一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「希」です。



人が生きる上で最も必要なのは希望を持つことです。わたしたちが将来に希望を持ち、「今がどんなにやるせなくても、明日は今日より素晴らしい」と信じることができれば、生きていけます。しかし、将来に希望が持てないような極限状況に置かれたとき、人はどうするでしょうか。例えば、第二次世界大戦中に600万人にも及ぶユダヤ人がアウシュビッツなどの強制収容所で虐殺されましたが、あなたがそこに送られたとしたら、どうするでしょうか。

 

 

ヴィクトル・フランクルは、アウシュビッツから生還したウイーンの精神科医です。彼は、第二次大戦中に強制収容所に送られた体験をもとに、『夜と霧』を著しました。彼が強制収容所に送られたのは、ユダヤ人であるというそれだけの理由でした。彼の両親、妻、2人の子どもも収容所に送られ、ガス室で殺されたり、餓死したりしました。



収容所から生きて出ることはほとんど不可能であり、いつまでそこにいるのかは、わかりませんでした。フランクルは、これを「期限なき仮の状態」と呼びました。この状態に流れる時間は、瞬間のように速く過ぎ去るものでした。終わりのはっきりしない生活は、人々から生きる目的を奪い去ったからでしょう。これとは対照的に、1日は無限とも思われるような時間が流れました。さまざまな小さな悪い出来事が重なったからです。



人々は小さな変化に死を予感したりして、びくびくしなければなりませんでした。そのために収容所内の人々は、1日の長さは1週間よりも長く感じられるという、奇妙な時間の経験をしたのです。収容所内の人々のあいだには、働き者は生き延びることができるという噂が広がっていました。また、ヒゲを剃ることはガス室に行くことを遅らせると思われていました。若く見えるからです。しかし、これはまったく意味のないことであり、人々は無感動という内的崩壊に陥りました。あるものは過去に逃避し、あるものは未来に逃避しました。



1944年のクリスマスと翌年の新年とのあいだに、大量の死亡者が出ました。これは、フランクルによれば、過酷な労働条件によるものでも、悪化した栄養状態によるものでも、悪天候や伝染疾患によるものでもありませんでした。原因は、多数の人々が「クリスマスには家に帰れるだろう」という、素朴な希望に身をゆだねたからです。希望から失望、落胆へと急激に落ち込むことが生命の抵抗力を致命的に奪ったのです。



精神科医フランクル自身は、生き延びる人々は約5パーセントであると見積もっていました。同時に、それだから落胆したり、希望を捨てる必要はないとも考えていました。なぜなら、いかなる人間も未来を知らないし、次の瞬間に何が起こるかを予想できないからです。フランクルは生きて地獄のような強制収容所を出ることができました。生きる望みも少なく、生きる目的も奪われた状況において、彼はなぜ生き延びることができたのでしょうか。彼は発想の転換が必要だと言います。わたしたちが絶望しても、なおも、わたしたちが人生に何を期待できるのかではなく、反対に、人生がわたしたちに何を期待しているのかが問われるのだというのです。



わたしたちが人生の意味を問うのではなく、わたしたち自身が問われたものとして体験しなければなりません。人生がわたしたちに毎日毎時、問いを発し、わたしたちはその問いに対して口先だけでなく、正しい行為によって答えなければならないのです。人生とは、結局、人生の意味を問う問題に正しく答えることであり、人生が各人に与えた使命を果たすことであり、日々の務めを行うことなのです。



フランクルは家族をはじめ、親しい者の死を身近に体験することで、人生に意味を与えることの大切さを痛感したのです。『夜と霧』や『それでも人生にイエスと言う』といった彼の著書には、このことが書かれてあります。収容所には、一緒にある地理学者が収容されていた。彼は地理の本をシリーズで刊行していましたが、まだ完結していませんでした。その学者にとって、無事に戻って「本を出す」ことが人生の意味になっていたのです。結果、彼は生き延びました。また、自分を待つ娘のいる父親にとって、無事に「娘に逢う」ことが人生の意味となりました。彼も生き延びました。



ごく日常的に「死」を見聞していく中で、フランクルは人生に意味を与えるためには、次の3つが必要だと書いています。1つ目は、創造し、世の中に与えること。2つ目は、経験し、世の中から得ること。そして3つ目は、苦悩に対して、態度をとることです。最初の2つはすぐ理解できても、3つ目は少々わかりにくいかもしれません。こう考えてみましょう。あなたが病人で、自由に身動きの取れない人だとします。あなたは、何かを世の中に与えようにも、何かを得ようにも、身動きのできない状況にあります。こんな場合、尊厳死を望む人もいるかもしれません。

 

そこへ、親しい友人が見舞いにやってきました。あなたは、動けない身体を駆使して、あるいは苦しい病状にもめげず、友人との会話に花を咲かせ、冗談を言い、明るく振舞いました。するとあなたの親友は、楽しい時間を過ごせたといってとても喜びました。この時のあなたの「態度」が、「苦悩に対して、態度をとる」なのです。「態度」というのは、そのまま「心の姿勢」です。その人の態度に、その人の心が表れるのです。

 

 

与える。
得る。
態度をとる。

この3つは、人生に意味を与えるための重要なキーワードです。わたしたちは、強制収容所といった極限状態を経験したフランクルの言葉に素直に耳を傾ける必要があります。どんな絶望的な状況になろうとも、最後まで希望を持つべきです。朝の来ない夜はないのです。なお、「希」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2022年11月10日 一条真也