『唯葬論』 

一条真也です。
76冊目の「一条真也による一条本」紹介は、いよいよ『唯葬論』(三五館)の登場です。2015年7月23日の刊行で、戦後70年を記念しての出版でした。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

本書は「なぜ人間は死者を想うのか」というサブタイトルで、銀色の帯に「問われるべきは『死』ではなく『葬』である!」と大書され、「――途方もない思想がここに誕生―――」「戦後70年記念出版」と続きます。

唯葬論』の帯
帯の裏では章立てを紹介

 

帯の裏には「すべては『葬』から始まった」として、以下のような本書の章立てが紹介されています。アマゾンの「内容紹介」には以下のように書かれています。
「人類の文明も文化も、その発展の根底には『死者への想い』があったと考えている。本書で『唯葬論』というものを提唱したい――。7万年前に、ネアンデルタール人が初めて仲間の遺体に花を捧げたとき、サルからヒトへと進化した。その後、人類は死者への愛や恐れを表現し、喪失感を癒すべく、宗教を生み出し、芸術作品をつくり、科学を発展させ、さまざまな発明を行なった。つまり『死』ではなく『葬』こそ、われわれの営為のおおもとなのである。終戦から70年を経た現代に横行する『直葬』や『0葬』に異議を唱え、すべての生者・死者のこころにエネルギーを与える、途方もない思想の誕生。日本の思想史上の系譜、『唯幻論』『唯脳論』は、この『唯葬論』によって極まる! 宇宙論/人間論/文明論/文化論/神話論/哲学論/芸術論/宗教論/他界論/臨死論/怪談論/幽霊論/死者論/先祖論/供養論/交霊論/悲嘆論/葬儀論・・・・・・18のキーワードから明らかになる、死と葬儀の真実!」
自分で読んでいて思わず注文したくなるような血わき肉おどる「内容紹介」ですが、これは三五館の編集部によって書かれた文章です。なお、もし、将来的に本書の増補改訂版を出す機会があれば、「政治論」と「経済論」を追加して全20章としたいです。


カバー前そで

本書の「目次」は以下のようになっています。
「はじめに――唯葬論とは何か」
第一章 宇宙論
人間は「宇宙の子」である
宇宙と人間
人間原理宇宙論
宇宙から地球を見る
人類最初の宇宙人
死後の世界のシンボル
「月面聖塔」と「月への送魂」
第二章 人間論
ホモ・サピエンス
人類の起源について
ネアンデルタール人と現生人類
ホモ・フューネラル
唯心論と唯物論
共同幻想論
唯幻論
唯脳論
第三章 文明論
文明のシンボルとしての墓
さまざまな葬法
死者を弔うということ
故人再生ロボット
第四章 文化論
精神文化とシンボル
なぜシンボルが発生したか
迷宮に死者は住む
巨大な死者の存在
ピラミッドと迷宮
古代ギリシャの「死」の文化
葬儀が文化を生んだ
死の拒絶
第五章 神話論
死の起源の神話
古事記』における死の起源
神話の力
第六章 哲学論
哲学・芸術・宗教
哲学とは何か
プラトンイデア
ネオ・プラトニズムへ
ハイデガーの「死の哲学」
田辺元の「死の哲学」
死者との豊かな関係性の哲学
第七章 芸術論
芸術とは何か
「死の芸術」こそ芸術の起源
人類最古の音楽
音楽とは人間にとって何か
葬儀と音楽
ARTの本質とは
演劇としての葬儀
劇場国家のスペクタクル
第八章 宗教論
宗教とは何か
宗教の起源をめぐって
儒教という宗教
最高の死の説明者
人は死なない
神道と仏教と儒教
宗教にとって葬儀が一番大事
「宗教」から「宗遊」へ
第九章 他界論
死後の世界
地獄とは何か
天国とは何か
霊の住む処
天国の発見
常世
日本人の「あの世」観
再会の約束
第一〇章 臨死論
臨死体験〜死ぬとき心はどうなるのか
再注目される臨死体験
プルーフ・オブ・ヘヴン
天国は、ほんとうにある
死は最大の平等である
第一一章 怪談論
怪談とは何か
怪談百年周期説
慰霊と鎮魂の文学
遠野物語』と怪談の時代
泉鏡花、金沢、柳田國男
村上春樹作品の怪談性
東日本大震災と怪談
第一二章 幽霊論
被災地で語られる幽霊談
戦後の沖縄でも幽霊は出た
「妖怪」と「幽霊」
幽霊の出現
葬儀と幽霊
幽霊づくりの方法
幽霊とホログラフィー
第一三章 死者論
おみおくりの作法」
神秘学の考え方
死者をイメージする
死者の人生プロセス
物語から学ぶ死の真実
死者のゆくえ
埋葬から豊かな精神文化へ
第一四章 先祖論
祖先崇拝の論理
祖先崇拝と葬儀
祖先崇拝のシンボリズム
先祖供養と日本人
柳田國男と固有信仰
第一五章 供養論
供養の本質
盆は最大の供養行事
グリーフケアの文化装置
正月とクリスマス
供養装置としての仏壇
死者の救済史
死者への最高の供養
第一六章 交霊論
スピリチュアリズムの誕生
心霊研究の歴史
心霊主義モダニズム
ショーと演劇
アンチ・スペクタクル
心霊写真とは何だったのか
交霊術としての読書
第一七章 悲嘆論
グリーフケアとは何か
人間の一番の苦悩とは
西田幾多郎の人生の悲哀
死者を思い出すという「誠」
仏式葬儀はグリーフケアの文化装置
「シャボン玉」と「ホタル」
東北の被災地へ
また会えるから
第一八章 葬儀論
儀式とは何か
葬儀をあげる意味
儒教と「人の道」
ヘーゲルが説いた「埋葬の倫理」
葬式仏教正当論
誤訳が生んだ葬儀無用論
インド仏教が衰退した理由
葬儀は人類の存在基盤
「おわりに――終戦七〇年に思う」
「参考文献一覧」



わたしは、葬儀とは人類の存在基盤であると思っています。約7万年前に死者を埋葬したとされるネアンデルタール人たちは「他界」の観念を知っていたとされます。世界各地の埋葬が行われた遺跡からは、さまざまな事実が明らかになっています。「人類の歴史は墓場から始まった」という言葉がありますが、たしかに埋葬という行為には人類の本質が隠されていると言えるでしょう。それは、古代のピラミッドや古墳を見てもよく理解できます。


人類の営為の根底には「死者への想い」がある!

 

わたしは人類の文明も文化も、その発展の根底には「死者への想い」があったと考えます。世の中には「唯物論」「唯心論」をはじめ、岸田秀氏が唱えた「唯幻論」、養老孟司氏が唱えた「唯脳論」などがありますが、わたしは本書で「唯葬論」というものを提唱しました。結局、「唯○論」というのは、すべて「世界をどう見るか」という世界観、「人間とは何か」という人間観に関わります。わたしは、「ホモ・フューネラル」という言葉に表現されるように人間とは「葬儀をするヒト」であり、人間のすべての営みは「葬」というコンセプトに集約されると考えます。



カタチにはチカラがあります。カタチとは儀式のことです。わたしは冠婚葬祭会社を経営していますが、冠婚葬祭ほど凄いものはないと痛感することが多いです。というのも、冠婚葬祭というものがなかったら、人類はとうの昔に滅亡していたのではないかと思うのです。わが社の社名である「サンレー」には「産霊(むすび)」という意味があります。神道と関わりの深い言葉ですが、新郎新婦という2つの「いのち」の結びつきによって、子どもという新しい「いのち」を産むということです。「むすび」によって生まれるものこそ、「むすこ」であり、「むすめ」です。結婚式の存在によって、人類は綿々と続いてきたと言ってよいでしょう。最期のセレモニーである葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのです。



オウム真理教の「麻原彰晃」こと松本智津夫が説法において好んで繰り返した言葉は、「人は死ぬ、必ず死ぬ、絶対死ぬ、死は避けられない」という文句でした。死の事実を露骨に突きつけることによってオウムは多くの信者を獲得しましたが、結局は「人の死をどのように弔うか」という宗教の核心を衝くことはできませんでした。言うまでもありませんが、人が死ぬのは当たり前です。「必ず死ぬ」とか「絶対死ぬ」とか「死は避けられない」など、ことさら言う必要などありません。最も重要なのは、人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかということなのです。問われるべきは「死」でなく「葬」です。よって、本書のタイトルは『唯死論』ではなく『唯葬論』としました。



本書では、さまざまな角度から「葬儀こそ人類の最重要問題」であることを訴えました。本書を読めば、読者は「葬儀ほど知的好奇心を刺激するテーマはない」ことを思い知るでしょう。いつもは「なるべく平易な言葉で書こう」「難解な哲学書などを引用するのはやめよう」などの配慮をするのですが、今回はガチンコで行きました。文体も「です」調ではなく「である」調ですし、ヘーゲルの『精神現象学』やハイデガーの『存在と時間』などの哲学書もガンガン引用しました。その結果、前代未聞の本が完成したように思います。まさに、一条真也の集大成です。わたしは、この本を書くために生まれてきたと思っています。


「哲学」ベストセラーの1位になりました!

アマゾン「哲学の売れ筋ランキング」

 

本書は、なんとアマゾン「哲学」ベストセラーの1位になりました。おそらくは「朝日新聞」の全国版に出稿した書籍広告の効果だと思いますが、嬉しいです。やはり、全国紙の広告の力は大きいと痛感しました。出稿して下さった三五館さんに感謝です!


朝日新聞」8月19日朝刊(全国版)より

 

朝日の広告には、冒頭に「芸術も文化も全て葬儀から始まった。」というキャッチコピーがついています。わたしは芸術は文化に含まれると考えていますので、本当は「文明も文化も全て葬儀から始まった。」あるいは「芸術も宗教も全て葬儀から始まった。」としたいところですが、おそらくは稀代の名コピーライターであった三五館の星山佳須也社長が考えて下さった文章でしょうから、わたしごときに口は挟めません。また、「葬送論の第一人者が人間学を集大成!」「なぜ人間は死者を想うのか? 『葬儀』という視点から読み解く文明論の金字塔。読まずに『生と死』は語れない、渾身の18章。」「戦後70年記念出版」と書かれています。身に余るお言葉であり、改めて深く感謝しております。


毎日新聞」8月11日夕刊(全国版)

 

哲学書ランキングで1位になったのは、「毎日新聞」全国版の書評記事の効果もあったと思います。やはり、「朝日新聞」や「毎日新聞」の講読者には読書家が多いということなのでしょう。いずれにしても、ありがたいことです。記事は「ピックアップ」として、こう書かれています。
宇宙論、哲学論、供養論など、全18章。人類発展の根底には死者への想いがあり、全ては『葬』から始まると説く。葬儀は故人の魂を送るとともに、残された人々の魂にもエネルギーを与えるという。通夜・告別式なしで火葬場に直行する『直葬』や、遺骨・遺灰を火葬場に捨てる『0葬』など礼に反する行為に警鐘を鳴らす」


中外日報」2015年10月9日号

 

また、京都に本社を置く日本最大の宗教新聞「中外日報」にも「葬儀軽視は精神文化の否定」の見出しで、以下の書評記事が掲載されました。
「『重要なのは人が死ぬことではなく、死者をどのように弔うかである』――問われるべきは『死』ではなく『葬』である、というのがタイトルに込めた著者の思いである。葬儀の歴史や人類史における葬送儀礼の変遷について論じたものはこれまでもある。しかし葬儀が人類にとって未来永劫に必要不可欠の営みであることを、ここまで強く訴えた人はいない。葬式不要論の流行に対し、著者は立て続けに葬儀の必要を訴える本を世に問い、葬儀を軽んじることは精神文化の否定につながると警鐘を鳴らしている。本書は、もとより『葬儀の意味論』の範疇にとどまるものではない。人類は永遠に繰り返す生と死の営みの中で、豊かな精神文化を築いてきたことを18章にわたり、さまざまな角度から論じていく。筆者は自らの知識を総動員し、人類が生と死にどう向き合ってきたかを考え、『生者は死者に支えられて生きている』こと、葬儀は残された人を死の悲しみから生に引き戻す力となるグリーフケアの文化装置であることを繰り返し説いている」
達意の文章で本書の要諦を書いてくれていますが、特に「葬儀の歴史や人類史における葬送儀礼の変遷について論じたものはこれまでもある。しかし葬儀が人類にとって未来永劫に必要不可欠の営みであることを、ここまで強く訴えた人はいない」という一文に胸が熱くなりました。


「フューネラルビジネス」2015年12月号

 

さらに、冠婚葬祭業界のオピニオン・マガジンである「月刊フューネラルビジネス」にも紹介され、「Book Review」のコーナーの記事に「大手互助会の社長を務める著者が、社会や民族、生者と死者にとって『葬儀』はいかに必要不可欠かを説く。書名の『唯葬論』には、問われるべきは『死』(人が死ぬこと)ではなく、『葬』(死者をどのように弔うか)であるという著者の思いが込められている。全18章で、葬儀の本質は宇宙で生まれた人間が、故郷である宇宙に還ることにあると説く『宇宙論』にはじまり、人間の本質を述べた『人間論』、文明のシンボルは墓にあるとした『文明論』などと続き、最終章『葬儀論』で“葬儀の意味”についての見解を述べる。『葬儀こそ人類の最重要問題』と位置づけ、さまざまな角度から葬儀を論じる本書は、葬儀が亡くなった者のためだけにあるのではなく、今後生きていく者にとっても重要な意味をもつことを気づかせてくれる」と紹介されました。


東京自由大学で鎌田先生とトーク

 

バク転神道ソングライター」こと宗教哲学者で京都大学こころの未来研究センター教授(当時)の鎌田東二先生は、「この本は、佐久間〜一条さんの仕事の集大成で、これまでの著作の中で最も体系的・全体的・網羅的で、葬儀哲学・葬送哲学・儀礼哲学概論とも百科全書ともいえるもので、ヘーゲル的な体系性を想起します」とメールに書いて下さいました。また、「勇気の人」こと東京大学医学部大学院教授(当時)で東大病院救急部・集中治療部長(当時)の矢作直樹先生から丁重なメールが届きました。メールには「『唯葬論』は、文字通り、一条さんの葬送に対する集大成ということがひしひしと伝わってくる内容ですね。さまざまな領域ごとに章立てをするというたいへん全うかつ意外と”一冊の本”の中にまとめてあるのをみることのなかったユニークなスタイルがいいです。一条さんの博識となにより尊い現場感覚が裏打ちしているという圧倒的な強みが説得力を生んでいると思います。本当によいご本ですね」と書かれていました。


東大病院師弟コンビと(かみさまシンポ懇親会にて

 

矢作先生の教え子であり同志でもある東大病院(当時)の稲葉俊郎先生は、ご自身のブログ「」に「一条真也『唯葬論』(前編)」という記事を書いて下さいました。一部で「日本一の長文ブロガー」などと言われている(苦笑)わたしでさえ、「うっ、長い!」と思ったほどの力作でした。しかも、この長い長い書評ブログが『唯葬論』全体の半分の内容にしか言及していない事実には、わたしもぶっ飛びました(笑)さらに、稲葉先生は「一条真也『唯葬論』(後編)」を書いて下さいました。(後編)も(前編)に劣らず長いです。そして、深いです! (前編)では<他界論>まででしたので、今回は<臨死論><怪談論><幽霊論><死者論><先祖論><供養論><交霊論><悲嘆論><葬儀論>についての感想が丁寧に綴られています。まず稲葉先生は、「後半からは、かなり本格的に『唯葬論』の内容に踏み込んでいくと感じました。 一条さんは、本書の中で、問われるべきは『死』そのものではなく『葬』である、と書かれています。『死』という現象そのものより、その現象に対して我々がどう考え、どういう行動をとるのか、そのことにこそ本質があるのだ、ということでしょう。自分も同感です」と書かれています。現役の臨床医師の言葉だけに説得力があると思いました。

稲葉俊郎氏のブログ「吾」より

 

続けて、稲葉先生は以下のように書かれています。
「一条さんが『死を、<不幸なことが起きました>などと表現するのはおかしい。そうなると、誰もが最終的には<不幸になるではないか>』とよくおっしゃられます。自分たちが、『死』という『生』のひとつのピリオドをどのように捉えるのか。そのことは、まさに『生』そのものの事でもあります。何のためにいきるのか、なぜ生まれてきたのか・・・遥か遠くを見据えた目指すべき目標が、その人にとって確かなものでありさえすれば、生きる過程で起きる様々なことも、なんとか乗り越えて行けるはずです。『生』を考えることは『死』を考える事。同時に『死』を考えることは『生』を考える事。一人称の死、二人称の死、三人称の死・・・それぞれが自分にとって大きく違う意味を持ちます。抽象的になりやすい『死』を、具体的な行為に落とし込んだものこそが『葬』なのでしょう」

唯葬論』(サンガ文庫)

 

唯葬論』の単行本は、終戦70年の年である2015年の7月に三五館から出版されました。ここに紹介したように、かなりの反響がありました。しかし、2017年10月に版元が倒産するという想定外の事態が発生したのです。わたしの執筆活動の集大成と考えていた『唯葬論』ですが、同じく三五館から刊行された17冊の拙著とともに絶版になることが決まりました。当然ながら、わたしは大きなショックを受け、意気消沈していました。それを知った鎌田先生が仏教書出版のニューウェーブとして知られるサンガの編集部に掛けあって下さり、サンガ文庫入りが実現しました。鎌田先生には感謝の念でいっぱいです!

 

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2022年6月10日 一条真也