「日本人と死生観」シンポジウム

一条真也です。
京都に来ています。晴天となった23日は、ブログ「『日本人と死生観』シンポジウムのご案内」で紹介した現代京都藝苑 2021のシンポジウムに出演しました。

f:id:shins2m:20211121145651j:plain「日本人と死生観」シンポジウムのチラシ

f:id:shins2m:20211123115338j:plain京都大学  稲盛財団記念館の前で

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開始前の会場で

 

シンポジウムの会場は京都大学稲盛財団記念館です。ここに来たのは、ブログ「『こころの再生』シンポジウム」に書いたように、2012年7月13日に開催されたシンポジウム以来です。そのときは、「東日本大震災グリーフケアについて」を報告する機会も与えていただきました。わたしにとって、まことに貴重な経験となりました。

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やまだ先生と「物語」について歓談

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鎌田先生・やまだ先生と語り合う

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鎌田先生と打合せ

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鎌田先生と語り合う

 

大自然の一部であり大自然へと還り行く人間」である日本的死生観が、「悲とアニマⅡ」のサブタイトルでいうところの「いのちの帰趨」につながるといいます。つまり、柳田国男の『先祖の話』が指摘するように、日本人の世界観は「あの世(幽)」と「この世(顕)」が区切られつつも連続しています。仏壇やお盆がそうであるように、死者の魂と生者は日常的に交流しています。そして、死者の魂は時々子孫に転生し、やがて33回忌をめどに祖霊に溶け込んでいくとされます。

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挨拶をする鎌田先生

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比叡山に向かって法螺貝を奏上

 

「日本人と死生観」シンポジウムは、13時からの開催でした。まずは主催者からの趣旨説明がありました。まず、本シンポジウムのタイトルが「日本人【の】死生観」ではなく「日本人【と】死生観」であるのは、死生観には古今東西に様々な種類があるけれども、その1つである日本人の死生観にはどのような意義があるのかを論じ合い、展覧会「悲とアニマⅡ」展と連動させたいからだといいます。

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出演者紹介

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過分な紹介を受けました

 

また、「神の似姿として自然の管理者である人間」という西洋的死生観とは異なる、鎌田東二先生の『翁童論』が指摘しているように、「幽」と「顕」の転生において子供と老人は「幽」に近いとされます(七歳までは神の内)。そして、磯部忠正の『「無常」の構造』が指摘するように、あらゆる価値の源泉は大自然にあり、その強い現れが神であり、その弱い現れが人であるとされます。大自然の根源は「幽」にあり、人はその「幽」から伝わる大自然の働きを「顕」の生活に生かしていくために、できるだけ我を小さくして私心なく無心で生きることが理想とされます。ここには、現代文明の行き詰まりを乗り越えるための古くて新しいヴィジョンが含まれているというわけです。

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やまだようこ先生の発表

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興味深く拝聴しました

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鎌田東二先生の発表

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興味深い内容でした

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広井良典先生の発表

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こういう話が聴きたかった!

 

趣旨説明の後、13時15分から14時まで、やまだようこ(ものがたり心理学研究所所長・京都大学名誉教授)先生が登壇。14時から14時45分までは、鎌田東二上智大学グリーフケア研究所特任教授・京都大学名誉教授)先生が登壇。15分間の休憩を挟んで、15時から15時45分までは、広井良典京都大学こころの未来研究センター教授)先生が登壇。いずれも非常に示唆に富んだお話でした。ちなみに広井先生は「定常型社会」「社会的持続可能性」についての第一人者であり、翌24日は大分市で開催される第69回九州経済同友会大会で基調講演をされます。演題は、「人口減少・成熟社会のデザイン」です。

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マスク姿で登壇しました

f:id:shins2m:20211123154923j:plain「死生観の『かたち』」発表スタート!

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「死を乗り越える」三部作

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葬儀四部作

そして、15時45分から、わたしの番が来ました。わたしは、上智大学グリーフケア研究所客員教授・作家として登壇しました。テーマは「死生観の『かたち』」です。冒頭、自己紹介を兼ねて、「死を乗り越える」三部作や葬儀四部作などの自著を紹介。それから、日本人の死生観のターニング・ポイントとして、「すべては1991年から始まった」という話をしました。現代日本の葬儀に関係する諸問題や日本人の死生観の源流をたどると、1991年という年が大きな節目であったと思います。

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日本人の死生観の地殻変動について

f:id:shins2m:20211123155606j:plainすべては1991年から始まった①

 

わたしが往復書簡を交わし、対談し、『葬式に迷う日本人』(三五館)という共著を出した宗教学者島田裕巳氏も1991年が日本人の葬儀を考える上でのエポックメーキングな年であると述べていましたが、わたしもまったく同意見です。まさにその年に島田氏の『戒名』(法蔵館)と拙著『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)が刊行されました。ともに既存の葬式仏教に対して大きな問題を提起したことで話題となりました。その他にも「死」と「葬」と「宗教」をめぐって、さまざまな問題が起こりました。

f:id:shins2m:20211123155627j:plainすべては1991年から始まった②

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鎌田先生が聴いて下さいました

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儀式文化について

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会場のようす

 

一連のオウム真理教事件の後、日本人は一気に「宗教」を恐れるようになり、「葬儀」への関心も弱くなっていきました。もともと「団塊の世代」の特色の一つとして宗教嫌いがありましたが、それが日本人全体に波及したように思います。そこで、わたしは「永遠葬」を打ち出しました。「永遠葬」は単なる書名ではなく、1つの思想です。「永遠葬」という言葉には、「人は永遠に供養される」という意味があります。日本仏教の特徴の1つに、年忌法要があります。初七日から百ヶ日の忌日法要、一周忌から五十回忌までの年忌法要です。五十回忌で「弔い上げ」を行った場合、それで供養が終わりというわけではありません。

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葬儀は「不死のセレモニー」

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儀式の役割について

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水(こころ)と器(かたち)について

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「こころ」と「かたち」のメタファー

 

故人が死後50年も経過すれば、配偶者や子どもたちも生存している可能性は低いと言えます。そこで、死後50年経過すれば、死者の霊魂は宇宙へ還り、人間に代わってホトケが供養してくれるといいます。つまり、「弔い上げ」を境に、供養する主体が人間から仏に移るわけで、供養そのものは永遠に続くわけです。まさに、永遠葬です。有限の存在である「人」は無限のエネルギーとしての「仏」に転換されるのです。これが「成仏」です。あとは「エネルギー保存の法則」に従って、永遠に存在し続けるのです。つまり、人は葬儀によって永遠に生きられるのです。葬儀とは、「死」のセレモニーではなく「不死」のセレモニーなのです。

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すべての儀式は「卒業式」

f:id:shins2m:20211123233426j:plain通過儀礼は「こころ」のケア

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死をとらえなおす

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日本人の他界観


わたしたちは、どうすれば現代日本の「葬儀」をもっと良くできるかを考え、そのアップデートの方法について議論することが大切ではないでしょうか。わたしは、現在取り組んでいる葬イノベーション――四大「永遠葬」を紹介しました。日本人の他界観を大きく分類すると、「山」「海」「月」「星」となりますが、それぞれが対応したスタイルで、「樹木葬」「海洋葬」、「月面葬」、「天空葬」となります。この四大「永遠葬」は、個性豊かな旅立ちを求める「団塊の世代」の方々にも大いに気に入ってもらえるのではないかと思います。

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月こそ「あの世」である

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ムーン・ハートピア・プロジェクト

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太陽の塔」から「月の塔」へ

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月面葬について

 

わたしは、儀式を行うことは人類の本能ではないかと考えます。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られます。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのです。この本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないでしょうか。そして、そのとき、ネアンデルタール人の頭上の夜空には月が上っていたことでしょう。世界中の神話に「人は死んだら、月へ行く」と伝えられているように、また、さまざまな宗教が月を死後の天国として描いているように、月こそは「あの世」なのかもしれません。

f:id:shins2m:20211123163046j:plain「月への送魂」を動画で紹介
f:id:shins2m:20211123163231j:plain葬儀は人類の存在基盤です!

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葬儀は人類の存在基盤です。葬儀は、故人の魂を送ることはもちろんですが、残された人々の魂にもエネルギーを与えてくれます。もし葬儀を行われなければ、配偶者や子供、家族の死によって遺族の心には大きな穴が開き、おそらくは自殺の連鎖が起きたことでしょう。葬儀という営みをやめれば、人が人でなくなります。葬儀というカタチは人類の滅亡を防ぐ知恵なのではないでしょうか。そして、その未来形は「月の塔」や「月への送魂」といったカタチになるように思えます。

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全体討議のようす

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鎌田先生のお話を聴く

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広井先生のお話を聴く

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わたしも話しました

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自分の考えをストレートに述べました

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シンポジウムが無事に終了しました

以上のような話をした後、全体討議に入りました。ここでも、自分の考えを学者の先生方に遠慮なくぶつけました。特に、幸福論と死生観の関係について語りました。「死生観なくして幸福論なし」です。こうして、「日本人と死生観」シンポジウムは異様な熱を帯びたまま終了しました。わたし自身、非常に大きな学びを得ることができました。何よりも、京都大学のシンポジウムでムーン・ハートピア・プロジェクトを披露できたことが感無量でした。

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やまだようこ先生と

f:id:shins2m:20211123170742j:plain広井良典先生と

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鎌田東二先生と

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若い二人を囲んで

 

じつは、この日、家族が京都に来ており、揃って聴講してくれました。また、長女の婚約者がわざわざ福岡から駆け付けて聴講してくれました。それが非常に嬉しかったです。婚約者は京都大学出身ということもあり、長女を母校に案内することを兼ねて参加してくれたのです。思えば、ブログ「長女の結納」で紹介した3日の「文化の日」以来、20日間ずっとノンストップで走り続けてきました。シンポジウムがすべて終了した後、若い二人を鎌田先生に紹介しました。鎌田先生はとても喜んで下さいました。そして、その夜は鎌田先生と2人で「ShinとTonyのムーンサルトレター」200信達成の祝杯をあげました。

f:id:shins2m:20211124093502j:plainムーンサルトレター」200信達成の祝杯をあげました

 

2021年11月23日 一条真也