一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「祈」です。



東日本大震災以降、「祈り」という言葉をよく耳にしました。海外の人々が日本を支援する合言葉は「PRAY FOR JAPAN」でした。東日本大震災こそは、まさに日本および日本人にとって想定外の出来事でした。日本は地震大国であり、地震津波に対する備えも十分になされていました。過去に何度も被災した三陸海岸周辺では「世界一」の津波対策をしていたにもかかわらず、その備えでさえ対応できない事態が生じたのです。



震災の直後、地震津波に関して専門家から「想定外」という言葉が何度も語られました。マスコミは「逃げ口上」ととらえて反発しましたが、それは間違いです。想定とは、合理的推論によってなされるのであり、その枠組みを超える事態が生じた場合には、当然、想定外の事態が生じます。わたしは、もともと大自然に対して「想定内」など有り得ず、不遜以外の何ものでもないと思っています。東日本大震災で、われわれ日本人は「人間の力では絶対に及ばない超越的なものがあることを思い知りました。人間の力で及ばないものに対して、人間は祈るしかありません。



「祈る」とは、天とか神とか仏といった人智を超越したサムシング・グレートに対する行為であり、人間を謙虚にしてくれます。そして、この謙虚さこそ、リーダーに求められるものです。よく「苦しいときの神頼み」と言いますが、あまり良くない意味で使われるように思います。しかし、ある意味で最も人間的で最も自然な心の行為ではないでしょうか。元東京都知事の故石原慎太郎氏は、優れた指導者の目にとまりにくい、あるいは隠れた資質、しかしその要因の1つに「祈り」があると述べています。



何とか自分の願いを成就達成できまいかと願うとき、人間は一番容易に、神や仏を見いだすというよりも意識することができるはずです。そういう事態になる前に、自分に関する物事をつかさどり律しているのは決して自分だけではありませんし、自分と同じ人間である他人でもないということを悟るなり信じていれば、ある意味で潔い他力本願ができ、たとえ事がかなわなくても、安心安堵ができるはずです。時は戦国。戦の名人といわれた上杉謙信は常に数珠を手にして戦場へ出たといいます。彼は武田信玄との絶えざる戦いの繰り返しのなかで、自分に頼る部下と国の命運を毘沙門天に祈り続けたのです。



時は明治。日露戦争で立ち往生していた旅順の攻撃に途中から参加し、指揮して見事に成功させた児玉源太郎は、天才参謀の名を欲しいままにしました。しかし彼は、現地の戦闘の渦中、朝、厠から出てくるたびに昇ってくる太陽に向かって祈っていたそうです。宗教心とまったく縁のない児玉が、満州での困難な作戦に心労し、そのあまりに太陽を拝む習慣を身につけてしまったわけです。天才と呼ばれていた児玉にしてなお、「知恵というのは血を吐いて考えても、やっぱり限界がある。最後は運だ」と達観し、その運を引き寄せるために朝日に向かって祈っていたとか。



時は昭和。かつて伊藤忠商事の会長を務めた瀬島龍三は、かつて関東軍参謀の1人だったことで知られます。敗戦軍師としてソビエトに入り、そのまま抑留されて13年間、人間として見てはならぬもの、してはならぬこともやらなければ生きていけない地獄の生活を体験しました。その彼が極限状態を意識したのは、シベリアにおける7カ月の独房生活でした。彼は、「私は散歩に出されたとき、拾った石のかけらで独房の壁に観音像を刻みつけ、一心不乱に観音経をあげた。人に説明しても理解してもらえないと思うが、発狂しないでこうして帰って来られたのは観音経のおかげだと思っている」と述懐しています。



時は戦後。かつて経団連の会長を務め、我が国の行政改革に大きく貢献した土光敏夫は、石川島播磨時代の労使紛争の絶えなかったころ、担当役員としてその場に出かける前に必ず毎朝、法華経を唱えて仏壇を拝みました。そうすると、なぜか自信が出てきたといいます。彼は「朝、顔を洗って読経をする。そこから私の一日が始まる。精一杯の務めはするが、凡夫の悲しさで失敗することも多い。そんなとき私はいつも仏前に座っているつもりで心を静める。また、夕方帰宅して仏壇にぬかずき、その日のことを反省し、それでとにかく一日の締めくくりをつける。なぜお経をあげるかって、毎日が不安でしょうがないからだ。私はお経をあげることによって、この不安が鎮まるのです」と告白しています。



祈りの対象は太陽でも神でも仏でもよいのです。人が不可知な力について感じるようになれば、人生そのものに必ず大きな展開がもたらされてくるものなのです。もちろん、自ら何もせずして、ただ神仏にご利益を願うというような浅ましいことは、人間としてすべきではありません。第一、人事を尽くさずに甘えから祈るのは、神仏に対して失礼極まりないでしょう。あくまで、人事を尽くして天命を待つ、が基本。かつて、アメリカが月に向けてアポロを打ち上げた際、あらゆる準備、点検をすべて終え、残るは発射のボタンを押すのみというときに、その責任者は「あとは祈るだけだ」とつぶやいたといいます。これこそ、人事を尽くして天命を待つということだと思います。



大事なことは、人間の力では絶対に及ばない超越的なものの存在を認めて謙虚になること。その偉大なものに心からの敬意を払うこと。そして、人間としてベストを尽くすことなのです。なお、「祈」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2022年12月5日 一条真也