夫に絶賛されました。当時の任侠映画=ヤクザ映画は、60年安保に揺れる「政治の季節」を反映していました。村上春樹は、早稲田大学に在学中の1960年代の後半は「大学へはほとんど行かず、新宿でアルバイトなどをしながら、歌舞伎町東映でほとんど毎週ヤクザ映画を観ていた」と話しています。
このように任侠映画の歴史を紹介しながら、わたしは侠客たちの仁義の切り方や食事作法などについても説明しました。そこには、礼法といってよいほどの洗練された作法があります。参加者たちは大変興味を持ったようでした。また、遊郭が「日本文化の集積地」であったという話にも深い関心を示していました。わたしは、「文化には表もあれば裏もある。遊郭や任侠といった世界は、もちろん裏の世界。しかし、そこには日本文化の粋といえるものが存在し、『礼』の精神も色濃く反映されています。世の中、陰があって陽があり、裏があって表がある」と述べました。
最後は、もちろん一同礼!
何よりも、そこにはコンパッションがあり、相互扶助がありました。わたしたち冠婚葬祭業は表の世界で、それを堂々と打ち出していくわけです。もはや遊女や侠客はこの世に存在しませんが、わたしたちは生きている。まさに、わたしたちは『礼の社』に集った『文化の防人』として誇りをもって、日々の業務に努めましょう!」と言って降壇しました。松柏園ホテルを去る前に、わたしは父の銅像の前に行き、「ああ、生きていたら、今日の話を聴いてもらいたかったなあ・・・」と思いました。
父の銅像とともに・・・
2025年5月19日 一条真也拝




「