一条真也です。
わたしはこれまで多くの言葉を世に送り出してきましたが、この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「礼法は最強の護身術」です。これは、2009年1月に上梓した拙著『人間関係を良くする17の魔法』(致知出版社)で初めて示した言葉です。
わたしのマナー観は、小笠原流礼法に基づいています。「思いやりの心」「うやまいの心」「つつしみの心」という三つの心を大切にする小笠原流は、日本の礼法の基本です。特に、冠婚葬祭に関わる礼法のほとんどすべては小笠原流に基づいています。そもそも礼法とは何でしょうか。原始時代、わたしたちの先祖は人と人との対人関係を良好なものにすることが自分を守る生き方であることに気づきました。 自分を守るために、弓や刀剣などの武器を携帯していたのですが、突然、見知らぬ人に会ったとき、相手が自分に敵意がないとわかれば、武器を持たないときは右手を高く上げたり、武器を捨てて両手をさし上げたりしてこちらも敵意のないことを示しました。
『礼を求めて』(三五館)
相手が自分よりも強ければ、地にひれ伏して服従の意思を表明し、また、仲間だとわかったら、走りよって抱き合いました。このような行為が礼儀作法、すなわち礼法の起源でした。身ぶり、手ぶりから始まった礼儀作法は社会や国家が構築されてゆくにつれて変化し、発展して、今日の礼法として確立されてきたのです。ですから、礼法とはある意味で護身術なのです。剣道、柔道、空手、合気道などなど、護身術にはさまざまなものがあります。しかし、もともと相手の敵意を誘わず、当然ながら戦いにならず、逆に好印象さえ与えてしまう礼法の方がずっと上ではないでしょうか。まさしく、礼法こそは最強の護身術なのです!
昭和の文豪・三島由紀夫は、「挨拶は身を守る鎧」という言葉を残しています。出典は、『若きサムライのために』でした。「若者よ、高貴なる野蛮人たれ!」と訴えた扇動の書で、「勇者とは。作法とは。肉体について。信義について。快楽について。羞恥心について。礼法について。服装について。長幼の序について。文弱の徒について。努力について」などなど、三島が、わかりやすく、そして挑発的に語っています。
三島は剣道をやっていましたが、武道である剣道は「礼に始まり礼に終わる」という絶対の掟があります。それで剣道で互いに一礼した後にやることは、相手の頭をぶっ叩くことですね。三島は、「作法は戦闘の前提である」とも言いました。剣道において作法は戦闘よりも重要だというのです。なぜか。三島いわく、礼法はモラルであると同時に、礼法はルールでもあるからです。ルールを守らない競技者は軽蔑されるばかりか、戦いそのものも反則となって敗けになるからです。礼法というルールがない時点で、その戦闘は野蛮なもの(もしくは人間の自然の姿)であると思われるから、戦闘よりも礼法が大事なのです。
さらに、三島由紀夫は次のように言いました。
この作法というものが第一関門であるのにも関わらず、この作法がないむき出しの人間性が相手の心に通用するという迷信がある、と。つまり相手の心を通用させるにはまず礼儀が必要なのに、礼儀がない野蛮な状態でも相手の心に通用できるという間違った考え方があるというのです。もちろん礼儀のない野蛮な人間は忌み嫌われ、誰も関わろうとは思いません。人間関係において礼儀を守っている人こそ、お酒が入ってハメを外しても、少々生意気なことを言っても、周りの人から可愛がられるのです。むしろ礼儀を守っているからこそ、ハメを外したり、ふざけたりしても、相手からの信用を勝ち取れるのです。
ちなみに、芸人の三又又三は、2014年4月8日のツイッター(現X)で「三島由紀夫の言葉に『挨拶は身を守る鎧だ』とある。先日 蕎麦屋さんで食事してたら わざわざAKBの指原さんが僕に挨拶をしに来た。あの人は凄くいい娘だといろんな所で僕は絶賛してます。挨拶って簡単な事で簡単じぁないのよね〜」とつぶやいています。三又又三といえば松本人志から絶縁されたことで有名ですし、指原梨乃は松本の性加害をテレビで批判していました。三又のポストは10年前ですが、なんだか意味深ですね。
ヤフーニュースより
「挨拶無視」の芸人といえば、何を隠そう、渦中の松本人志がそうです。水道橋博士が言うように、芸能界というところは基本的に礼儀に厳しく、それは吉本興業であっても同じ。しかし、まだ無名だった頃の松本が、あるときオール巨人の楽屋前の廊下を素通りしたそうです。それを目にした巨人が教育の意味も込めて松本を呼び止め、「おい君。挨拶は? やり直せ」と諭しました。すると松本は「あ、すいません」と謝りながら来た道を引き返し、もう一度楽屋の前を素通りしたというのです。この逸話が披露された昨年1月放送の「人志松本の酒のツマミになる話」(フジテレビ系)では、松本の後輩芸人たちが「しびれるわあ」などと感動した様子が映りましたが、何がしびれるのか? 何がカッコ良くて感動するのか? わたしは、まったく理解できません。中学生が反抗的な態度をイキって話をしているようです。大人になれなかった松本と、そんな彼を称賛する取り巻き連中は情けない限りですね。
「デイリー新潮」より
もともと、松本は若手時代からきちんとした挨拶というものが苦手だったらしく、先輩芸人の前でも「ちーす!」とかしか言わないため、明石家さんまやタモリといった大御所からも怒りを買っていたといいます。吉本興業の大先輩だった故・横山やすしは傍若無人なダウンタウンの2人の芸風や態度をずっと認めませんでした。1995年12月には、横山はダウンタウンに対して「芸人には礼儀が必要や。挨拶ぐらいせい!」と怒ったこともあります。放送コラムニストの高堀冬彦氏は、デイリー新潮のコラムで「やすしさんも決して礼儀正しい人とは言えなかったが、ダウンタウンには手厳しかった。漫才も酷評し続けた」と述べています。やすしは、ダウンタウンの行き過ぎた毒を危険視していたのでしょう。
横山やすし、明石家さんま、タモリはみなお笑いの天才ですが、もう1人、ビートたけしの名前を挙げなければいけないでしょう。彼には、ブログ『超思考』で紹介した本名の北野武としての著書がありますが、高い倫理性に貫かれており、感服しました。同書では、さまざまな世の中の出来事をぶった斬っていきますが、わたしは特に第十五考「師弟関係」に大いに共感しました。北野氏の若い頃、師匠と弟子という人間関係はすでに形骸化していました。北野氏が松鶴家一門に入ったのも、誰かの弟子にならないと漫才の舞台に立てないので、単に漫才をするためだったとか。では、北野氏は師弟関係を軽んじているのかというと、そうではありません。北野氏には御存知「たけし軍団」という多くの弟子たちがいますが、「師匠として何かを教えたとすれば、礼儀くらいのものだ。礼儀だけは厳しく躾けた。たとえば俺が誰かと話していたら、その話している人は全部お前らの師匠だと思ってやってくれ。俺よりも年上の人だったら、俺よりも偉い人だと思って接してくれなきゃ困るということだけは言った」と述べています。
なぜ、弟子たちに礼儀を教え、厳しく躾けたのか。北野氏は、「礼儀を躾けるのは、それがこの社会で生きていく必要最小限の道具だからだ。社会を構成しているのは人間で、どんな仕事であろうとその人間関係の中でするしかない。何をするにしても、結局は、石垣のようにがっしり組み上がった社会の石の隙間に指先をねじ込み、一歩一歩登っていかなければ上には行けない。その石垣をどういうルートで登るかを教えてやることなんてできはしないのだから、せめて指のかけ方は叩き込んでやろうと思っている」と述べています。わたしは、この文章を読んで、まるで孟子の言葉ではないかと思いました。まさに儒教の徒といってもおかしくないほど、北野氏は「礼」というものを重んじています。だからこそ、生き馬の目を抜くような芸能界でトップの座にあり続けているのでしょう。ちなみに、挨拶を重んじる水道橋博士の師匠もビートたけしです。
若き日のビートたけし氏と佐久間名誉会長(中央)
そういえば、昔、わが社がお笑いイベントを開催して北九州に「ツービート」や「ゆーとぴあ」などの若手芸人をたくさん呼んだことがあります。イベント終了後、当時の佐久間進社長(現、名誉会長)は彼らを小倉の夜の街に連れ出し、伝説的おかまバー「ストーク」などで飲んだそうです。自身が実践礼道・新小笠原流を立ち上げ、礼儀については人一倍厳しい佐久間会長ですが、そのときの「ビートたけし」こと著者の礼儀正しさには感嘆したそうです。「あんなに礼儀正しいタレントさんは初めて見た」と言っていました。わたしは父から「礼」について徹底的に叩き込まれた人間ですが、その父の言葉を聴いて、それまでは単なる毒舌芸人としか思っていなかったビートたけしへの見方を根本から改めた記憶があります。
最近も「無礼芸人」として知られたフワちゃんが失言からの大炎上で、芸能界を追放される流れにあります。現在、フワちゃんは各方面から総攻撃を受けていますが、無礼な人間ほど無防備で危険な存在はないということを証明してくれたように思います。結局、礼儀正しくなければ生き残れないのです。それは芸能界に限らず、どんな世界でも同じではないでしょうか?
2024年8月10日 一条真也拝