「恋は光」

一条真也です。
5日の夕方、金沢に入りました。
その夜、日本映画「恋は光」のレイトショーをユナイテッドシネマ金沢で観ました。ネットで高評価を得ている作品ですが、これまで観たことのない、なんとも不思議な映画でした。カテゴリは、ファンタジーラブロマンスでしょうか。鑑賞後は、とても爽やかな気分になりました。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「恋する女性が光を放って見えてしまう男子大学生の初恋を描く、秋★枝によるコミックを実写映画化。4人の大学生がそれぞれの恋愛感情に振り回されながらも、『恋とは何か?』を探究していく。脚本・監督は『殺さない彼と死なない彼女』などの小林啓一。特異体質ゆえに恋愛から距離を置く主人公を『彼女が好きなものは』などの神尾楓珠、彼と恋の定義について語らう女性たちを、『あさひなぐ』などの西野七瀬、『10万分の1』などの平祐奈、『黒い暴動』などの馬場ふみかが演じる」

 

ヤフー映画の「あらすじ」は、「大学生の西条(神尾楓珠)は、恋する女性が光って見えてしまう特異体質を持つために恋愛を遠ざけてきたが、『恋というものを知りたい』という東雲(平祐奈)に一目ぼれしたことで、彼女と恋の定義について意見を交わす交換日記を始める。そんな二人の様子に、長らく彼に片思いしている幼なじみの北代(西野七瀬)は心中穏やかでいられない。一方、他人の恋人を欲しがる宿木(馬場ふみか)が、西条を北代の恋人と勘違いして猛アタックを開始。やがて宿木と北代も交換日記に加わり、4人で恋の定義を考え始める」です。


それにしても、なんとも不思議な味わいの映画でした。「恋の定義」をめぐる会話は文学談義や哲学問答のようでもありますが、実際にこんな会話をしている連中がいたら気味が悪いと思います。でも、登場人物がいずれも美男美女だから許せます。これが、キモオタの男女だったら、ほとんどホラー映画になっていた可能性があります。4人の登場人物はみんな変わっていますが、特に神尾楓珠演じる西条が「あ、あのう」とか「い、いやあ」とか「う、ううん」とか、漫画の吹き出しでしかお目にかかれないような、まさにマンガチックなセリフを吐くのが気になって仕方ありませんでした。まあ、原作は漫画ですけどね。

 

 

会話は変でも、「恋の定義」というテーマはなかなか面白いです。これが「愛の定義」ならばもっと哲学や宗教寄りになるでしょうが、恋なので文学寄りとなります。フランスの文豪スタンダールは、名著『恋愛論』でさまざま「恋の定義」を展開しました。恋の猟人であったスタンダールが、自らの豊富な体験にもとづいて、すべての恋愛を「情熱的恋愛」「趣味的恋愛」「肉体的恋愛」「虚栄恋愛」の4種類に分類し、恋の発生、男女における発生の違い、結晶作用、雷の一撃、羞恥心、嫉妬、闘争などのあらゆる様相をさまざまな興味ある挿話を加えて描きだしながら、各国、各時代の恋愛の特徴について語っていったのです。



「恋の定義」「愛の定義」と分けたとしても、「恋」と「愛」の問題は最後は不可分になります。そもそも「恋愛」という言葉自体が「恋」と「愛」を合わせたものです。「恋」と「愛」を比べれば、誰でも「愛」の方が重いと思うことでしょう。そう、この世にはライトな恋からヘビーな愛まで、何層もの恋愛の世界が存在するのです。ネタバレにならないように気をつけますが、西尾に想いを寄せる3人の女性の中に「恋」よりも「愛」に近い感情を抱いている者がいました。わたしはその女性の心中を知って、岩崎宏美の名曲「聖母たちのララバイ」に出てくる「恋ならばいつかは消える♪けれども、もっと深い愛があるの~♪」という歌詞を連想しました。


4人の登場人物にはいずれも好感が持てました。わたしは、もともと北代を演じた西野七瀬のファンであり、白石麻衣生田絵梨花とともに「元・乃木坂三人娘」として、3人まとめて応援しています。東雲を演じた平祐奈も好きでした。馬場ふみかはあまり知らず、「セクシー系のグラドル」ぐらいにしか思っていませんでしたが、スクリーンで見ると可愛くて、彼女も気に入りました。こんな美女3人からモーションをかけられる西条は羨ましい限りです。西条を演じた神尾楓珠はまだ23歳です。平祐奈も23歳ですが、馬場ふみかは27歳で、西野七瀬は28歳です。神尾クンよりずいぶん年上ですが、映画では違和感がありませんでしたね。特に、ラストの西野七瀬の表情が最高に良かったです。本当に、素晴らしい女優になりました!


この映画では、さまざまな「恋の定義」が登場します。いわく、「好きなこと」「憧れていること」「楽しいこと」「嬉しいこと」「満たされること」などなど。どれも「恋」についてずばりと言い当てていませんが、要するに心が動くことだとわかります。今風の言葉なら「エモい」でしょうか? それらの言葉は、あえて言うなら、わが造語である「ハートフル」に集約できるように思います。「ハートフル」とは「心ゆたかな」ということであり、あくまでも精神的な問題です。普通の恋愛映画には必ずラブシーンやベッドシーンが登場しますが、この映画には一切出てきません。正確に言うなら、1回だけキスシーンおよび男女が手を繋ぐシーンが登場します。いまどき、こんな清純な恋愛映画も珍しいですね。

結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)

 

そう、この映画での恋愛は肉体的ではなく、あくまでも精神的な恋愛なのです。そして、精神的な恋愛といえば、拙著『結魂論〜なぜ人は結婚するのか』(成甲書房)で詳しく紹介した「プラトニック・ラブ」という言葉が思い浮かびます。「プラトニック」とはプラトン的ということで、古代ギリシアの哲学者の名前が「愛」という普遍的な概念と結びついて、今でも日常的に使われているというのは、考えてみればすごいことです。愛の起源についての最も有名で、最も古いエピソードは、プラトンによるものです。その話は紀元前4世紀、アテネにはじまります。

 

 

古代ギリシャで新進気鋭の哲学者だったプラトンは『饗宴』というタイトルの小冊子を書こうと決心します。これは、すでに故人となった彼の恩師、ソクラテスを讃えるためのものでした。その『饗宴』の中で、プラトンは、喜劇作家のアリストファネスが語ったという設定で、人間はもともと球体であったという「人間球体説」を紹介しました。元来は1個の球体であった男女が、離れて半球体になりつつも、元のもう半分を求めて結婚するものだというのです。ゆえに、『饗宴』の中には、「愛は1つになりたいという願いである」という言葉が登場します。


何年も何年も別れた半球をさがし求め、無駄に終わった者もいれば、幸運に恵まれた者もいました。そして、これこそが愛の起源でした。愛は心の底にある強い憧れであり、完全になりたいという願いであり、自分とぴったりの相手にめぐり合えたときには、故郷に帰って来たような気がします。そして元が1つの球であったがゆえに湧き起こる、溶け合いたい、1つになりたいという気持ちこそ、世界中の恋人たちが昔から経験してきた感情だというのです。


「リビング北九州」2014年11月29日号

 

プラトンはこれを病気とは見なさず、正しい結婚の障害になるとも考えませんでした。人間が本当に自分にふさわしい相手をさがし、認め、応えるための非常に精密なメカニズムだととらえていたのです。そういう相手がさがせないなら、あるいは間違った相手と一緒になってしまったのなら、それは私たちが何か義務を怠っているからだとプラトンはほのめかしました。そして、精力的に自分の片割れをさがし、幸運にも恵まれ、そういう相手とめぐり合えたならば、言うに言われぬ喜びが得られることを、プラトンはわたしたちに教えてくれたのです。


この映画では、恋する女性が光り輝いて見えますが、西尾はある女性が自分の暗い人生を光で照らしてくれたと告白する場面があります。暗い場所に光が射すということのルーツは、かの「天岩戸神話」です。わが社の社名は「サンレー」といいます。これには、「SUN−RAY(太陽の光)」そして「産霊(むすび)」の意味がともにあります。わが社は葬儀後の遺族の方々の悲嘆に寄り添うグリーフケアに力を注いでいますが、それは必然のように思えます。なぜなら、グリーフケアとは、闇に光を射すことです。洞窟に閉じ籠っている人を明るい世界へ戻すことです。そして、それが「むすび」につながるのです。「SUN−RAY(太陽の光)」と「産霊(むすび)」がグリーフケアを介することによって見事につながるのです。


サンレーは冠婚葬祭業の会社です。結婚式や葬儀をはじめとした儀式によって多くの方々を幸せにするお手伝いをしています。映画「恋は光」の中で、平祐奈演じる東雲が「恋を光によって可視化するわけですよね」と言いますが、この「可視化」というセリフを聞いて、わたしは、その日の朝に行ったブログ「営業推進部総合朝礼」で紹介した会社行事の社長訓示の内容を思い出しました。そこで、わたしは「冠婚葬祭は、目に見えない『縁』と『絆』というものを目に見せてくれます」と述べ、「目に見えぬ縁と絆を目に見せる 素晴らしきかな冠婚葬祭」という道歌を披露したのであります。

目に見えぬ縁と絆を目に見せる 素晴らしきかな冠婚葬祭

 

この映画での光は「恋」を可視化するもの、冠婚葬祭は「縁」や「絆」を可視化するもの・・・・・・ともに目に見えないものを目に見せるという共通点があるのです。最後に、恋の光が見えるのは超能力の世界ですが、一般に恋の可視化は、キスやハグでしょう。世界中の多くのの恋する人々が、コロナ禍によって相手へのファースト・キスやファースト・ハグができにくい状況を何とかしないと、ますます非婚化、少子化の流れが加速すると危惧するのはわたしだけではありますまい。

 

2022年7月6日 一条真也