21年目の「9・11」

一条真也です。
このブログ記事は、9月11日の9時11分にUPしました。新型コロナウイルスに人類が翻弄されて3年目、今年も9月11日になりました。世界を揺るがせたテロ事件から、21年が経過したことになります。世界中の人々が大いなる希望を抱いた21世紀は深い悲しみから始まりました。今世紀は、悲嘆に満ちた世紀としての「グリーフフル・センチュリー」となったのです。



わたしは、2001年10月1日に株式会サンレーの社長に就任しました。その直前の9月11日に起こったのが、米国同時多発テロ事件でした。ニューヨークの世界貿易センタービルでは、じつに2753人が犠牲になりました。ブログ「グラウンド・ゼロ」に書いたように、2014年の9月、わたしはニューヨークを訪れました。マンハッタンの各所を回りましたが、「グラウンド・ゼロ」が最も強く印象に残りました。


「9/11 MEMORIAL」に向かう

犠牲になった消防士のモニュメント

 

Wikipedia「グランウンド・ゼロ」には、以下のように書かれています。
グラウンド・ゼロ(英: ground zero)とは、英語で『爆心地』を意味する語。強大な爆弾、特に核兵器である原子爆弾水素爆弾の爆心地を指す例が多い。従来は広島と長崎への原爆投下爆心地や、ネバダ砂漠での世界初の核兵器実験場跡地、また核保有国で行われた地上核実験での爆心地を『グラウンド・ゼロ』と呼ぶのが一般的であった。しかし、アメリカ同時多発テロ事件の報道の過程で、テロの標的となったニューヨークのワールドトレードセンター(WTC)が倒壊した跡地が、広島の原爆爆心地(原爆ドーム、正確には原爆ドーム近隣の島病院付近)を連想させるとして、WTCの跡地を『グラウンド・ゼロ』とアメリカのマスコミで呼ばれ、これが定着した」


「9/11 MEMORIAL」の入口

「9/11 MEMORIAL」モニュメントの前で

 

WTCは、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社が管理していました。Wikipedia「ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社」の「同時多発テロ事件とその後」には、「2001年9月11日の同時多発テロ事件での世界貿易センターの崩壊は、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社にも大きな打撃を与えた。港湾公社の本部もまた世界貿易センターにあり、職員にも多くの犠牲を出した。事件当時、約1400名の職員が世界貿易センターで勤務していたと推定されている。そのうち、ポートオーソリティ警察の警官37名を含む、84名の職員が事件で死亡した。事件で死亡した職員の中には、同年4月からエグゼクティブ・ディレクターを務めていたニール・d・レビンやポート・オーソリティ警察の警視フレッド・モローンもいた。崩壊後の救助作業により、ポート・オーソリティ警察の警官2名が、崩壊から24時間を経過した後で9mもの高さに積み上がった瓦礫の下から救助された。後に、この2名の警官の救出劇はオリバー・ストーン監督、ニコラス・ケイジ主演の映画『ワールド・トレード・センター』で描かれた」と書かれています。


新しい風景が生まれていました

 

現在、世界貿易センターの跡地には「9・11メモリアル」のモニュメント、そしてフリーダムタワー(Freedom Tower)が建っています。フリーダムタワーは2009年に「ワールド・トレード・センター・コンプレックス」と名称変更され、2014年末に完成。


新しい風景の中で

 

日本人にはあまり知られていませんが、9・11以降じつに半年にわたってニューヨークの人々は悪臭に苦しめられたそうです。雨が降ると、街中にプラスチックの焼ける臭いが立ち込めました。グラウンド・ゼロの地下では、ずっと火が消えておらず、くすぶり続ける大量の瓦礫が山のように積み重なっていました。雨が降ると、それらが自然鎮火されてプラスチックを焼いたような悪臭が漂ったのです。ダウンタウン一帯が悪臭に包まれ、30分もすると頭が痛くなってきたとか。そんな話、初めて知りました。


全犠牲者の名前がプレートに刻まれています

 

そんな歴史を持つ場所に新しい風景が生まれていました。わたしはグランウンド・ゼロで犠牲者の冥福を祈って合掌し、心からの祈りを捧げました。帰り道、犠牲者のための寄付を募っていました。わたしが貧者の一灯を募金箱に入れると、「9/11 MEMORIAL」と書かれた白いリストバンドを貰いました。今でも大切にしています。


白いリストバンドを貰いました

 

1999年7の月、ノストラダムスが予言した「恐怖の大王」は降りませんでした。20世紀末の一時期、20世紀の憎悪は世紀末で断ち切ろうという楽観的な気運が世界中で高まり、人々は人類の未来に希望を抱いていました。 20世紀は、とにかく人間がたくさん殺された時代でした。何よりも戦争によって形づくられたのが20世紀と言えるでしょう。もちろん、人類の歴史のどの時代もどの世紀も、戦争などの暴力行為の影響を強く受けてきました。20世紀も過去の世紀と本質的には変わりませんが、その程度には明らかな違いがあります。本当の意味で世界的規模の紛争が起こり、地球の裏側の国々まで巻きこむようになったのは、この世紀が初めてなのです。なにしろ、世界大戦が1度ならず2度も起こったのです。その20世紀に殺された人間の数は、およそ1億7000万人以上。そんな殺戮の世紀を乗り越え、人類の多くは新しく訪れる21世紀に限りない希望を託しました。



しかし、そこに起きたのが2001年9月11日の悲劇だったのです。テロリストによってハイジャックされた航空機がワールド・トレード・センターに突入する信じられない光景をCNNのニュースで見ながら、わたしは「恐怖の大王」が2年の誤差で降ってきたのかもしれないと思いました。いずれにせよ、新しい世紀においても、憎悪に基づいた計画的で大規模な残虐行為が常に起こりうるという現実を、人類は目の当たりにしたのです。あの同時多発テロで世界中の人びとが目撃したのは、憎悪に触発された無数の暴力のあらたな一例にすぎません。こうした行為すべてがそうであるように、憎悪に満ちたテロは、人間の脳に新しく進化した外層の奥深くにひそむ原始的な領域から生まれます。また、長い時間をかけて蓄積されてきた文化によっても仕向けられます。それによって人は、生き残りを賭けた「われら対、彼ら」の戦いに駆りたてられるのです。

 

 

グローバリズムという名のアメリカイズムを世界中で広めつつあった唯一の超大国は、史上初めて本国への攻撃、それも資本主義そのもののシンボルといえるワールド・トレード・センターを破壊されるという、きわめてインパクトの強い攻撃を受けました。その後のアメリカの対テロ戦争などの一連の流れを見ると、わたしたちは、前世紀に劣らない「憎悪の連鎖」が巨大なスケールで繰り広げられていることを思い知らされました。まさに憎悪によって、人間は残虐きわまりない行為をやってのけるのです。そんなことを考えて、わたしは『ハートフル・ソサエティ』(三五館)を2005年9月に上梓しました。そして、それから14年後の2019年9月、『心ゆたかな社会』(現代書林)を脱稿。同書は今年の6月に刊行されました。

 

 

21世紀は、9・11米国同時多発テロから幕を開いたと言ってよいでしょう。あの事件はイスラム教徒の自爆テロリズムによるものとされていますが、この世紀が宗教、特にイスラム教の存在を抜きには語れないということを誰もが思い知りました。世界における総信者数で1位、2位となっているキリスト教イスラム教は、ともにユダヤ教から分かれた宗教です。つまり、このユダヤ教キリスト教イスラム教の源は1つなのです。ヤーヴェとかアッラーとか呼び名は違っても、3つとも人格を持った唯一神を崇拝する「一神教」であり、啓典をいただく「啓典宗教」です。啓典とは、絶対なる教えが書かれた最高教典のことです。おおざっぱに言えば、ユダヤ教は『旧約聖書』、キリスト教は『新約聖書』、イスラム教は『コーラン』を教典とします。わたしは、21世紀を生きる上で、日本人はこの三大一神教についてより深く知ることが不可欠であると考え、『ユダヤ教vsキリスト教vsイスラム教』(だいわ文庫)を書き、3つの宗教ともに月信仰がベースにあることを突き止めました。

 

 

アポロの宇宙飛行士の中には、月面で神を感じた者もいたといいます。詳しくは、ブログ『月面上の思索』をお読み下さい。月から地球を見ると、かのエベレストでさえも地球の皺にしか見えないといいます。それと同じように、神という絶対的な存在にとってみればどんな権力者も貧乏人も民族も国籍も関係ありません。人間など、すべて似たようなものなのです。「アッラーの前には、すべての人間は平等である」と考え、イスラム教を月の宗教としたムハンマドは、このことにおそらく気づいていたのでしょう。月の視線は、神の視線なのです。アポロの宇宙飛行士たちは、まさに神の視線を獲得したのです。そして、すべての宗教がめざす方向とは、この地球に肉体を置きながらも、意識は軽やかに月へと飛ばして神の視線を得ることではないでしょうか。わたしには、そう思えてなりません。


考えてみれば、月はその満ち欠けによる潮の干満によって、人類を含めた生命の誕生と死を司っています。そして、月は世界中の民族の神話において「死後の世界」にたとえられました。世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きていました。彼らは、月を死後の魂の赴くところと考えました。月は、魂の再生の中継点と考えられてきたのです。

 

 

多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然でしょう。死なない人間はおらず、それゆえに死は最大の平等です。すべての人間が死後、月に行くのであれば、これほどロマンのある話はないし、そこから宗教を超えた人類の心の連帯が生まれるのではないでしょうか。そんなことを考え、わたしは『ロマンティック・デス~月を見よ、死を想え』(幻冬舎文庫)を書きました。すべての宗教を超え、地球上の人類は月を見上げるべきである。月を見よ、死を想え! 最古の月神シンの記憶を蘇らせよ!  それが「人類平等」「世界平和」への第一歩であると確信します。

 

 

月といえば、一昨年、宗教哲学者の鎌田東二先生との共著『満月交心』(現代書林)を上梓しました。その「あとがき」で、鎌田先生は「コロナ騒ぎの渦中で『満月交心』と題するルナ問答を出す。その意味を考えざるをえない。コロナは太陽をかたどる高温ガス層である。もともとcoronaは『王冠』を意味したが、19世紀の初めに天文学者日蝕の際にも輝く太陽光のゆらめきをコロナと称した。コロナは太陽、ルナは月である。大きな違いは、コロナが昼の光となり、ルナが夜の光となること。そして、コロナがほぼ一定しているのに対して、ルナは満月から新月まで、有から無まで、見かけ上日々刻々とはっきりと変化している点である。それゆえ、太陽やコロナは普遍性や不動を象徴するが、ルナすなわち月は生成変化してやまない諸行無常の象徴となる。そんなルナ的諸行無常に見合う夜の時代の夜行行動様式の再編と再構築がもとめられているのかもしれない」と書かれています。

 

 

そう、「9・11」から21年が経過した今、わたしたち人類はコロナの只中にいます。拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)にも書いたように、新型コロナウイルスに人類が翻弄される現状が、わたしには新しい世界が生まれる陣痛のような気がしてなりません。こんなに人類が一体感を得たことが過去にあったでしょうか。戦争なら戦勝国と敗戦国があります。自然災害なら被災国と支援国があります。しかし、今回のパンデミックは「一蓮托生」です。その意味で、「パンデミック宣言」は「宇宙人の襲来」と同じかもしれません。新型コロナウイルスも、地球侵略を企むエイリアンも、ともに人類を「ワンチーム」にする存在なのです。「9・11」で分断された世界がコロナによって連帯することを願ってやみません。

 

2022年9月11日 一条真也