一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「見」です。

 

 

論語』をはじめとする中国の四書には、人を見る目の明るさが乱世を生き抜く知恵として重視されると記されています。何をもって相手を見極めるかといえば、主に4つあります。第1に、人相を見る。第2は、出処進退の退を見る。第3は、応答事例を見る。つまり、言葉のやりとり、態度を観察する。第4は、修己治人。己をおさめ、徳の人であるかどうかを見る。このように、人を見るのは難しいものです。

 

 

つねに「活眼」というものの重要性を訴えた安岡正篤は、人間は特に目が大切であると言っています。すなわち、物が見えなければなりません。しかし、単なる肉眼では目先しか見えず、すこぶる危険です。わたしたちは外と同時に内を見る、現在と同時に過去も未来も見る、また現象の奥に本体を見るということを心がける必要があります。



仏教では「五眼」(ごげん)というものを説いています。肉眼(にくげん)、天眼、慧眼(えげん)、法眼、仏眼の5つですが、とにかく肉眼以上のものを「心眼」としておきましょう。その心眼で見ると、わたしたちの生活も宇宙の活動も結局は1つのものであり、マクロコスモスとしての宇宙とミクロコスモスとしての人間の生活は、大と小の違いこそあれ、その本質においては共に同じです。マクロ、ミクロ、いずれのコスモスもエネルギーの運動であり、変化であると言うことができます。



そして、わたしたちの生活を支配しているこのエネルギーの作用には、潜在エネルギーと顕在エネルギーの2種類があります。わたしたちの体格とか肉づきとかいったものは、現われている顕在エネルギーです。ところが、そのように現われ、明らかに外面に出ているエネルギーはその人が持つ全エネルギーのきわめて一小部分であり、むしろ隠れている潜在エネルギーの方がはるかに強い力、大きな存在です。それはちょうど氷山と同じことで、水面に現われている部分はごく一小部分であって、水面下に潜在している部分の方が、水面上に現われている部分の少なくとも八倍くらいはあります。それだけ潜在面とは大きいものであり、わたしたちの潜在エネルギーも非常に強い力を持っているのです。



見かけはもことに弱そうに見えながら、何かやらせるととても精力的な不撓不屈の人もいます。これは顕在エネルギーは貧弱であるけれども、氷山みたいに潜在エネルギーが旺盛なのです。どうも人間は自然の物質よりも複雑で、どちらかというと、見てくれのいい人よりも、見てくれのさほどでない人に潜在エネルギーの旺盛な人が多いようです。「柳に雪折れなし」などというのも、意味が相通ずるものがあります。歴史を見ても、英雄とか哲人とかいわれる人に、案外見てくれのそれほどでない人が多いものです。人を見るときには、その人間の潜在エネルギーを見る心眼を持たなければならないのです。

 

 

また、和漢の古典を広く学んだ安岡は、「聖賢の智慧」の大切さを唱え続けましたが、それは「ものの見方の三原則」として結晶化しています。人間は、迷っている者や目先の利かない者に対して、教え助けることもできる。そこで、ものを考えるうえに大切な原則は次の3つです。
1.目先にとらわれず、長い目で見る。
2.物事の一面だけを見ないで、
  できるだけ多面的、全面的に観察する。

3.枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察する。

 

 

とかく人間というものは、手っ取り早く安易にということが先に立って、そのために目先にとらわれたり、一面から判断しなかったり、あるいは枝葉末節にこだわったり、というようなことで、物事の本質を見失いがちです。これでは本当の結論は出てきません。物事というものは、大きな問題、困難な問題ほど、やはり長い目で、多面的に、根本的に見ていくことが大事です。特に人の上に立つリーダーほど、これは心得なければならないことであると安岡は言います。

 

 

よく「後継者に帝王学を授ける」などということが言われますが、それは帝王としての立ち居振る舞いを教えるということではなく、ものの見方、考え方を教えるということです。物事を長期的視野のもとで、多面的・全体的・根本的に観察し、その本質を洞察するように努めたとき、事態にうろたえてしまって、失敗するということはありません。部下が上司に求めるものはそれです。だからこそ人の上に立つ者は、自分の経験の範囲内で処理するのではなく、つねに古典などを読んで聖賢の智慧に触れ、自己研鑽することが大切なのです。

 

 

リーダーとは見る人です。人を見る。現場を見る。そして、機を見る。その場合、旅というものが重要な意味を持ってきます。吉田松陰の学問は見聞という実践でした。黒船の実物を見るべく乗り込もうとしたほどです。松陰は、とにかくその短い生涯にわたってよく旅をしました。一般的な事跡を知るぐらいは万巻の書をひもとけば十分理解でき、それ以上のことは必要ないでしょう。



しかし、松陰はこう考えました。人の欠点は読書するのみで博学な知識をもて遊んでいるばかり、あえて思考を広げることをしないところにある。あちこちを旅して、さまざまなものを見る。心は常にころころと動き、活きているものは必ず「機」つまり発動のはずみがある。機はいろいろなものによって発し、感動してまた動く。発動させるには、まず旅をして、何かを見て、初めて真の利益が得られるのである、と。なお、「見」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2022年8月10日 一条真也