一条真也です。
『「私」という男の生涯』石原慎太郎著(幻冬舎)を読みました。著者は、1932年神戸市生まれ。一橋大学卒。55年、大学在学中に書いた「太陽の季節」で第1回文學界新人賞を、翌年芥川賞を受賞。ミリオンセラーとなった『弟』、ブログ『天才』で紹介した2016年最大のベストセラー、ブログ『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』で紹介した2021年のベストセラーなど著書多数。ブログ「石原慎太郎、逝く!!」に書いたように今年2月1日に逝去。
本書の帯
表紙カバーには著者の笑顔の写真が使われ、帯には「弟・裕次郎や家族への愛と感謝、文学・政治への情熱と悔恨、通り過ぎていった女たちへの思慕と感傷・・・・・・」「『自分と妻』の死後の出版のために書かれた自伝」と書かれています。
本書の帯の裏
帯の裏には、「死の瞬間にも意識だけははっきりしていたいものだ。出来ればその床の中で、有無言わされぬたった一度の体験として迎える自分の死なるものを意識を強め、目を凝らして見つめてみたいものだ。それがかなったならば、多分、この俺はつい昨日生まれたばかりのような気がするのに、もう死ぬのかと思うに違いない。(本文より)」「太陽のような輝きで、この国を照らし続けた男が死して初めて明かす『わが人生の証明』」とあります。
このように、自らの死について、著者は非常に深い関心を抱いています。それは、以下の記述からもわかります。
著者の小学生の頃の初恋についても書かれています。著者のクラスには、色白の目鼻立ちのいい、人形のように可愛い女生徒がいたそうです。石原少年は学校に慣れるにつれ、日ごとにその子の存在が気になるようになりました。著者は、「何かの折々自分がその子のことを脇から気にして眺めるようになっているのに気付いた。そして床に入って眠る前に、彼女をどこかの殿様の御姫様に仕立て私が臣下の侍として近づき、かしずくのを想像してみたりするようにもなった」と書いています。しかし、そのリビドーはある時ある出来事であっけなく消滅してしまいます。著者は、「ある日のある時、授業の最中に彼女が突然泣きじゃくりだし、担任の女教師が近づいて質したら、彼女がおもらしをしてしまっていた。先生に伴われて彼女が教室を出ていき、誰か男の生徒が彼女の椅子が濡れているのを確かめ、はしゃいで皆に教えた時、私としては彼女への感情は呆気なくも軽蔑に変わってしまった。あの一件の思い出は私に終生つきまとった私の天性の一つ、『好色』を暗示するものだったに違いない」と書いていますが、この描写は非常に不愉快でした。おもらしをしたぐらいで恋心を寄せていた少女を軽蔑するというのが許せません。わたしなら、同情や好奇心もあって、さらにその子を好きになっていたと思います。
1995年4月14日、自民党の衆議院議員であった著者は、衆院本会議の勤続25年表彰を受けたことへの謝辞の中で政治の現状を批判し、議員辞職の意向を表明しました。本書には、以下のように書かれています。
Ⅱの冒頭には、弟である石原裕次郎の思い出が書かれています。子供時代の裕次郎少年は大変ないたずらっ子で、悪さが絶えなかったそうですが、あるとき、友人が飼っていた子犬を川に流して殺してしまったことがあったそうです。著者は、「それから奇妙な出来事が弟の身に起こった。しばらくしてのある日から突然弟は訳もなく頭を振る奇病に取り憑かれたのだ。市内の掛かり付けの医者に相談しても訳が分からない。最後には紹介されて札幌の大学病院に入院させられ、何やらいろいろ治療を受けたが一向に治らない。案じた両親があちこち相談をした結果、市内に霊感を備えた年配の女性がいて周りから厄介な相談を受けては不思議に解決の術を教えてくれると聞かされて、父がその人を訪ねて相談したら、即座に彼女が弟が悪戯で子犬を殺したことを言い当てたそうな。そしてその供養に父が向こうひと月の間、家の近くの街角の何か所かに朝早く、人目につかぬ内に浄めの塩と供物を置いて、殺した子犬の供養をしなさいと教えられたという。それからひと月の間、父は教えられた通りの供養を早起きして果たしていたものだった。そしてその甲斐あってか、弟の奇病は見事に快癒した。あれは私の人生に不可知な大きなものを教示した出来事だったと思う。以来、私は人間にとって不可知なものが人の人生を容易に支配するということを自覚するようになった」と書いています。
Ⅲには、再び三島由紀夫のことが書かれています。文学少年だった高校時代に、著者は、小林秀雄訳のアルチュール・ランボーをはじめ、中原中也、ボードレール、アンドレ・ジッドなどに魅せられていきますが、三島由紀夫なる存在に触れたのもその頃でした。著者は、「私の家のあった逗子にも貧しい映画館があって、三番煎じの作品が二本立てでかかっていた。ある時、暇潰しに何かの作品を見に行ったら本編の前の『純白の夜』という作品の予告編に原作者の若い天才と称される三島由紀夫という人物がちらっと出ていた。見れば華奢な白皙の青年だったが、まだうら若い男が天才と呼ばれているのに興味を惹かれ、本屋で見かけた彼の作品集を買って読んでみた。それまで世評の高い夏目漱石や森鷗外などを目にしても一向に感動させられなかったが、初めて目にした三島なるうら若い作家の短編小説には激しく惹かれるものがあった」と書いています。
著者が惹かれた三島の小説は『春子』とか『山羊の首』といった短編でしたが、日本人の書いた現代小説に初めて関心がそそられたのを覚えているそうです。それに刺激されて彼の作品の載っている文芸雑誌を購読するようになり、世評に高い出世作の『仮面の告白』も読みましたが、あまり感心させられずに、雑誌『群像』に連載中の『禁色』には大層な興味をそそられたといいます。著者は、「もとより私には男色への興味は全くないが、この世とも思えぬ裏返しの世界をまことしやかに描く筆致に感心させられた。後の三島氏には知遇を得たが、ある時『僕の作品で何が一番面白かったかね』と聞かれ、私が『禁色』と答えたら例の高笑いで『ああ、あんなものはただの外連、外連』と笑い飛ばされたものだったが」と書いています。
Ⅳでは、一橋大学時代の同じクラスに籍を置いていた西村潔のことに触れています。あまり目立たぬ寡黙な男だったそうですが、後に著者と一緒に映画会社東宝の助監督の試験を受けて合格し、その後、日本の映画界の不況の中で長い間助監督として呻吟した後、数本の映画を監督として仕上げました。西村潔について、著者は「彼の作品はアメリカの暴力映画の監督ペキンパーの作品をリリックにしたような才気を感じさせるものだったが、その後不運な出来事に続いて遭遇し、ある年の冬、海岸に近い展望台の石の椅子の上に遺書を残して葉山の海に入水して死んでしまった。彼は傑出した博学で、あの頃あまり人の読まぬ本にすでに精通していたものだが、私など全く知らぬユングとか人間の臨死体験に関して情報を集め独特の解説を施した著書でアメリカでは有名になっていたキューブラー=ロスなどについて教えてくれ、以後の私の発想に大きな影響を与えてくれた」と書いています。また、著者に小説を書かしたのは他ならぬ西村潔でした。
国会議員を辞職した後、著者は石原裕次郎との思い出を綴った『弟』を出版し、同書はミリオンセラーとなります。著者は、「あの本で私の弟への思いは書き尽くしたと思うが、思い返すと私たち兄弟は不思議な存在だったと思う。私が奇跡的に人生で破産せずに物書きになりおおせたのは、父親が死んだ後、家を破産に近い状態に追い込んだ見境ない弟の無頼放蕩のお陰で、忌々しくも羨ましく眺めていた彼の所行を挿話に仕立てた小説がきっかけだったし、私の小説が毀誉褒貶で世間の耳目を集め映画化され、それがきっかけで彼も映画スターになりおおせたのだった」と書いています。
また、著者は弟について以下のようにも書いています。
そして、著者は「彼の度重なる病については兄弟とて、ただ見守る以外に術はなかった。そして彼は肝臓の癌で52の若さで死んで行ってしまったのだった。今まで若い頃から故も無く彼に関して感じていたあの不思議な喪失感に比べると、何故か彼が死んだ後の喪失感は不思議なことにあまりない。彼に関して私が感じるものは喪失感よりも何故かただ彼の不在感だけだ。その証しになまじな家長意識のせいか、彼の存命中にもよく勘違いして長男を裕次郎と呼んだり、弟を長男の名前で呼んだりしたものだったが。弟との関わりを記した『弟』なる回想録にも記したが、親子とは違って二人だけの兄弟だったせいか、私はふとよく“おい裕さん、おまえ今どこにいるんだ”と本気に思うことがあるのだが」
ⅩⅢでは、2011年3月11日に発生した東日本大震災について書かれています。当時、東京都知事であった著者は、「東日本大震災はまさに想像を絶するものだった。テレビに映し出された映像もさることながら、知事の特権で警察や消防庁のヘリコプターを駆使して被害に遭った福島、宮城、岩手の三県を短期間でくまなく視察した。自然がもたらす災害の底知れぬ猛威は物書きの想像力を超越していて、現場に立たぬ限り実感としては伝わりきれぬものだった。
また、災害による福島原発の被害は、無能な民主党政府の不手際が重なって日本全体に放射能に関するヒステリー現象を到来させてしまったとしか言いようないとして、著者は「以前に起こったスリーマイル島とチェルノブイリの事故と相まって、さしたる科学的根拠もなしに、さながら広島、長崎の原爆被害に通う放射能災害が蔓延しかねぬような被害感が広がり、原発の存在そのものが一種の社会悪のようなイメージを造成してしまい、その後遺症は未だに止まない。原発に関して混乱した世論の中で唯一まともだったのは世間は意外にとったかもしれぬが、どちらかと言えば反権力反体制の論客としてとらえられていた観のある吉本隆明氏が「原発反対を唱えて人間はまた猿に戻ろうというのか」と正当皮肉な論を述べていたのが印象的だった」と書いています。
さらに、著者は原子力について、「アインシュタインの相対性理論によれば宇宙を動かしているエネルギーはすべて核エネルギーであって、地球の生物の生命の発育のためには太陽が送ってくる放射線が不可欠ということを思えば、原発の事故を踏まえて核エネルギーをすべて忌避するというのは文明の進展による人間自体の向上を忌避するということにもなる。それは人間の進歩、文明の発展進歩に関する歴史的原理を無視否定することに他ならない。人間は火を恐れずに使うことを体得したことでこそ猿から分化し人間になり得たのであって、爾来新しい技術の発見体得こそが人類の進化に繋がってきたのだ」と述べています。
ⅩⅣでは、自らの死と死後について想いを馳せつつ、著者は以下のように述べています。
著者は、小林秀雄からベルクソンを読めと勧められたことがあるそうです。小林は、お母さんが亡くなった数日後に買物に出たら蛍が1匹行く手を飛んでいくのを見たといいます。著者は、「小林さんは、ああこれはおっ母さんだと思いながら歩いていった。そしたら近所の彼に慣れている犬が珍しく吠えたてた。そして彼を追い抜いて走っていった子供たちが口々に『人魂だ、人魂だ』、叫んでいたそうな。これは優にあり得る話だと思う」と述べます。
著者の親友であった文芸評論家の江藤淳が書いた『石原慎太郎論』によれば、石原慎太郎の小説はどれも死の影が差しかけていたといいます。著者は、「それは私がこの人生の中でやってきたことの多くが私の肉体に裏打ちされたことどもであったせいに違いない。肉体を駆使した行為はどれも死に裏打ちされているとも言えようから。性に関わる行為もそうと言えるのかもしれないが」と述べ、さらには「好色性をも含めての私の肉体主義の発露としての私の作品のどれもに死の影が差していると指摘したのは江藤だったが、肉体主義なる一種のもの憑きの所産の行為には行為の本質としてその肉体の摩滅と崩壊、つまり『死』なるものの代償がまとわりついているのが必然であって、それを確として意識していなかった私のことを無意識過剰と評したのは江藤の至言と言えたろう」と述べます。
多くの女性たちとの関係についいては、著者は「無謀な結婚の後、妻に支えられながらも繰り返した女たちとの不倫は、間に入った弁護士に、あれは面倒な相手だと同情されたほどの女にまでひっかかり庶子までもうけ、妻だけではなしに、その間長く関わり尽くしてくれた女までを傷つけたり、晩年奇跡のような取り合わせの若い女を持ったり、生まれつきの好色の報いはいろいろな形で私の人生を彩ってもくれたが、それらの思い出に関わる感慨も、所詮死の後の虚無の中で虚無に帰していくのだろう。それを悔いたり懐かしむ時間は今、私にどれほど残されているのだろうか」と述べています。ちなみに、著者は今年2月1日に89歳で亡くなりましたが、妻である典子さんは、夫がこの世を去った1週間後の8日に84歳で亡くなられています。これが「夫唱婦随」であるなら、著者はそれほどまでに奥様から愛されていたのでしょうか。
世の箴言に「人間は誰しも己が必ず死ぬことを知ってはいるが、それを信じている者はいはしない」とありますが、著者は「今この頃、あの忌々しい予期しなかった病の後の精神的肉体的衰弱の内に己の『死』について疑うことはありはしないが、自分の生涯を振り返りこうした文章を綴りながら最後の興味として己の『死』の瞬間、多大な興味を抱きながら、出来ればしみじみ味わいながら死にたいものだと思っている」と書いています。
最後に、著者は「私は一応の仏教の信者だが、来世なるものをどうにも信じることが出来はしないのだ。それあるならば懐かしいさまざまな者たちとの再会もあろうが、それはあまりにも奢侈にすぎまいか。それを証するものは皮肉にも時間ではあるまいか。時間こそは存在の落とす影ではないか。そして時間は存在の非絶対性を明かすものに違いない。ならばその代わりに在るものは一体何なのだろうか、在るものは虚無に他なるまいに。そうなのだ、虚無さえも実在するのだ。死は意識の消滅を意味する。消滅した意識が何を死後に形象化することだろうか。しかし私は人間の想念の力を疑いはしない」と述べるのでした。自身の死について冷静に考察した本書は、日本人の「死生観」を考える上で非常に貴重な内容であると思いました。また、先輩である三島由紀夫をディスったり、多くの女性を妊娠させ続けたことは感心できませんが、「やりたいことをやって、生きたいように生きた」著者の人生はやはり太陽のような輝きを放っていたとは思います。
2022年8月25日 一条真也拝