一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「等」です。
『龍馬とカエサル』(三五館)
わたしには『龍馬とカエサル』(三五館)という著書がありますが、坂本龍馬もユリウス・カエサルも平等主義者でした。龍馬は、女性の職業・容貌・知能、その他もろもろに対して、いっさい差別しなかったといいます。女性をつねに1人の人間として尊重し、志を共有する同志として見なしていました。だからこそ、千葉さな子も、寺田屋お登勢も、お龍も、その他にも多くいたであろう女性たちはみな、龍馬に深い愛情を注ぎ、渾身の協力を惜しまなかったのです。龍馬自身が商家の出身で郷士という下級武士でした。つまり身分が低かったのです。それもあってか、彼は何よりも差別を嫌い、女性のみならず、あらゆる人々に等しく接しました。
「アメリカでは、馬の口取りが将軍や大名を選ぶ」という選挙の存在を知り、龍馬は人民平等思想を知ります。これに深く共感した彼は、後に土佐藩の後藤象二郎に、「アメリカでは薪(まき)割り下男と大統領と同格であるというぞ。わしは日本を、そういう国にしたいのじゃ」と語りました。平等主義者の龍馬がつくった海援隊には、「長」と名のつく役職は一つもありません。幕府の身分制度や階級をそのまま踏襲した新撰組とは対照的です。
また、龍馬は、「世に活物(いきもの)たるもの、みな衆生なれば、いずれを上下とも定めがたし」との言葉を残しています。「この世の中の生きものというものは、人間も犬も虫もみな同じであり、上下などない」という意味ですが、これは幕末の当時にあって、とんでもない過激思想であったと言えます。司馬遼太郎は、この龍馬の言葉から、ルソーの『社会契約論』に出てくる「人は自由なものとして生まれた。しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているような者も、実はその人以上に奴隷なのだ」という有名な冒頭の言葉を思い出したと述べています。
カエサルの平等主義は、ローマ市民権の拡大に示されました。彼は、それまで「アルプスのこちら側(チザルピーナ)」と呼ばれ、ローマ市民から外国人扱いされていたアルプス以南のイタリア人、次にローマで仕事をするすべての医師や教師、さらには、最近まで彼自身が敵として戦っていた「蛮族」のガリア人の指導者たちにまで市民権を与えたのです。
ローマにおいて市民権を持つことは、人種や民族や宗教を超えて、ローマの市民と同等の権利を与えられるということです。すなわち、ローマの法によって、その人物の私有財産と個人の人権は守られるということを意味しました。これを平等と言わずして、何を平等と言うのでしょうか。カエサルの前には、「征服者」も「被征服者」もなかったのです。
龍馬が「日本人」を、カエサルが「ローマ人」を愛していたことは間違いありません。しかし彼らの視線の先には「人類」があったと思います。いま、「格差社会」だとか「不平等社会」だとか叫ばれていますが、リーダーとされる人々の中にはそれを当然のこととして認めている者もいます。とんでもないことです。リーダーとは、つねに平等主義者でなければなりません。「等」については、『龍馬とカエサル』に詳しく書きました。
2024年9月1日 一条真也拝