映縁

 

一条真也です。
無縁社会」などと呼ばれ、血縁と地縁の希薄化が目立つ昨今です。人間は1人では生きていけません。「無縁社会」を超えて「有縁社会」を再生させるためには、血縁や地縁以外のさまざまな縁を見つけ、育てていく必要があります。そこで注目されるのが趣味に基づく「好縁」というものです。そして、この中には、同じ映画を観る縁としての「映縁」があります。


死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)

 

「縁は冠婚葬祭業のインフラである」というのはわたしの口癖ですが、じつは映画と冠婚葬祭には密接な関係があると考えています。村上春樹氏は「映画鑑賞は祝祭的儀式である」との発言をされていますが、わたしも映画鑑賞とは儀式そのものであると思います。ただし、映画館で鑑賞した場合に限ります。拙著『死を乗り越える映画ガイド』(現代書林)に詳しく書きましたが、儀式というものは古代の洞窟で誕生したと言われています。ネアンデルタール人の埋葬も洞窟の中でした。そして、映画館とは人工洞窟であるというのが、わたしの考えです。

その人工洞窟の内部において、わたしたちは臨死体験をするように思います。なぜなら、映画館の中で闇を見るのではなく、わたしたち自身が闇の中からスクリーンに映し出される光を見るからです。闇とは「死」の世界であり、光とは「生」の世界です。つまり、闇から光を見るというのは、死者が生者の世界を覗き見るという行為にほかならないのです。つまり、映画館に入るたびに、観客は死の世界に足を踏み入れ、臨死体験するわけです。

わたし自身、映画館で映画を観るたびに、死ぬのが怖くなくなる感覚を得るのですが、それもそのはず。わたしは、映画館を訪れるたびに死者となっているのでした。さらに、映画を含む動画撮影技術が生まれた根源には人間が「死」を乗り越えたいという願いが込められていると思えます。さらに、わたしは、すべての人間の文化の根底には「死者との交流」という目的があると考えています。そして、映画そのものが「死者との再会」という人類普遍の願いを実現するメディアでもあります。


小倉昭和館の樋口館長と

 

ブログ「活動写真のすすめ」で紹介したように、2022年11月27日、旦過市場の大火で消失した老舗映画館の「小倉昭和館」のイベントを訪れました。無声映画活弁士付きで上映するイベントでしたが、高齢者の方々で満員だったので驚きました。映画好きの高齢者は多いということを痛感しました。コロナ以前、わが社は互助会の会員様や高齢者の方向けに無料の映画上映会を行ってきました。紫雲閣の「セレモニーホールからコミュニティホールへ」の進化の一環ですが、非常に好評でした。


「友引映画館」での舞台挨拶

 

最初は2018年7月21日に小倉紫雲閣の大ホールで開催された「友引映画館」でした。この上映会は、葬儀や告別式の比較的少ない友引の日に、映画を通じて交流を深めていただこうという意味で「友引映画館」と名付けました。ステージには大スクリーンが掲げられ、通常の映画館と変わりない迫力で映画が楽しめます。2019年には友引映画館で「1939年映画祭」を開催しました。1939年は映画史における奇跡の年で、西部劇の最高傑作「駅馬車」、ラブロマンスの最高傑作「風と共に去りぬ」、ミュージカルおよびファンタジー映画の最高傑作「オズの魔法使」の3本が誕生しました。


「映縁」は永遠です!

 

この三大名作が製作80周年を迎えた2019年に、わが社が3作を同時上映するという世界初の映画祭を開催したのです。多くの高齢者の方々が楽しんで下さいました。わたしは、「同じ映画を観て心を通わせるというのは素晴らしい縁だ。映画の縁としての『映縁』だ!」と思いました。そして、映画も冠婚葬祭も、人の心にコンパッションを生み出す総合芸術です。多くの素晴らしい映画によって他人と心を通わせ、「縁」を結んでいただきたいですね。そう、映縁は永遠の心の結びつきです!

心ゆたかな映画』(現代書林)

 

初対面の人でも映画好きと聞いて映画の話に花が咲き仲良くなったり、友人や家族と観に行って死生観を共有したり。何十年も前に観た映画のたった一言のセリフが今でも心に刻まれていたり。それがまた人と繋がるきっかけになったり。何よりも、映画が昔も今も男女のデートの王道であることが「映縁」が存在することに最高の証明になるでしょう。拙著『心ゆたかな映画』(現代書林)にも書いたように、同じ映画を観て感動することは最高の人間関係だと言えるでしょう。映縁は永遠なり!

 

2022年1月26日 一条真也