ホモ・フューネラル

 

一条真也です。
わたしはこれまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「ホモ・フューネラル」という言葉を取り上げることにします。

葬式は必要!』(双葉新書) 

 

葬式は必要!』(双葉新書)にも書きましたが、「人類の文化は墓場からはじまった」という説があります。じつに7万年も前、旧人に属するネアンデルタール人たちは、近親者の遺体を特定の場所に葬り、ときには、そこに花を捧げていました。死者を特定の場所に葬るという行為は、その死を何らかの意味で記念することに他なりません。しかもそれは本質的に「個人の死」に関わります。ネアンデルタール人が最初に死者に花をたむけた瞬間、「死そのものの意味」と「個人」という人類にとって最重要な2つの価値が生み出されたのです。

 

 

ネアンデルタール人たちに何が起きたのでしょうか?
アーサー・C・クラークの『2001年宇宙の旅』のヒトザルたちが遭遇したようなモノリスのようなものが目の前に現われたのでしょうか。何が起こったにせよ、そうした行動を彼らに実現させた想念こそ、原初の宗教を誕生に導いた原動力だったのです。このことを別の言葉で表現するなら、人類は埋葬という行為によって文化を生み、人間性を発見したのです。



人間を定義する考え方として「ホモ・サピエンス」(賢いヒト)や「ホモ・ファーベル」(工作するヒト)などが有名です。オランダの文化史家ヨハン・ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」(遊ぶヒト)、ルーマニア宗教学者ミルチア・エリアーデは「ホモ・レリギオースス」(宗教的ヒト)を提唱しました。同様の言葉に「ホモ・サケル」(聖なるヒト)もあります。しかし、人間とは「ホモ・フューネラル」(弔う人間)だと、わたしは思っています。ネアンデルタール人が最初の埋葬をした瞬間、サルが人になったとさえ思っています。



しかし、ネアンデルタール人は、わたしたちの直接の祖先ではないとされていました。約3万年前までヨーロッパやアジア西部に生息したネアンデルタール人は、約70万6000年前に現代の人類と共通の祖先から別れはじめ、約37万年前に完全に別種になったことがわかったとされていました。アメリカのエネルギー省合同ゲノム研究所やドイツのマックスプランク研究所などの研究チームが、ネアンデルタール人の化石から細胞核DNAを抽出し、初めて解読して現代の人類と比較した結果だということでした。

 

 

現生人類であるホモ・サピエンスは、約20万年前にアフリカで種として確立しました。そして、4万〜5万年前にヨーロッパに進出しました。つまり、先住のネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルタールレンス)と一時共存していたのです。そのため、頭骨化石の分析に基づき、混血(交雑)があったという説も存在していたのですが、この研究結果により、種の文化には影響しなかったことがはっきりしたと世界中に報じられました。



数年前に「ネアンデルタール人と現生人類の間に混血なかった」という新聞記事を読んで、わたしは「まだまだ謎は多く残されている」と思いました。わたしは、DNAのバトンタッチがなかったとしても、わたしたちの「こころ」にネアンデルタール人たちの心が流れていると信じていました現代の人類がネアンデルタール人とつながっていないのなら、現代人が「ホモ・フューネラル」であることの根拠をネアンデルタール人に求めることは非常に危険です。



しかし、わたしは『葬式は必要!』の27ページに「現代ではネアンデルタール人は、わたしたちの直接の祖先ではないとされていますが、まだまだ謎は多く残されています。わたしは、DNAのバトンタッチがなかったとしても、わたしたちの『こころ』にはネアンデルタール人たちの『こころ』が流れていると信じています。つまり、物理的な遺伝はなかったとしても精神的な遺伝があったと思っています。その最大の証拠こそ、今日にいたるまで、わたしたち人類が埋葬という文化を守り続けていることです」と書きました。


世紀の大発見!!

 

しかしながら2010年になって、マックスプランク研究所とアメリカのバイオ企業などからなる国際チームが再度、ネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)を骨の化石から解読したところ、現生人類とわずかに混血していたと推定されるとの研究結果が出たのです。そして、その研究結果は2010年5月7日付のアメリカの科学誌「サイエンス」に発表されました。同年4月25日に『葬式は必要!』が刊行された直後に、人類史をひっくりかえすような大発見がありました。しかも、それは人間にとって葬式が必要であることの根幹をなす大発見でした。わたしは、サムシング・グレートの存在を改めて思い知ったのです。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

わたしは、やはり人類は埋葬という行為によって文化を生み出し、人間性を発見したのだと確信します。ヒトと人間は違います。ヒトは生物学上の種にすぎませんが、人間は社会的存在です。ある意味で、ヒトはその生涯を終え、自らの葬儀を多くの他人に弔ってもらうことによって初めて人間となることができるのかもしれません。葬儀とは、人間の存在理由に関わる重大な行為なのです。ホモ・フューネラルは、わたしの主著の1つである『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館・サンガ文庫)の根幹をなす考え方といえます。

 

2022年7月12日 一条真也