一条真也です。
たった一字に深い意味を秘めている文字は、世界でも漢字だけです。そこには、人のこころを豊かにする言霊が宿っています。その意味を知れば、さらに、こころは豊かになるでしょう。今回の「こころの一字」は、「学」です。

 

 

かつて、マネジメントの世界で「ラーニング・オーガニゼーション」という言葉が流行しました。「ラーニング・オーガニゼーション」とは「学習する組織」と言う意味で、イノベーションを巻き起こすための「学習する組織」のこと。マサチューセッツ工科大学(MIT)経営学部教授のピーター・センゲの主唱する経営コンセプトです。



今日、世界はますます複雑になり、ビジネス環境は日々変容し、私たちの仕事はかつてなく「学習」が求められるものとなりました。これまでのマネジメントの枠組みはもはや通用しません。センゲの『学習する組織』は、企業、学校、地域コミュニティ、社会課題など、さまざまな実践事例を踏まえて大幅に加筆修正されており、いま個人・企業・社会に求められる真の「変革」とは何かを私たちに問いかけます。



「学習する組織」とは、目的に向けて効果的に行動するために
、集団としての「意識」と「能力」を 継続的に高め、
伸ばし続ける組織です。「学習する組織」を構築するためには、5つの要素が必要です。すなわち、1、システム思考。2、個人の視野を明確にする自己マスタリー。3、固定化されたイメージであるメンタル・モデルの克服。4、共有ビジョンの学習。5、チーム学習。この5つの要素はばらばらに展開するのではなく、システム思考によって各要素が統合されます。こうして全体がまとまり、一貫した理論と実践の総体がつくられるのです。



「ビジネスウィーク」誌では、この「ラーニング・オーガニゼーション」を「リエンジニアリング」「コア・コンピタンス」とともに三大経営コンセプトとして紹介しており、多くの欧米企業のトップが重視してきました。わたしも、センゲの著書『最強組織の法則』を一読してから「ラーニング・オーガニゼーション」という言葉に取りつかれた1人です。

わが社は、業界で初めてTQCを導入したり、やはり業界初でISO9011を取得したり、1級葬祭ディレクターの人数で国内トップクラスになったりと、もともと学習志向の強い会社でしたが、それは何よりもホスピタリティ企業として高品質のサービス、お客様の心にひびくサービスの提供を究極の目的としているからです。けっして、伊達や酔狂で学習しているわけではありません。最近では、資格認定制度が2021年より開始されたグリーフケア士の人数で国内トップになりました。

 

 

「何のために学ぶのか」という問題について、安岡正篤は「人間学」というものを提唱しています。彼は、広い意味において道徳的学問・人格学、これを総括して人間学というならば、この人間学が盛んにならなければ本当の文化は起こらず、民族も国家も栄えないと述べています。それによれば、学問というものを分類すると、3つに分けることができます。1つは「知識の学問」です。これは今日の学問を代表するものと言ってよいでしょうが、知識の学問のみが学問ではなく、学問にはもっと根本的性質の区別があります。

 

 

それは「智慧の学問」というべきものです。「知識の学問」と「智慧の学問」ではまったく違います。「知識の学問」は、わたしたちの理解力・記憶力・判断力・推理力など、つまり悟性の働きによって誰にも一通りできるものです。子どもでもできる、大人でもできる、善人もできる、悪人もできる。程度の差こそあれ、誰でもできる。その意味では機械的な能力だが、しかしそういうものではなく、もっと経験を積み、思索や反省を重ねて、わたしたちの人間としての体験の中からにじみ出てくるもっと直観的で人格的な学問を「智慧の学問」と呼ぶのです。ですから、「知識の学問」より「智慧の学問」になるほど、生活的・精神的・人格的になってくるのです。

 

 

それを深めると、普通では容易に考えられない徳に根ざした、徳の表れである「徳慧の学問」になります。これは「聖賢の学」であり、安岡の言う「活学」にも通じるものです。安岡は陽明学者として、知識よりも実行を重んじ、その理想を孔子に求めました。孔子の学問というものは、もっぱらこれを身体で実行するにあります。ですから、門人の質問する1つひとつの条目はみんな自分の為さんとするところを挙げて質問しています。知識の問題ではなく、実行の問題です。ですから、孔子の答も各人によって異なり、たいていはみな偏を矯め、弊を救い、裁縫するように長所をたち、短所を補い、以てこれを正に帰すだけです。例えば、患者の症状に応じて、名医が薬を調合するようなものだと言えるでしょう。

 

 

そして、安岡の学問に取り組む基本姿勢として、知識、見識、胆識があります。知識とは情報量のことで、理解力と記憶力があれば、誰でも身につけることができます。本を読んだり、見たり聞いたりすれば、知識を増やすことができ、いわば大脳皮質の作用です。ところが、これだけでは実行につながりません。頭の中の知識は、鍛錬を通じ、見識となっていきます。大切なことは、自己鍛錬を通して判断力が育つことです。知識に自ずからその人の人格がにじみ出て、一種の気品が生まれてきます。行動に清々しさが出てくるのです。

 

 

胆識とはさらなる鍛錬によって培われてくる度胸のことで、「あの人は肚(はら)が坐っている」と言われるのと同じことです。困難な事態に直面しても、騒がず、取り乱さず、あらゆる抵抗を排除して、断乎として闘っていく。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾れ往かん」と『孟子』にある、あの気概です。知識は見識に至り、胆識に至って、初めて現実を変えていくことのできる実行力となるのです。

 

 

「学び」にもいろいろな学び方がありますが、これを大別すれば「人間学」と「職業学」になります。安岡によれば、この2つの学問が車の両輪になって初めて学問と言えるといいます。そして、この2つの学問を修めた人物といえば、松下幸之助でしょう。自らは小学校を4年生で中退した松下でしたが、94歳で無くなる直前、大学を建設する計画が持ち上がりました。松下の夢は、その大学の理事長になるということではなく、自分が第1号の学生になりたいということだったそうです。「まだまだ勉強せんといかんもんが、いっぱいあるわけや。勉強しようと思うんや」と本気で語り、時間割まで考えていたといいます。その学ぶことに対する姿勢と熱意には、ただただ頭が下がるのみです。なお、「学」については、『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)に詳しく書きました。

 

 

2022年7月20日 一条真也