「梅切らぬバカ」

一条真也です。24日、京都から東京に入りました。
その日の夕方、銀座で出版関係者と打ち合わせをした後、シネスイッチ銀座で地元では鑑賞できない映画を観ました。この日に観た作品は、日本映画「梅切らぬバカ」でした。執筆中の次回作『心ゆたかな映画』向きの作品かなと思ったのですが、なんとも言えぬ後味でした。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「女優の加賀まりこ自閉症の息子の将来を案じる老いた母親を演じるヒューマンドラマ。地域社会から孤立し、息子と二人きりで生きてきた母親が、息子の自立を模索する。お笑い芸人で『間宮兄弟』などの俳優としても活動する塚地武雅が息子を演じるほか、渡辺いっけい森口瑤子、斎藤汰鷹、林家正蔵高島礼子などが共演。監督を『禁忌』などの和島香太郎が務める」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、「占い師の山田珠子(加賀まりこ)は自閉症の息子・忠男(塚地武雅)と二人で暮らしていたが、ある日、忠男の通う作業所で知的障害者のためのグループホームへの入居を勧められる。珠子は自分の死後の忠男の人生を考え、忠男の入居を決める。しかし、環境の変化に戸惑った忠男は、ホームを抜け出した際に、ある事件に巻き込まれてしまう」となっています。


この映画、観ている間、ずっとモヤモヤします。そして、モヤモヤとした気分のまま唐突に終わってしまいます。観客はカタルシスを得ることはできませんし、年老いた母親と自閉症の息子を救う社会的解決策も何ら示されません。でも、現代社会が抱える問題のいくつかを「見える化」していることは確かです。知的障害者のためのグループホームの実態は初めて知りました。また、そこで働かれている方々に深い敬意の念を抱きました。本当に、ケアの精神がないと、この仕事はできないと思います。自閉症の男性・忠男を演じた塚地武雅の演技力には唸りました。あれは簡単なようで、なかなか難しいと思います。「すごい役者だな!」と思いましたね。


忠男の母親・珠子を演じた加賀まりこも良かったです。77歳の彼女は、なんと54年ぶりの映画主演だとか。50歳になる自閉症の息子を1人で育てる老いた母親という立場は客観的に見て、けっこう辛いものがありますが、まったく辛さを感じさせません。その強さや明るさは、加賀まりこ本人そのもののように思えます。彼女は59歳の時から6歳年下の演出家・清弘誠と事実婚を18年間続けていますが、彼の息子さんが自閉症だそうです。息子さんは45歳とのことで、映画の忠男が49歳。当然ながら、映画と現実がシンクロしたでしょう。加賀まりこは、この映画に関するインタビューで、「今は芸能人じゃなくても色々生きづらい世の中だと思うけど、他人のことを気にするなら、その何分の一でも、障害を持つ人や、その家族に目を向けてくれたらいいのにと思うのね」と語っています。

 

加賀まりこといえば、若い頃は「小悪魔」の代名詞的存在でした。7歳でデビューし、20歳で単身パリに逃避。写真家・立木義浩に乞われ、27歳のときにヌード写真集を出しました。その27歳で子供を授かると、シングルマザーとして出産。7時間後に喪りましたが、前を向いて生きてきました。そんな彼女が18歳のときに主演した「月曜日のユカ」(1964年)は、わたしの大好きな映画です。中平康が監督を務め、斎藤耕一倉本聰が脚本を担当し、「日本のヌーヴェルヴァーグ」と謳われました。主人公のユカは18歳の女の子で、横浜の上流ナイトクラブで人気を集めています。彼女は平気でいろんな男と寝ますが、決してKISSはしません。あのユカを演じた加賀まりこが60年後に「梅切らぬバカ」の珠子を演じるとは!

 

 

映画「梅切らぬバカ」は、自閉症の人の描写がリアルです。わたしは、ブログ『自閉症の僕が跳びはねる理由』で紹介した本の内容を思い出しました。当時13歳の自閉症の少年だった東田直樹さんが書いたエッセイ集で、「会話のできない中学生がつづる内なる心」というサブタイトルがついています。わたしは、この本から自閉症の人の心の中を教えてもらいました。大いに驚くとともに、納得できることも多くありました。これまで、電車の中などで自閉症児が大きな声などを出すと、どうしてもそちらを見てしまう自分がいました。そして、「ああ、気の毒なお子さんだな」とか「親御さんも大変だなあ」などと思っていたことが恥ずかしくなりました。今は、障害者として同情するのではなく、困難に立ち向かう強い精神力を持った1人の人間としてリスペクトしています。


隣人の時代』(三五館)

 

でも、自閉症の人に対する世間の目はまだまだ偏見に満ちており、そのへんの嫌な感じも映画ではよく描いていました。ただ、グループホームの撤去を求める住民たちの行動も単なる「住民エゴ」と切り捨てられない部分もあり、なかなか難しいです。『隣人の時代』(三五館)の著者であるわたしとしては、地域社会の人々が仲良く暮らすのを望んでいることはもちろんですが、現実は甘くはありません。この映画では、山田家の庭の梅の木が柵を越えて道にはみ出しています。住民には邪魔なだけでなく危険です。山田家の隣に引っ越してきた一家の父親(渡辺いっけい)と母親(森口瑤子)は梅の木を切ってほしいと訴えますが、珠子は従いません。それは忠男が父親と植えた梅の木で、それを切ろうとすると忠男が錯乱するからです。


でも、そのような事情があるにせよ、やはり人様の迷惑になるのであれば、道にまで伸びた梅の木は切るべきでしょう。珠子も、忠男を守るだけでなく、近所の人たちの心中というものも想像する必要があります。ちなみに、わが家は道に伸びた桜の木の枝を切ったことがあります。タイトルの「梅切らぬバカ」は、「桜切る馬鹿梅切らぬ馬鹿」ということわざから来ています。桜は枝を切るとそこから腐りやすくなるので切らないほうが良く、梅は枝を切らないとむだな枝がついてしまうので切ったほうが良いとされるという意味です。また、桜の枝は切らずに折るほうが良く、梅の枝は折らずに切るほうが良いことからとも言われますが、桜は折ることも良くないとされます。桜は剪定が難しく、梅は剪定が容易ということでもあります。


隣人の時代』では、「隣人愛」の本質と系譜について詳しく書きました。「隣人愛」は「相互扶助」に通じます。「助け合い」ということです。よく、「人」という字は互いが支えあってできているなどと言われます。互いが支え合い、助け合うことは、じつは人類の本能だと思います。古代ギリシャの哲学者アリストテレスは、「人間は社会的動物である」と言いました。近年の生物学的な証拠に照らし合わせてみると、この言葉はまったく正しかったことがわかります。結局、人間はどこまでも社会を必要とするのです。人間にとっての「相互扶助」とは生物的本能であるとともに、社会的本能でもあるのです。人間がお互いに助け合うこと。困っている人がいたら救ってあげること。これは、人間にとって、ごく当たり前の本能なのです。映画「梅切らぬバカ」の後半では、ある事件がきっかけで山田家とお隣さんが仲直りして、夕食を共にします。まさに、リアル「隣人祭り」であり、「人の世も捨てたもんじゃないな」と思わせてくれるシーンでした。

 

2021年11月25日 一条真也