
一条真也です。
わたしはこれまで多くの言葉を世に送り出してきましたが、この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は「死生観は究極の教養である」です。この言葉は、現代書林から刊行された拙著『死が怖くなくなる読書』および、同書を加筆・修正した『死を乗り越える読書ガイド』の帯のキャッチコピーです。現在の日本は、未知の超高齢社会に突入しています。それはそのまま多死社会でもあり、死生観というものが求められます。
『死を乗り越える読書ガイド』(現代書林)
長い日本の歴史の中で、今ほど「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められる時代はありません。特に「死」は、人間にとって最大の問題です。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきました。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようと努力してきまた。それでも、今でも人間は死に続けています。死の正体もよくわかっていません。実際に死を体験することは一度しかできないわけですから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だと言えます。まさに死こそは、人類最大のミステリーなのです。
なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はありません。その不条理に対して、わたしたちに与えられた「こころの鎧」が死生観というものです。高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人がいますが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸にほかなりません。教養とは「こころ」を豊かにするものであるなら、まさに死生観は究極の教養です。
死の不安を解消するには、自分自身の葬儀について具体的に思い描くのが一番いいでしょう。親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日頃から連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝する習慣を付けたいものです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。自身の葬儀の想像とは、死を直視して覚悟すること。覚悟してしまえば、生きている実感が湧いてきて、心もゆたかになるでしょう。拙著『葬式は必要!』(双葉新書)にも書いたように、葬儀は故人の「人となり」を確認すると同時に、そのことに気づく場になりえます。葬儀は旅立つ側から考えれば、最高の自己実現の場であり、最大の自己表現の場であると考えます。
「教養」を意味する英語に「リベラルアーツ」という言葉があります。リベラルアーツを直訳すると「自由の技術」です。つまり、本来意味するところは「自由になるための手段」ということになります。人間が己を縛り付ける固定観念や常識から解き放たれ、「自らに由って」考えながら、自分自身の価値基準を持って生きていくために、リベラルアーツは存在するのです。組織開発・人材育成を専門とするコーン・フェリー・ヘイグループのシニア・クライアント・パートナーで、ビジネス書の分野で多くのベストセラーを書いている山口周氏は、著書『自由になるための技術 リベラルアーツ』(講談社)で、「現代をしたたかに生きていこうとするのであれば、リベラルアーツほど強力な武器はない」と述べています。
山口氏は、「リベラルアーツを、社会人として身につけるべき教養、といった薄っぺらいニュアンスで捉えている人がいますが、これはとてももったいないこと」とも述べ、リベラルアーツが「自由になるための技術」であることを強く訴えます。では、「自由になるための技術」の「自由」とは何か。もともとの語源は『新約聖書』の「ヨハネ福音書」の第8章31節にあるイエスの言葉、「真理はあなたたちを自由にする」から来ています。「真理」とは読んで字のごとく、「真の理(ことわり)」です。時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(ことわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、その時、その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから、自由になれるのです。その時、その場所だけで支配的な物事を見る枠組み、それは例えば「金利はプラスである」という思い込みなどです。山口氏は、「目の前の世界において常識として通用して誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり『問う』ための技術がリベラルアーツの真髄ということになります」と述べています。
リベラルアーツが「自由になるための技術」であるということはわたしも山口氏と同意見ですが、「自由」について深く考えた場合、反対の「不自由」とは何かを考えざるをえません。そして、人間にとって最大の不自由とは「死」であることに気づきます。ならば、究極のリベラルアーツとは「死から自由になるための技術」、さらに言うならば、「死の不安から自由になるための技術」だと言えないでしょうか。もともと、哲学・芸術・宗教といったリベラルアーツの主要ジャンルは「死の不安からの自由」がメインテーマです。
そもそも哲学とは何でしょうか。また、芸術とは、宗教とは何か。一言で語るならば、それらは人間が言語を持ち、それを操り、意識を発生させ、抽象性を持つようになったことと引き換えに得たものです。人間はもともと宇宙や自然の一部であると自己認識していました。しかし、意識を持ったことで、自分がこの宇宙で分離され、孤立した存在であることを知り、意識のなかに不安を宿してしまったのです。それを「分離の不安」と言います。
「分離の不安」が言語を宿すことによって生じたのであれば、その言語を操る理性や知性からもう一度「感性」のレベルに状態を戻し、不安を昇華させようとする営みが芸術であると言えるでしょう。さらに、麻薬を麻薬で制するがごとくに、言語で悩みが生じたのであれば、それを十分に使いこなすことによって真理を求め、悟りを開こうとしたのが哲学でした。そして宗教とは、その教義の解読とともに、祈り、瞑想、座禅などの行為を通して神、仏といったこの世の創造者であり支配者であろうと人間が考える存在に帰依し、心の安らぎを得ようとする営みでした。

『唯葬論』(サンガ文庫)
拙著『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)は、〈宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論〉全十八章という構成になっています。『唯葬論』の文庫版解説を書いて下さった京都大学名誉教授で宗教哲学者の鎌田東二先生は、同書について「この体系性と全体性と各論との緊密な連系は目を見張ります。この全18章の前半部は、宇宙論から哲学・宗教・芸術論で、まさに全リベラルアーツ大特集です」と書かれています。たしかに「葬」の問題は、リベラルアーツに直結すると再認識しました。
「グリーフケアの時代」を生きるための三部作!
さらに、わたしは、『死を乗り越える読書ガイド』、『死を乗り越える映画ガイド』、『死を乗り越える名言ガイド』(いずれも現代書林)の三部作を上梓しました。これらは、いずれもグリーフケアの書として書きました。わたしは現在、グリーフケアの研究と実践に取り組んでいますが、グリーフケアという営みの目的には「死別の悲嘆の軽減」と「死の不安の克服」の両方があります。後者である「死の不安の克服」とは「死の不安からの自由」というリベラルアーツの本質と同じです。もともと、グリーフケアの中には哲学も芸術も宗教も含まれており、ほとんどリベラルアーツと同義語と言ってもよいでしょう。リベラルアーツ=グリーフケアこそは、現在の超高齢社会および多死社会における「最重要の知」ではないでしょうか。そして、それはそのまま「究極の教養」にほかなりません。
究極の教養を得るための3冊!
2024年8月27日 一条真也拝

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