一条真也です。
史上最強の台風10号が九州に近づく中、『予言と言霊 出口王仁三郎と田中智学』鎌田東二著(平凡社)を紹介いたします。「大正十年の言語革命と世直し運動」というサブタイトルがついています。わが魂の義兄であり、日本を代表する宗教哲学者の最新刊です。
本書の帯
本書のカバー表紙には出口王仁三郎と田中智学の顔写真が使われ、帯には「危機の時代、乱世の『世直し』とは何か。」として、「スペイン風邪と第一次世界大戦、関東大震災・・・・・・近代日本が今日に通じる危機的状況にあった時代、出口王仁三郎と田中智学は壮大な構想のもとに大いなる『世直し』をめざした。近代日本における新宗教の巨人ふたりの軌跡と思想的展開をたどり、彼らの予言的『ビジョン』を照射する」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には「出口王仁三郎と田中智学の『世直し』を現在に問う」として、「百年前、1920年前後の近代日本――スペイン風邪によるパンデミック、第一次世界大戦の災厄、関東大震災の災害は今日の日本が置かれている状況を思わせる。この時代、出口王仁三郎と田中智学という宗教上の巨人は他に類を見ない『世直し』をめざし、日本の繁栄を願う『予言』を告げた。出口はスサノヲに自らを託して神道系新宗教の皇道大本を率い、田中は日蓮信仰を究めて仏教系新宗教の国柱会を興す。ともに巧みかつ大胆不敵なメディア戦略で数多くの信奉者を集め、変革を唱えた。ふたりの軌跡と事績、思想と行動を通じて『世直し』と『予言』の真実に迫る怪著」と書かれています。
本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「はじめに」
第一章 二〇二〇年と一九二〇年が問いかけるもの
第二章 世直しと言直し
第三章 大正十年の言直し
第四章 大正十年の言直し(二)
予言の淵源――承久の乱と日蓮の予言
第五章 大正十年の言直し(三)
聖苦と笑いの聖書の物語戦略
第六章 物語の二相系
分裂する日の語りと月の語り
第七章 関東大震災とモンゴル奇行
第八章 人類愛善と万教同根
第九章 西暦一九三一(いくさのはじめ)あるいは
皇紀二五九一(じごくのはじめ)
第十章 西暦一九三一(いくさのはじめ)あるいは
皇紀二五九一(じごくのはじめ)の軌跡
第十一章 昭和十年の異変
「白玉の光」と「歌祭り」の影
第十二章 田中智学と出口王仁三郎の最終メッセージ
「初出一覧」
「主要参考文献」
「重層する時と機――あとがきに代えて」
「はじめに」の冒頭を、著者はこう書きだしています。
「スペイン風邪が大流行を見せた百年前の1920年(大正9年)1月10日、第一次世界大戦後の平和構築に向けて国際連盟(League of Nations)が発足した。その年、日本国内でもっとも活発で急進的な宗教活動を展開したのが出口王仁三郎(1871-1948)の率いる神道系の大本と、田中智学(1861-1939)の率いる仏教系の国柱会という二つの新興宗教団体であった。大本は機関誌『神霊界』(1917年1月1日創刊・大正6年)を拠点に「大正維新」運動を掲げ、国柱会は日刊紙『天業民報』(1920年9月1日創刊・大正9年)を拠点に「世界霊化」運動を展開し、著しく教勢を拡大した。大本はお筆先、鎮魂帰神法や言霊学などの霊学を掲げての世の立替え立直しを推し進め、国柱会は『法華経』に基づく純正日蓮主義と日本国体論による世界統一を強力に推進した」
しかしながら、大本は1921年(大正10年)2月12日と1935年(昭和10年)12月8日、新聞紙法違反と不敬罪や治安維持法違反で検挙され、徹底的な弾圧を受け、国柱会は日本国体論を掲げて石原莞爾らに多大な影響を与え、国家主義を支える一翼となりました。この日本近代宗教史に大きな足跡を残す出口王仁三郎と田中智学に対しては、それぞれ個別に多様で豊富な研究がされてきた。だが、両者の生涯と宗教思想と宗教運動を徹底的に比較対照する研究はなされていないとして、著者は「本書は、同時代を生きる共通点や差異性を持つ特異な人物二人を対照軸とすることで、両者の思想や行動や社会特性をより鮮明に立体的に描き出す実験的な試みである」と述べます。
第一章「二〇二〇年と一九二〇年が問いかけるもの」の「田中智学の『毒鼓論』と『日本国体の研究』」では、宮沢賢治がなぜ田中智学の思想に魅かれたのかについて考える対照軸として、出口王仁三郎の活動と思想を検討することを提案します。そのため、著者は、大本に入信して晩年の宮沢賢治とも交流のあった話者・佐々木喜善(1886年~1933年)について触れます。『遠野物語』の話者で、岩手県土淵村(現遠野市)の村長をしていた佐々木喜善は、大本の熱心な信者でもありました。岩手県(現)花巻市の宮沢賢治の書いた「ざしき童子」の童話を読み、1932年(昭和7年)の4月から5月にかけて、6回も病床にある賢治を訪ね、ザシキワラシの話を中心にいろいろと話をしています。
佐々木喜の同年5月25日の日記には、「仏教の奥義」を聞いたとか、その翌々日の27日には六時間もの長い間話をしたと記されています。この時のことを佐々木は、「豪いですね、あの人は。豪いですね、全く豪いですね」と褒め称えたと関徳弥は「早池峰山と喜善氏」(『岩手日報』昭和8年10月27日付け記事)に書いています。著者は、「もともと文学青年で霊視的体質を持っていた佐々木喜善はザシキワラシについては民俗学的研究の担い手であり、その道の専門家であると同時に大本教徒でもあり、宗教的世界観と運動に深い理解と関心を持っていた。熱烈な法華経信仰を持ち、国柱会に入会所属していた賢治とは、思想信条が異なっていたとはいえ、共振共鳴するところが多々あったのである。1933年(昭和8年)9月21日に賢治は満37歳で死去するが、その8日後の9月29日、賢治の後を追うかのように、佐々木喜善は満46歳で死去している」と述べます。
「出口王仁三郎の『霊主体従』思想」では、出口王仁三郎の思想の核心は「霊主体従」であると指摘しています。これを田中智学的な文脈に置き換えると、「道主食従」となります。つまり、人としての本質相に霊性があり、道があり、その霊性や道に基づいて物質的な生活様式や食生活が行なわれなければならないというのが彼らに共通した思想構造だというのです。「食」本位は欲望に衝き動かされた利己的な奪い合いをもたらし、必ず搾取や闘争を引き起こすと指摘する著者は、「それは出口王仁三郎の言葉では『体主霊従』、つまり、物質的な欲望に霊性が侵食され呑み込まれ本来的な自己を見失っている状態であるとされる。この『体主霊従』的な生き方が「われよし」、つまり自分一人がよければよいというエゴイスティックな生き方にある。またその『われよし』を『利己主義』とも『弱肉強食』とも言っている」と述べます。
第二章「世直しと言直し」の「世直しとしての言直し――出口王仁三郎の言い換え力」では、出口王仁三郎率いる大本の機関誌である『神霊界』大正9年1臨時号に感染症を防ぐためのマスク着用のこちについて説かれていることを指摘し、著者は「興味深いのは、『魔好く』『マスク』を着用するよりも、『精神をマスグに持ち変へ』ることが大切であると語呂合わせ的に言い換えているところである。『マスグな惟神の大道』に対して、『猛悪な風邪神』を『マツソンの流感』による『生命までも抹損』するもの、つまりフリーメーソンの仕掛け『流感(流行性感冒)』と陰謀史観的な観点で批判していることにも注意しておきたい。ここでは、大本言霊学を提唱して同音多義説を最大限に拡張した出口王仁三郎の論法が繰り広げられている」と述べています。
語呂合わせといえば、著者は以下のようにも述べます。
「猖獗を極めている『カンボウ(感冒)』がどのように皇道大本を侵そうとも、『平生の敬神の徳』によりたとえ感染しても大事に到らず、若い役員などは『カンボウの代りにアカンボウ(赤ン坊)を沢山拵らへ』ているのは『御神徳』の賜物であり、『感謝の至り』であるという。このような状態なので、『感冒』の方も終には『アカンホウ』と『断念して逃走して仕舞ふ』と笑い飛ばしている。この語呂合わせ的な言い換え力」
著者によれば、田中智学が説いている「天壌無窮」とか「世界統一」とかの言葉は、皇道大本の主張点とも重なっているといいます。教義や基盤が仏教系と神道系という基本的な違いがあるにせよ、同時代の宗教運動として両教団は驚くほどよく似た主張点を持っていたのです。しかし、両者のもっとも大きな違いは、田中智学が日蓮主義を介する形ではあるが天照大神を基軸とした熱烈な国体信仰を持っていたのに対して、出口王仁三郎は素戔嗚尊の霊統という自覚を持って活動していた点であると指摘し、「つまり、両者の『国体』の中核にある神意・神力が異なっている点である。このことが、後の国家の両団体に対する見方を左右する信仰的・教学的分岐点となってくることに注意しておきたい」と述べるのでした。
「田中智学の純正日蓮主義の言直し」では、日蓮宗という堕落し切った宗門の教学などではなく、「純正日蓮主義」という理解と覚悟に基づいて実践的に日蓮主義を貫くというのが田中智学の思想であり実践であると指摘します。このような基本的視座をもって、智学は、「日本建国の来由」、「日本国体の内容」、「日本国家の使命」をこの「日本国体の研究」で明らかにしようと欲し、大正10年1月1日より12月28日まで1日も休まず全5篇25章171節の大論考を『天業民報』に連載し続け、まさに入魂の作として完成し、翌大正11年4月23日に国柱会の出版部門である天業民報社より初版を刊行したのでした。まさにちょうどこの頃に、宮沢賢治は郷里の岩手県花巻から東京に出てきて、国柱会の布教活動を手伝いながら、本郷の印刷工場で働き、「龍と詩人」と題する童話を書いていました。著者によれば、この「龍と詩人」は、宮沢賢治の詩人観と詩作法を考える上で大変重要な作品であるといいます。賢治はここで詩人を「予言者、設計者」と捉えています。
「龍と詩人」では、風や雲や波の自然の歌う「うた」を聴き取って、それを直ちに人間の言葉に移し替えて「うた」にできる者、そのような自然感応者が詩人であるとして描かれています。加えて、「陸地」や「あしたの世界」の意志や意図を鋭く感知して「まことと美との模型」として現実化できる者。つまり、自然との感応道交に基づく世界意志の感知者・共鳴者にして実現者。そのような「予言者」であって、世界の「設計者」である者、それが「詩人」であると宮沢賢治は「龍と詩人」に書き込んだのでした。著者は、「このような『予言者、設計者』としての詩人とはまずもって日蓮に他ならない。日蓮は蒙古襲来や戦争を予言したことでよく知られている。日本という国の大災難を予言し、その対策として法華経に基づく法華国家の確立を時の政権に諫言した」と述べます。
さらに、日蓮は、法華経が発信「授記」する世界意志のメッセージをダイナミックに読み取り、「陸地がさういふ形をとらうと覚悟する/あしたの世界に叶ふべき/まことと美との模型をつくり/やがては世界をこれにかなはしむる予言者、設計者」として末法の世の乱世を正しました。著者は、「その日蓮の遺志を後代に正しく引き継ぐ者が田中智学である。宮沢賢治はそう確信して、大正9年10月に国柱会信行部に入会したのである。そして、国柱会館に通いつめながら『緑の新聞』と呼ばれた『天業民報』の発送を手伝った。『銀河鉄道の夜』の中で、ジョバンニがどこにでも行ける不思議な『緑の切符』を持っていることが描かれているが、これは『天業民報』を指しているとも指摘されている」と述べています。
1926年(大正15年)に設立した羅須地人協会のマニフェスト『農民芸術概論綱要』の「序論」で、賢治は「正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである」と宣言しました。「銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行く」という宇宙感受と応答を実践する者とは「龍と詩人」で示された「予言者、設計者」と同じ者であると指摘し、著者は「詩人は銀河の『うた』を聴き取るものでなければならない。地球の声と意志を聴き取るものでなければならない。宇宙の意志を聴き取り、地球の方向を感受してそれに応じて行く『予言者、設計者』でなければならない。宮沢賢治はそのような詩人予言者を、『日本国体の研究』を『天業民報』に連載し続ける田中智学の中に見て取ったのである」と述べます。
第三章「大正10年の言直し(一)」の「大正10年における田中智学の言直し」では、田中智学はこの年還暦を迎え、自身の節目を強く意識していたことが紹介されます。そして、親交のある坪内逍遥からの強い依頼もあって日蓮の佐渡流罪の時期をドラマ化することを決意し、懸命にその制作上演に取り組んでいました。その年の1月23日、宮沢賢治は花巻の家を出奔して上京し、国柱会本部を訪ね、「下足番でもビラ張りでも何でも致しますからこちらでお使ひ下さいますまいか」「関徳弥への手紙」『宮沢賢治全集9』筑摩書房、1995年)と頼みましたが、まずはどこかに落ち着いてから相談しましょうと体よく断られています。
そこで、宮沢賢治は本郷で下宿を探し、文信社の筆耕や校正の仕事に従事しながら国柱会の街頭布教や奉仕活を手伝うことになり、2月に入って、高知尾智耀から文芸による法華経の広宣を勧められ、本格的な創作を開始したのでした。この田中智学の活動の影響やインパクトを受けたのは宮沢賢治ばかりではないとして、著者は「10歳年下ではあるが、ほぼ同時代に活躍した出口王仁三郎にも大きな刺激を与えたと思われる。というのも、田中智学は、出口王仁三郎に先駆けて、実に多様で多彩な創作活動やメディア活動を展開しているからである。そこで、出口王仁三郎を始めとする皇道大本の面々は、田中智学と国柱会の活動を意識せずにはいられなかったであろう」と述べています。
「大正10年における出口王仁三郎の言直し」では、大正10年2月12日に第一次大本事件が起こったことが紹介されます。国家による宗教弾圧事件ですが、皇道大本はこれまでの「鎮魂帰神」などの活動を継続することはできなくなり、次の方策として、出口王仁三郎は『霊界物語』という奇想天外な一種の一大叙事詩を口述筆記していきます。これが、大正10年における出口王仁三郎の言直しでした。著者は、「それまでは、出口なおの筆先を基にした大本神諭と鎮魂帰神法を修行法とする霊学を2本柱としていた。が、これ以降、隠喩やアナロジーに満ちた『霊界物語』が中核的なメッセージを発信し始めることになる。これにより、大本の言直し・世直し運動は明確に第2段階に突入したのである」と述べます。
『霊界物語』は、第一次大本事件後の大正10年10月18日から口述筆記が開始された全81巻83冊に及ぶ一大叙事詩とも、大河小説とも、“大海小説”とも言える膨大な口述書で、近代日本宗教史の奇観を呈する創作です。100字詰め原稿用紙で約10万枚にものぼる原稿量は圧倒的で、早い時には3日に1冊できあがったという信じられないスピードで5年間で72巻を口述し終えました。その内容は、「聖師様」と呼ばれることになる出口王仁三郎が、20代の霊学探究の過程で、高熊山の修行の際に透視した霊界の実相世界を表わしたものとされ、霊界漫遊記とも言える不思議な著作となっています。特に、「天祥地瑞」の巻に描かれた神秘的な宇宙の発出を始め、神々の因縁と活動、神の経綸、国祖神の隠退と再現、大本出現の由来、神と人との関係、霊界の実相などが、実に目もあやなスペクタクルな展開で、「神芝居」のように演じられます。
そのビビッドでダイナミックな展開の中で、出口王仁三郎の神観や世界観や人生観が渦巻くように物語られており、話題は、政治や経済から、教育や芸術や科学や医療や食生活に至るまでありとあらゆる素材と課題が包括的に網羅されていて、聖俗百科全書とも言える側面を持ちますが、決して体系的に整理されたエクリチュール的な叙述ではなく、口承的な語りなので、漫談のような愉快で陽気な痛快さとスピード感があります。そのこともあって、硬めの論文調から、笑いを誘う漫談や講談調、演劇調、歌謡調など、種々の文体やスタイルが含まれていて、一大「モノガタリ・マンダラ」と言うべきものとなっています。
第四章「大正十年の言直し(二)」の「倉田百三と日蓮の思想」では、法然の『選択本願念仏集』は末法の世を暗黒モデルとして捉え、そこから「極楽浄土」への脱出すなわち「極楽往生」による救済と解放を説きましたたが、それはしかし、個人の安心の創出とはなっても、この現実世界の安全やそこでの人々の安寧の創出とはならないことが指摘されます。日蓮が目指したのは、あくまでも、この娑婆世界、現実世界での「安国」の建立でした。その「安国モデル」の「設計者」としての日蓮を、田中智学も宮沢賢治も必要としたのです。「予言者」であり、「設計者」である日蓮は、安国モデルを提示しつつも、より具体的なその実現法として「南無妙法蓮華経」という題目を唱える唱題行を提示しました。
加えて、日蓮は佐渡島での法華経探究の過程で、独自の曼荼羅、すなわち本門の本尊として多宝如来や釈迦牟尼仏や上行菩薩や浄行菩薩などとともに、特に天照大神と八幡大菩薩を日本の神々として配した文字曼荼羅を考案していきました。この曼荼羅中の日本の神々についての特記に関して、天照大神が天皇(国王)の守護者、八幡大菩薩が将軍や執権(国主)の守護者と考えれば、日本の国を総覧する二大守護神が法華経を守護するという象徴構造を表わしており、法華経を統合的中心点とした包括的守護国家曼荼羅像を「設計(発明)」していると言えるでしょう。重要なことは、真ん中に「南無妙法蓮華経」という題目が大書されていることと、その周りの関係する仏、菩薩、明王、神々、人物がその体現者・受持者・守護者・行為者として配置され、あたかも鉄壁の守りと威力を放つ法華経城のように「設計」されている点です。これは明確なる設計図であり、独創的な宗教的発明品でした。
第五章「大正十年の言直し(三)」の「第一次大本事件と『神霊界』」では、大正10年10月20日、出口王仁三郎は『霊界物語』の「序」をしたためたことが紹介されます。そこでは、この物語が、「天地剖判の初め」から「天の岩戸開き」の後、「神素盞嗚命が地球上に跋扈跳梁せる八岐大蛇を寸断し、つひに叢雲宝剣をえて天祖に奉り、至誠を天地に表はし五六七神政の成就、松の世を建設し、国祖を地上霊界の主宰神たらしめたまひし太古の神代の物語および霊界探険の大要を略述し、苦・集・滅・道を説き、道・法・礼・節を開示せしもの」であると力強く宣言しています。著者によれば、ここには「法難聖書」を現代のスサノヲ=キリストが身に受けるべく「経綸」と受け止めつつも、そこからの次なる飛翔をもくろむ、不敵で明朗な笑いが秘められているのでした。
第六章「物語の二相系 分岐する日の語りと月の語り」の「『霊界物語』の口述開始」の冒頭を、著者は以下のように書きだしています。
「日本国内のみならず、全世界をヤマタノヲロチが大混乱させている。それは戦争、疫病、貧困として具現し、人心も荒廃している。それを何とかして鎮めねばならない。そのような強い危機感を『神霊界』大正10年(1921)3月号に出口王仁三郎は表明した。が、それが出た頃にはすでに不敬罪と新聞紙法違反で検挙されていた。出口王仁三郎が言うほどにヤマタノヲロチ退治は容易ではなく、そのモンスター的姿はさまざまな広がりと変幻自在さを持っていたのである。それゆえ、ヤマタノヲロチに対峙するためには、こちらの側も覚悟してうまく身をやつしながら対処していかねばならない。出口王仁三郎は検挙が事実となってみて、この闘いの容易ならぬ底深さに身震いする思いだったのではないだろうか」
この時、それまで以上に芸能・芸術というワザヲギ・表現形態が活用されることになりました。なぜなら、わが国におけるワザヲギの始まりを告げる天の岩戸の物語とは、神聖演劇的儀式、すなわち祭りを行なうことによって、岩戸の中に隠れてしまった至上至貴の天照大神を再生せしめる儀式でしたが、「第二の天岩戸開き」を掲げた皇道大本においては、第一の天照大神とは異なる神格の甦りと顕現をもくろんでいたからです。それが、天照大神とは対峙・対決することになるスサノヲノミコトの神格、すなわち出口王仁三郎に引き継がれた「瑞の御魂」の神格の全面展開であるとして、著者は「これをスサノヲの道として定立する。出口王仁三郎の物語戦略というのは、そのスサノヲの分子化・分身化であった」と述べています。
出口王仁三郎は、検挙され、懲役5年の刑が求刑されて、いっそう鮮明に皇道大本とそこにおける自身の立ち位置を自覚した、せざるを得なかったと思われます。それが、結局は、『霊界物語』という日本宗教史に前例のない長大な「物語」の語り出しとなりました。それはしかし、誰しもがすんなりと読みこなせるような内容ではなく、いい意味でも悪い意味でもコラージュ的でごった煮のような、パッチワーク的な物語集成ではありましたが、しかし、そのようなつぎはぎをすることによって、王仁三郎のこれまでの仕事の集大成を試みつつ、頭のよい官憲や捜査員の理性を攪乱し、惑わしつつ、信徒やシンパには何とでも受け取れるような壮大にして深奥な暗号的かつ象徴的なメッセージを仕掛けるという、謎解き暗号文書のような工作を示すことができたのです。著者は、「それは確かに窮余の一策ではあったが、しかし、官憲の厳しい監視下での実に巧みな反撃でもあったと言える。『霊界物語』の口述とは、『大正維新』という正面突破の『第二の天岩戸開き』ではなく、第二のヤマタノヲロチ退治という出口戦略となったのだ」と述べます。
「田中智学による芸術の霊化」では、出口王仁三郎が検挙され、責付出獄となり、『霊界物語』を口述していた時、田中智学も大きな転換期を迎えていたことが指摘されます。田中芳谷『田中智學先生畧傳』(師子王文庫、1953年)によると、第1に、この年が、日蓮聖人「聖誕七百年記念事業」の年で『聖史劇佐渡』を作って3月5日より歌舞伎座で上演していたこと、また、第2に、機関紙『天業民報』に「日本国体の研究」を連載していたこと、第3に、4月28日に国柱会総裁と『天業民報』主筆の座を退職し、「退隠宣言書」を公にしたこと、第4に、11月12・13・14の3日間にわたって鶯谷国柱会館で「還暦祝賀会」を開いたこと、そして、同16日には「還暦寿賀内祝会」を神田明神境内の料亭開花楼で開催したこと、などです。同年が、田中智学にとっても重要な節目の年であったことがよく分かります。
田中智学は、出口王仁三郎よりいち早く芸術を宣教活動にフル活用していましたたとえば、明治38年(1905)の機関誌『妙宗』新年号には、巻頭歌「法のためいざたゝかはむいのち毛の 筆の剣のさきちびるまで」の他、新体詩「首途」が掲載され、3月号には「桃の下逕」が、また4月号には「旭の森」が発表されています。さらには、翌39年(1906)の『妙宗』百号記念祝賀大会では、長唄「百代師子」「池上八景」「身延名所」、常磐津「船守」、筑前琵琶「小松原」が作られ、発表されています。このように、長唄、常磐津、雅楽、新体詩、謡曲、歌曲の作詞、狂言、能、演劇などなどの創作を続け、それらが集積して大正11年(1922)1月の「国性文芸会」の創立となったのです。著者は、「この点では、田中智学の創作の多様性とその先駆性にはまことに目覚ましいものがある」と述べています。
「国柱会と皇道大本における『世直し』の方法と内実」では、宗教学的な分類として、国柱会と皇道大本を「世直し宗教」と包括することはできますが、しかしながら、その「世直し」の方法と内実は大きく異なるものでした。純正日蓮主義の田中智学は『法華経』と天照大神-天皇の冥合という「日の神学(教学)」を唱え、退隠神艮の金神から発する皇道大本は出口王仁三郎が「瑞月」と名乗って『霊界物語』を口述し始めたようにスサノヲ的「月の神学」を唱えるものでありました。そのゆえ、その「月の神学」は「日の神学」の圧迫と追放を受けねばなりませんでした。
著者は、「田中智学的日光と出口王仁三郎的月光。まさに陽と陰のように対照的な二人が、同じ年のほぼ同時期に互いの霊性を露わにし、その『霊化』の道を明確に示していったのである」と述べます。田中智学は日蓮的法華経と天津日嗣日本国体学に基づいて、さまざまな芸能・芸術形式をフル活用しながらいち早く「芸術の霊化」を本格的に推し進めていきました。それに対して、出口王仁三郎は責付出獄の後、『霊界物語』第一巻において、その「霊化」の道をそれまでの大本教義に基づきながら「霊主体従」として示し、具体的には自己の霊的探究と体験の原点である青年期の「霊山高熊山」での1週間の「霊的修業」としてまず語り出しました。そして、その「霊化の道」が日の神学としての天照大神の系流ではなく、月の神学としてのスサノヲの霊系であることを、そしてそれがスサノヲの放った「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」の歌の道であり、ヤマタノヲロチという世界怪物退治の道であることを膨大な『霊界物語』の物語を通してスペクタクルに示していったのでした。
「関東大震災と寺田寅彦、田中智学」では、田中智学率いる国柱会本部は「物心両面の救護」に挺身しましたが、著者は「それに対して、東京から遠く離れた岩手県花巻の地方会員の一人にすぎなかった宮沢賢治は、今に言う『心のケア』や『グリーフケア』や『スピリチュアルケア』の心を詩と童話に表わしたと言える」と指摘します。そしてそれは、「鳥と虫とは鳴けども涙おちず。日蓮は泣かねども涙ひまなし。この涙世間のことには非ず。ただひとえに法華経の故なり。若ししからば甘露の涙とも云つべし」と流罪先の佐渡で『諸法実相抄』を著わした日蓮の悲哀の涙と通じるものであり、師である田中智学の「芸術の霊化」の賢治なりの実践であったといいます。
第七章「関東大震災とモンゴル奇行」の「出口王仁三郎のモンゴル行」では、特筆すべきは、田中智学の特異な聖地感覚とも言うべきものについて言及しています。田中智学は、ハレー彗星が到来した明治43年(1910)という大転換の年に、本部を大阪から静岡県三保松原に移転し、昭和五年(1930)までその地を本拠としました。言うまでもなく、三保は霊峰富士山を仰ぎ見ることのできる景勝の地であり、そこに「最勝閣」、この世でもっとも優れた建造物と称する和洋折衷的な3階建ての建物を建てたのです。著者は、「羽衣伝説で知られる白砂青松の代表と言える三保松原を本部と選定したその聖地感覚、またその建築設計の構想力は、『東京新都市論』でもいかんなく発揮されている」と述べています。
また、田中智学と出口王仁三郎に共通するのは、そのような独自の特異な聖地感覚や空間感覚で、世直しには世界改造という意味合いがあるので、ソフト面では人間の変容(改造)を指すが、ハード面では都市や国土や本拠地の建物の改造を志向することになるとして、著者は「この点では、『世の立替え立直し』という世直し志向を根幹とする出口王仁三郎と大本も同様であった。出口王仁三郎は出口なおの本拠地の綾部を『地の高天原』とし、明智光秀の居城亀岡城を大正8年(1919)に買い取り、そこを『天恩郷』と名付けて、布教活動の拠点としていった」と述べるのでした。
出口王仁三郎は、「我大本」はあの世での救済を求める宗教ではなく、世界平和と幸福の実現に向かう「神業」を「奉仕」する「神の経綸」あるいは「神界の深き経綸」の奉仕団(「新宗教」)であるという認識を示しています。それゆえ、神の経綸の具体的な表われである「御神示」(筆先)に「大正十年の節分が済みたら、変性女子の身魂を神が人の行かない処に連れ行くぞよ」と予言があり、その「人の行かない処」とは「京都監獄」であったと述べています。そして3年後の今回もまた「人のよう行かない処へ行かねばならぬ神の使命が下つて来た」と直感し、それが「渡支渡蒙を決行せむ」ことでした。つまり、「征伐」でも「侵略」でもない、「善言美詞の言霊」によって「万国の民を神の大道に言向和す」神業のために、まずは中国とモンゴルに行くのだというのです。
とりわけ強調しておく必要があるのは、この当時の日本国家が「征伐」や「侵略」に大きく傾斜していく傾向を持っていたのに対して、そのような「武力」でも、また「智力」でもない、「精神的結合」をもたらす「言向和す」神業に邁進していくのが大本だとしている点だということでした。著者は、「つまり、東アジアの『精神的結合』や『東亜の天地を精神的に統一』(「錦の土産」)するというビジョンになるが、これは後に国柱会の会員であった石原莞爾が提唱した『東亜連盟』論にも通じる東アジア変革構想でもあり、また『五族協和』や『大東亜共栄圏』という軍事的侵略の野望とも接続する微妙な軍事政治性を持っていた」と述べています。
「スサノヲの化身としての決意と大本の新世界戦略」では、出口王仁三郎の「言霊別」の言語分別について言及し、著者は「この言語分別は、大きく2種類の分別を生み出す。1つは、言語表現のジャンル(領域)における分別である。田中智学も同様であるが、戯曲(演劇)、和歌(短歌)、長詩、詩吟、都々逸、小唄、浄瑠璃、俳句、音頭など、実に多種多様な言語表現の領域をカバーし、分別している。そのさまは、まことにポリフォニック(多声的)で、幻惑的ですらある。もう1つは、言語主体の分別である。つまり、言語を発する主体の『別』、分身変身である。それが、名前の違いにもつながってくる。『古事記』や『日本書紀』には、大国主神は七つもの異称・別称を持っていたことが記されているが、出口王仁三郎もそのような異別称の人であった。特大の名刺はその標章である」と述べるのでした。
第八章「人類愛善と万教同根」の「石原莞爾の世界最終戦争論」では、宮沢賢治は、よく知られている「雨ニモマケズ」の詩行を書きつけた手帳の中で、その詩篇の後に、四導師を繰り返しくどいほどに記していることが紹介されます。四導師とは上行菩薩、無辺行菩薩、浄行菩薩、安立行菩薩の「四菩薩」のことです。法華経の行者を任じた日蓮も田中智学もその門弟の石原莞爾も宮沢賢治もみな、この「四導師」のことが常に念頭にあり、彼らの行動の指針ともなっていました。著者は、「重要な点は、石原莞爾が関東大震災の地震と『法華経』従地涌出品に描かれた『震裂』とを重ね合わせて理解し、法華経的予言の成就の時が近づいていると捉えた点である。この時、石原は、『世界大戦争』が『二三十年後』に起こると解釈したことに注意したい」と述べています。
「出口王仁三郎『入蒙』の反響」では、第一次大本事件と関東大震災の後の出口王仁三郎は、田中智学の日本国体論とは対極の方向の霊性的インターナショナリズムに深入りしていったことが指摘されます。そもそも、王仁三郎は大本の機関誌『神の国』大正12年5月25日号の中で、「大本には基督教も其他各国の宗教信者も集まって来て互にその霊性を研き、時代に順応したる所であります」と述べ、大本はキリスト教とか仏教とかの宗教・宗派に関係なく、互いにその「霊性」を磨き、時代に順応した「教養」を研究するところであると主張し、超宗教的かつ脱教団的拠点としての大本であることを強調していました。そこにおいて、「霊性」は教団宗教的な立場を超えた普遍的な人間的本質として捉えられているのです。
その方向が、エスペラント語の学習および普及の拠点としての大本につながり、またそのような共通言語思想とつながる共通宗教的(通宗教的)思想として「万教同根」の思想を展開していきます。エスペラントを大本が採用したのは関東大震災の2ヶ月前の大正12年7月であり、また万教同根思想に基づく「世界宗教連合会」を設立して北京で創立大会を催したのが大正14年(1925)5月20日です。その翌月の6月9日に「人類愛善会」を設立しています。世界宗教連合会の創立大会は北京の悟善社で行なわれましたが、この発会式に参加したのは、大本のほか、道院、道教、救世新教(悟善社)、仏陀教、イスラーム、仏教、キリスト教などの各宗派・宗教でした。この時、総本部を北京に置き、東洋本部を大本の亀岡に置くことを決めました。
この会に参加し、名を連ねたのは、大本、道院、生田神社、その他の神社、神戸市仏教連合会、浄土宗・浄土真宗・禅宗・時宗・真言宗、天理教、神戸YMCA、ハリストス正教会、ヒンドゥー教、阪神駐在中華民国領事館、在日華僑団体などでした。ここで謳われているのは、今に言う「宗教間対話」や「宗教間協力」です。これは、近代日本にあって、諸宗教間対話や協力の具体的な成果であり、関東大震災が契機となって始まったものだと言えます。宗教や思想の「相互の融和親睦」、「人類世界真個の共存共栄」、「大精神の真髄」、「真個和楽の郷土を建設」、「宗教本来の真意義」、「地上最高理想郷の開顕」を高らかに宣言し、世界宗教連合会のビジョンと目指すべき方向性を示すのです。出口王仁三郎がこの世界宗教連合会に注力したのは、彼の信念である「万教同根」の思想ゆえでした。そして、万教同根思想をより強く深く大本内で定着・実践するための機関として、世界宗教連合会の発足のすぐ後の同年6月5日に「人類愛善会」を作り、6月9日に綾部の五六七殿で、発会奉告祭典を行ないました。
出口王仁三郎の言う「万教同根」と「愛善」の心と行為とは表裏一体の関係にあります。そこには、現実的には実に多様な形を持っている宗教も人類も根本のところで、一なる心性から発している源流同一史観があります。「万教同根」とは、出口王仁三郎が掲げた教団名の「大本」の別名でもあるのです。「大本(大元・大源)」から見れば、すべては同根からの多様な流出です。現実の現象的な「多」は根源的な「一」によってつながり、結ばれています。そのような根源的な同一性と同源性を持つがゆえに、私たちは理解し合い、「親睦融和」を図ることもできるのです。著者は、「そのような新プラトン主義の一者(to hen)や流出(emanatio)の思想にも似た元型・雛型思想が出口王仁三郎にも大本にも強くある」と喝破。
明治45年(1912)6月20日に、宮沢賢治の妹の宮沢トシが学んだ日本女子大学校の創立者である成瀬仁蔵や東京帝国大学の初代の宗教学教授である姉崎正治や実業家の渋沢栄一らが設立した会に、「万教帰一」の思想に基づく「帰一協会」がありました。キリスト教、仏教、神道など、諸宗教のみならず、階級や国民や人種の「帰一」を目指す宗教間親睦団体でした。同会の目的として、会則の第一条には「精神界帰一の大勢に鑑み、これを研究し、これを助成し、もって堅実なる思想を作りて、一国の文明に資する」ことが謳われたのです。この「帰一」思想が、宮沢トシを通して宮沢賢治にも大きな影響を及ぼしました。
出口王仁三郎が次々と繰り出していく施策や皇道は、それについて半信半疑であった者に対しても、このエネルギーと社会的影響力が尋常ではないことをはっきりと感じさせます。それによって、徐々に周囲の人々も王仁三郎に対する評価を変えていったというのが実際の状況であったのではないだろうかとして、著者は「重要なことは、その出口王仁三郎の施策の中核に、『万教同根』思想と密接に連関する『芸術』表現があった点である。芸術表現と解釈や評価の多様性は人々に自由を与える。それによって物の見方の固着を外す。王仁三郎が採った戦略は、『万教同根』思想による根源的な同一性と、芸術表現による現象的な多様性である。それが『巻けば一神、開けば多神』の具体相であった」と述べるのでした。
第九章「西暦一九三一(いくさのはじめ)あるいは皇紀二五九一(じごくのはじめ)」の「満州事変と石原莞爾、出口王仁三郎」では、田中智学の八紘一宇論は、大日本帝国の侵略戦争を肯定するイデオロギーとなり得ることが指摘されます。それに対して、出口王仁三郎の人類愛善運動はそれを批判する思想性を内在させているといいます。王仁三郎は常日頃から戦争への批判を口にしてきました。しかし、現実はそれほど単純ではありません。出口王仁三郎は確かに世界紅卍学会と提携して満洲の難民救済運動を展開しましたが、けっして関東軍の侵略戦争を全面否定していたわけではないのです。むしろ、「東亜の経綸」をして、その鵺的で両義的な「皇道大本」のありようが、「昭和神聖会」の活動を通してよりいっそう矛盾と両義性を露わにしていくことになるのでした。
1920年代から1930年代に起こったことと、100年後の2020年代から起こってきていることと、直接的な相似性があるわけではないという著者は、「にもかかわらず、第一次世界大戦とスペイン風邪、コロナパンデミックとウクライナ侵攻には、実にきな臭い類似の因果律が仕組まれているようにも思える。田中智学も出口王仁三郎も、危機と法難の中から活路を引き出した強靭な宗教思想家であり、運動家である。だが、その彼らにしても、誤った見立てと独断と解釈を免れることはできなかった。その誤謬や誤判断を含め、この100年前の二人の思想と行動を照らし合わせることが、現在と未来を考える真澄鏡となるだろう。われわれは今、『いくさのはじめ』と『じごくのはじめ』の只中に投げ込まれているかに見えるからである」と述べるのでした。
第十一章「昭和十年の異変 『白玉の光』と『歌祭り』の影」の「昭和十年の田中智学と出口王仁三郎」では、昭和6年(1931年)に勃発した満洲事変が「大日本」の「国体開顕」の到来であるという見方を紹介し、その当時、それは田中智学一人だけのものではないことを指摘します。多かれ少なかれ、当時の多数の日本国民がそのようなイメージや考え方を持っていました。そしてそれが昭和12年(1937)の文部省教学局刊行の『国体の本義』にまでつながることになります。著者は、「この『国体の本義』の思想的骨格は『万世一系』を説いた会沢正志斎の『新論』などの後期水戸学にあり、それに多少、国学的な味付けを加えたような内容で、『万世一系』や『神聖不可侵』や天皇の大統帥権を規定した大日本帝国憲法(明治憲法)の天皇条項の延長線上にある」と述べています。
「出口王仁三郎の『歌祭り』」では、スサノヲが示した真意の道であり、具体的な世直し実践でもある第1回目の歌祭りをして1ヶ月ほど後に、出口王仁三郎と皇道大本は徹底的な弾圧と破壊により、その神殿施設はすべて取り除かれることになったことが紹介されます。第二次大本事件です。それは、日本宗教史上、織田信長の比叡山焼き討ちに匹敵する宗教弾圧、宗教攻撃でした。出口王仁三郎と大本の神八重垣の構築は大きな挫折を経験することになったのです。著者は、「このようにして、田中智学のアマテラスの道と出口王仁三郎のスサノヲの道は、限りなく接近遭遇しながらも、昭和10年に明暗を分けるかのように苛烈に分岐していったのである」と述べるのでした。
「歌祭りと耀盌のいぶき」では、出口王仁三郎は、彼が変装しながら作った「一人百首かるた」のように、「海潮・天爵道人・王仁博士・瑞月・真如・月の家・月の家和歌麿・月の家風宗・月の家閑楽」など、50種以上の号を用いて、自在に変身や変容を重ねた特異な宗教的キャラクターであったことが紹介されます。しかし、その出口王仁三郎が取った多様多種で派手やかなメディア戦略は、ほぼすべて、すでに田中智学が先行して実験的、実践的に行なっていたものばかりであると指摘し、著者は「にもかかわらず、生真面目と言える田中智学に対して、鵺のように正体を明示しない不思議な変容力のある出口王仁三郎は、その特異なキャラクターも相俟って、2度の弾圧を掻い潜って極めてユニークな神楽的でエンターテインメントな展開を成し遂げた。そのさまは、日本宗教史を通覧してみても特異でもあり痛快でもある」と述べています。
出口王仁三郎の自由自在なスサノヲぶりの展開は、まず、大正10年(1921)に起こった第一次大本事件での逮捕から出獄した後に口述し始めた『霊界物語』の自由自在さと変幻自在さとして表現されました。またそれは、同時期に、バハイ教、道院・紅卍字会、普天教、白旗団、白色連盟、ラマ教、カオダイ教などの世界の諸宗教と提携していく「万教同根」、「人類愛善」の道とも表裏一体のものでした。大正12年(1923)にはエスペラント語の普及運動を始め、大正13年(1924)には責付出獄のままモンゴルに入国し、パインタラ(現モンゴル自治区通遼市)で現地の軍隊に捕まって銃殺寸前に追い込まれましたが、間一髪、命拾いしました。その後も、北京で世界宗教連合会、国内で人類愛善会を設立。『人類愛善新聞』を創刊し、昭和9年には100万部頒布を達成し、新宗教教団として積極的な攻めの教化活動を展開し続けました。
著者は、『古事記』以降の日本文化を貫く「見立て」とも連動する大本は世界の「型(雛型)」であるという思想から、大本への弾圧は太平洋戦争の敗北の型であるという解釈が生まれてきたと述べます。つまり、世の立替え立直しの型的神業を行なう集団が大本で、その指導者が出口王仁三郎という信仰と解釈行為です。その「大本」を立替え(破壊)立直す(再生)ことによって世界を「みろくの世」(地上天国)に改造し、「大本」に起きた出来事はすべて日本と世界に起きてくるという思想解釈により、筆先(『大本神論』)と『霊界物語』を中心的聖典として読み解いていくのでした。
たとえば、その解釈では、第二次大本事件とその後の太平洋戦争の対応関係は次のようになります。昭和9年7月22日の昭和神聖会の発足から第二次大本事件への流れは、昭和15年7月22日の第二次近衛内閣組閣から太平洋戦争の敗戦という流れに重なるとされます。また、昭和10年12月8日未明に起きた第二次大本事件は、昭和16年12月8日未明の真珠湾攻撃の型となったと解釈され、大本弾圧と太平洋戦争の勃発が重ね合わされます。さらに、昭和11年4月18日の綾部・亀岡の強制売却は、昭和17年4月18日の東京などの本土への空襲と重ねられました。さらには、昭和20年9月8日の大審院判決による大本事件の終結は、昭和26年(1951)9月8日に締結されたサンフランシスコ講和条約に結びつけられ、太平洋戦争の終結と重ねられていくのでした。
「出口王仁三郎の事績」では、こうした出口王仁三郎のスサノヲ「芸術」活動は、詩歌に始まり、書画、陶芸、建築、造園、演劇、映画などあらゆるジャンルとメディアにまたがっていることが指摘されます。その多くは先行して田中智学が手掛けていました。民族学者の梅棹忠夫は出口王仁三郎の活動を大局的には評価しつつも、その作品の「趣味のわるさ」を「大本は、豪華ではあったが、いわば竜宮的な趣味のわるさがあった。わたしの記憶にはないが、写真を見ても、本殿の月宮殿などもずいぶんゴテゴテした建物だった。いなかのお百姓をおどろかすには足るけれど、いかにも新興宗教的ないやらしさがあった」と述べています(『日本探検』中央公論社、1960年)。著者は、「確かに月宮殿やいくつかの作品にはキッチュな悪趣味のようなものが感じられるとも言えるが、それを江戸時代の歌舞伎や戯作文学などの大衆文芸の文脈に置くと、どうということもなく、すんなりとその脈絡を辿ることができる。同時に、このような悪趣味とはまったく異なる透明感や哀切を出口王仁三郎の作品から感じることもある」と述べています。
「田中智学と出口王仁三郎という対照軸」では、自由自在、変幻自在で多少ともいいかげんに見える出口王仁三郎と、厳格無比で極めて理性的かつ倫理的で、論理的整合性と倫理性を筋を通して主張していく田中智学とは対極的な宗教家に見えるということを指摘します。著者は、「前者は庶民的で民俗的なメタファーに満ちているが、後者は極めて知的で高潔な世界倫理性を身に纏っている。そのことは、同じ岩手県人でありながら『遠野物語』の話者の佐々木喜善が大本信者となり、宮沢賢治が国柱会の信者となった分岐点とも重なってくるように思われる」と述べます。
佐々木喜善は茫洋として掴みどころがないところがあるが、宮沢賢治は大変ストイックで煮詰まってしまうところがあるという著者は、「いいかげんで包摂主義で『万教同根』に持って行く出口王仁三郎――佐々木喜善と、すべてをいいかげんにできず、折伏的に法華一乗を努めていく田中智学――宮沢賢治の違い。そのどちらも、大きな魅力と吸引力を持っている。前者が楽天的であるとすれば、後者はより受難苦悩的である。にもかかわらず、出口王仁三郎は二度にわたる弾圧を受けることになった」と述べます。
出口王仁三郎は新聞社や映画製作所を買収して当時の先端メディアを駆使した教化活動を展開すると同時に、「万教同根」を唱え、田中智学や宮沢賢治と同様、世界語であるエスペラント語を広める運動を展開し、自ら『エス和作歌辞典』(天声社、1924年)を作り、「NOBELO/貴族/貴族とで恐るることは要らないよ/遠慮せずして意見ノベーロ(述べる)」などと、得意の語呂合わせを使って楽しみながらエスペラント語を普及させていこうとしていました。この気取りのない、ラテン的とも言える底抜けの庶民的な感覚は、出口王仁三郎の言説と行動に力強く大らかな親和力と包容力をもたらしているといいます。
「万教同根」の思想はまた、「一神即多神」の思想に転換します。出口王仁三郎はその構造を巻物に喩え、「一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、之を捲けば一神に集まり、之を放てば万神に分るのである。」(『大本略義』「天地剖判」、『出口王仁三郎著作集』第一巻所収、競売新聞社、1972年)と述べています。こうして、出口王仁三郎は「地上天国」建設を掲げ、「利己主義」と「弱肉強食」を徹底批判しつつ、その発現としての戦争を、「世の中に戦争位悪しきものは無く、軍備位つまらぬものはなし」と徹底批判し、ラディカルな人類同胞主義と平和主義を推進したのでした。
純正日蓮主義と霊主体従主義を唱導した田中智学と出口王仁三郎は、世直し的な宗教的世界変革運動を展開し、共通の多様なメディア戦略を魔術的に駆使しつつまことに独創的な軌跡を日本近代史に深く鋭く刻み込んだと指摘し、著者は「世界中が『災難・受苦』の中にあるかに思える現在この今、田中智学を貫く日蓮主義と国体史観、そして出口王仁三郎を貫く霊主体従主義と隠れたる神の復活史観、同時代にもっともラディカルな宗教運動を創出したこの二人の強烈な宗教家としてのビジョンとその予言的提示を再考し再検討すべき時が来ている」と述べます。
というのも、大本的解釈と文脈では、「令和五・六・七年」は、「令和みろく年」と捉えられ、大変動期とされる。出口王仁三郎は『霊界物語』第四十八巻第三篇「愛善信真」(大正12年刊)において、「みろく」を「五六七の大神」とも、「月の大神」とも、「瑞霊」とも、「神素戔嗚尊」とも言い、「弥勒」という漢字を「弥々革むる力」と解釈しているのです。著者は「さて、現今、『みろくの世』の到来とほど遠い現実ではあるが、しかし、宗教的情熱と実践はその『現実』を突破して未来を拓く可能性を有してもいる。そのような未来可能性を先人たちの偉業の批判的吟味を通して掘り起こしていきたいと考えている」と述べるのでした。
「重層する時と機~あとがきに代えて」では、本書のもとになる『三田文學』(2020年夏季号~2023年春季号までの全12回)の連載を3年間続けながら、重層する時を生きているふしぎな時間感覚の中にいたと告白する著者は、「まず第一に、約100年前の1920年前後。この時期に本書の主人公の2人、田中智學と出口王仁三郎は、共に八面六臂の大活躍をしていた。それぞれ互いに仏教系新宗教の国柱会と神道系新宗教の皇道大本を率いて。そして共に極めて巧妙にして大胆不敵なメディア戦略を講じ、多くの大衆の耳目を集め、話題となった。石原莞爾も宮沢賢治も浅野和三郎も佐々木喜善も夢中になった。ちょうどその頃、スペイン風邪が世界中に広がり、1億を超える死者を出したという。加えて、人類史上特筆すべき「世界大戦」となった第一次世界大戦が終わって、1920年、その戦後処理と平和構築のために国際連盟ができ、新渡戸稲造と柳田國男は日本帝国の指名で同年7月にジュネーブに赴き、新渡戸は事務次長に、柳田は委任統治委員に就任した。が、柳田は2年足らずで委員を辞任し、1923年9月1日に関東大震災が起こった翌日にロンドンで地震の知らせを聞き、同年11月に帰国する。すでにその時までに、田中智学は『東京新都市論』を出版しており、出口王仁三郎は『霊界物語』を30巻以上口述筆記して刊行していた」と述べています。
2024年1月1日、能登半島地震が発生しました。著者によれば、能登半島、特に能登町にある10本のウッドサークルを持つ真脇遺跡は、日本列島の脳髄にして頭頂・脳下垂体・視床下部であり、日本の「奥の奥」かつ「芯の芯」で、そこから真の「むすひ」と「修理固成」が実現しなければ日本列島の再生も賦活も不可能なのではないかとさえ思っているそうです。しかし、現況は、行基や日蓮や田中智学や出口王仁三郎が直面していたように前途多難であると覚悟しているとか。本書をまとめながら、著者は改めて「宗教家」というものの運命というか、人生の不思議さをしみじみと感じているといいます。それは、宗教思想とか、イデオロギーとかでは評価することのできない、もっと神秘不可思議で霊妙な人生航路を辿る異様な旅人の奇妙さであり、測りがたさでだといいます。著者は、「田中智学も、出口王仁三郎も、実に数奇な人生航路を辿った。なぜ、彼らはこのように生きたか? このような生を生き切ったか? その時代に。畏敬とふしぎの感に打たれる」と述べ訂正ます。
そして、著者は「後人の務めとして、彼らの思想に対して、いくらか批判的な言辞も時に投げつけはしたが、それ以上に、今となっては、彼らの切迫感と行動に向かう切実で裂帛の危機感を噴出する『意志』のありどころにふかく感じ入るものがある。誰一人同じ生を歩む者はないが、しかし、だれもが同じ「むすひ」の根源に棹差しつつ、それぞれの『修理固成(おさめ、つくり、かため、なせ Cultivate,create,empower,generate)』を進めるほかない」と述べるのでした。以前から関心が深かった出口王仁三郎の生涯、思想、行動についてはある程度知っていましたが、田中智学についてはほとんど知らないことばかりで、本書は大きな学びを与えてくれました。特に、「なぜ、宮沢賢治のようなマイルドな文学者が国柱会のようなハードな宗教に入信したのだろう?」とずっと不思議に思ってきましたので、田中智学の思想を詳しく知ることができて、わたしは長年の疑問に対して納得する答えを得ることができました。
『古事記と冠婚葬祭』(現代書林)
この大作を読み、出口王仁三郎と田中智学が霊的巨人であったことがよく理解できましたし、本書はこの2人をはじめとした何か大きな存在の御筆先なのではないかとの思いを抱きました。著者が最後に記した「だれもが同じ『むすひ』の根源に棹差しつつ、それぞれの『修理固成』を進めるほかない」とのメッセージは、その方向性と方法を考えて為すという側面からも、日本人として、また冠婚葬祭業者として、さらには『古事記と冠婚葬祭』(現代書林)の共著者として、強く感じ入った次第です。それにしても、ステージ4のがん患者でありながら、このような渾身の大作を書き上げた著者には驚きとともに深い畏敬の念をおぼえます。著者の御健康を心よりお祈りいたします。
2024年8月29日 一条真也拝