さらば、怒涛の怪力!

一条真也です。
7日、沖縄の那覇のホテルで目が覚めました。昨日、沖縄の新型コロナウイルスの新規感染者が981人と過去最多を記録しました。東京の人口に換算すると、なんと1万人以上になります。わが社の会員様や社員のみなさんが心配ですが、この日、福岡に帰ります。

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亡くなったストロング小林さん

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ヤフーニュースより

 

さて、元プロレスラーのストロング小林さん逝去のニュースには驚きました。近しい関係者によれば小林さんは昨年末に都内の病院で亡くなったそうです。死因は不明ですが、81歳でした。小林さんは1966年に国際プロレスに入門。翌67年に日本初の覆面レスラー「覆面太郎」としてデビューしました。68年から素顔に戻り、国際プロレスのエースとして活躍。モンスター・ロシモフと名乗っていた若き日のアンドレ・ザ・ジャイアントとも激闘を繰り広げました。昭和を代表するプロレスラーでした。


小林さんは現在闘病中のアントニオ猪木さんと「昭和の巌流島」と呼ばれる名勝負を繰り広げたことで知られます。この試合について書かれた名著が、ブログ『昭和プロレス禁断の闘い』で紹介した福留祟広氏の著書です。「『アントニオ猪木ストロング小林』が火をつけた日本人対決」というサブタイトルがついた430ページの力作で、とても読み応えがありました。

 

 

この本の「禁断の扉から始まる物語 『まえがき』にかえて」で、著者は「この国で行われた、団体の枠を超える初めての日本人によるトップ同士の対決は、昭和29(1954)年12月22日、蔵前国技館で対戦した『力道山木村政彦』だった。試合は、力道山が木村の顔面を蹴り上げてKOする凄惨な結末で幕を閉じた。この試合をきっかけに、日本人対決は、長く封印され、いつしか『やってはいけないこと』すなわち『禁断』と呼ばれるようになる。この『禁断』の扉を開けたのが昭和49(1974)年3月19日、蔵前で闘った『アントニオ猪木ストロング小林』だった」と書いています。


小林さんは74年2月に国際プロレスを退団し、一時的に東京スポーツ新聞社の所属レスラーとなりました。同年3月に新日本プロレス蔵前国技館で猪木さんの持つNWF世界ヘビー級王座に挑戦。ジャーマンスープレックスで敗れましたが、当時としては異例の日本人選手同士・団体エース同士のタイトルマッチは高い注目を集めました。


その後は「怒涛の怪力」のニックネームで新日本プロレス、WWWFなどで活躍し、84年に引退。引退後は「ストロング金剛」の芸名でタレントとしても活躍。芸能活動引退後は脊髄損傷の重傷を負い、数年前から寝たきりの生活を送っていることが明かされていました。小林さんの御冥福を心よりお祈りいたします。合掌。


2022年1月7日 一条真也