『しきたりに込められた日本人の呪力』

しきたりに込められた日本人の呪力


一条真也です。
東京に来ています。19日の東京は雨が降り、11月下旬なみの寒さでした。一転して、20日の東京の朝は晴天となり、久々に富士山がよく見えました。近くには国立競技場も見えますが、今年の夏にオリンピックとパラリンピックが開催されたことが幻のように思えました。それぐらい時の流れは速いですが、時を超えて続くものもあります。

f:id:shins2m:20211020084110j:plain今朝の東京から見た富士山

f:id:shins2m:20211020084337j:plain富士山と国立競技場

 

この日は、冠婚葬祭互助会業界の会議ラッシュです。わが業界は「しきたり」という流行を超えた文化を守る業界でもあります。ということで、『しきたりに込められた日本人の呪力』秋山眞人著、布施泰和協力(河出書房新社)を紹介いたします。秋山氏と布施氏のコンビによる本については、これまでブログ『日本オカルト150年史』ブログ『シンクロニシティ』で紹介した本を取り上げました。いずれも大変な力作でしたが、今度は、わたしの専門分野である冠婚葬祭や年中行事についての本を出されました。これは読まないわけにはいきません!

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本書の帯

 

本書のカバー表紙には、狐の面を被った白装束の神職のような人物の写真が使われ、帯には「干支、拍手、三三九度、獅子舞、供え物・・・行事や風習には『深遠な意味』がある!」「神聖なる力、霊的な恩恵にあやかる古来の知恵を解き明かす!!」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「長年受け継がれる“見えざる力”の秘密とは」として、◆「七五三」「名前の画数」・・・数に込められた恐るべき霊力とは? ◆「水引き」「卍字」・・・知らずに使っている形に秘められた呪力とは? ◆「へその緒」「毛髪」「爪」・・・人体の一部から放たれる霊的パワーとは? ◆「玉串」「鏡餅」・・・祈りや願いを込める呪具に隠された意味とは? ◆「盆踊り」「指切りげんまん」・・・動作やしぐさのスピリチュアル効果とは? ◆「六曜」「干支」「初夢」・・・運命や未来を読む、いにしえの知恵とは?

 

カバー前そでには、以下のように書かれています。
「年中行事や冠婚葬祭など、私たちの日々の暮らしは、さまざまな「慣習」や「しきたり」に彩られている。それらは、たんなる信仰や迷信に基づくものではなく、禍を遠ざけ、幸運を引き寄せる強いパワーをもっている。なぜ、そう言えるのか? どう説明されるのか? 日本人が秘めるスピリチュアルの神髄をひもとく!」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「風習の背後にある真の意味と私たちの未来
 ――まえがき」
1章 人生の節目をつつがなく――
   冠婚葬祭のしきたりの呪力
呪術だらけの「揺りかごから墓場まで」
へその緒
命名
七五三
元服(成人式)
結婚式
祝いと祓い
葬式
2章 季節を生きるための大切な歳時――
   年中行事のしきたりの呪力
年中行事の呪術性
鏡開き
おせち料理
獅子舞
初夢
節分
ひな祭り
端午の節句
盆踊り
重陽節句
中秋の名月
3章 幸せを願い、引き寄せるための――
   宗教儀礼のしきたりの呪力
祭りの原点にある宗教的儀礼
拍手
「祈り」の所作
太陽拝
禊と祓い
氏神と鎮守の神
地鎮祭
干支・方位・時間
六曜と暦
毛髪
饅頭
4章 禁忌や俗信と結びついた――
   身ぶり・所作に隠された呪力
タブーや縁起の良し悪しと結びついた所作

右回りと左回り
咳払いとくしゃみ
手ぶり
夜、口笛を吹いてはならない
夢解釈
5章 毎日、無意識に使っている――
   漢字・図形・数字に隠された呪力
文字や図形はしきたりから生まれた
漢字の呪術性
方角と色・形・数字
一〇八と煩悩
言霊
波形と十字形
色の呪術
6章 縁起の良し悪しを暗示する――
   言い伝え・ことわざに隠された呪力
心が後ろ向きになることを防ぐヒント
ジンクスと「約束呪術」
下駄の鼻緒
三日月形のお守り
噂されるとくしゃみが出る
「三度目」の霊的意味
ことわざ
7章 動作や歌詞に込められた神秘――
   遊び・わらべ歌に隠された呪力
子供に見えない世界を教える
かごめ唄
てるてる坊主
通りゃんせ
指や手による呪術
九字を切る
8章 日本人の精神世界を象徴する――
   古代神話に隠された呪力
神話と呪術性
呪力を象徴した神話
伝説のなかの呪術
終章 暮らしのなかで呪力を生かす知恵
礼と節
易と占い
心の変調
修行と眠り


「風習の背後にある真の意味と私たちの未来――まえがき」の冒頭を、著者は「しきたりには『実用的効果』がある」として、「私たちの生活には、年中行事や冠婚葬祭のしきたりや習慣が自然に染みついているといっていいだろう。だが、その不思議さに思いを巡らしたことはあるだろうか。しきたり探究は意外な面白さにつながっている」と書きだしています。


いまでも続いているしきたりや風習の歴史の裏には、実は先人たちが築いてきた霊的な知識や知恵が宝庫のように埋まっているのだとして、著者は「長い間に培われた神秘的な体験や経験の蓄積、すなわち歴史や伝統によって裏付けられた『実用的な呪術』が隠されているのである。私は今日の日本において、しきたりや伝統を『呪術性』『実用性』の観点から捉え直しをすることが非常に重要であると思う。それは同時に『オカルト』や『呪術』という捉え直しにもつながる。生活に使えるライフ・オカルティズムやポジティブ・オカルティズムを、しきたりから導き出せないかという実験的作業でもあるのだ」と述べています。



続けて、著者は「歴史や伝統は、学術的、客観的な事実としての出来事・事象を残していくための篩である。しかし、歴史や伝統には同時に、真の『実用性』を炙り出す力があるという言い方もできよう」と述べます。では、その実用性とは何かといえば、「ご利益」などという言葉で語られてきたものの奥にある「恩恵」と「実利」を最大限に利用することであるとして、「それが先人たちにとっての歴史的な『実用性』であったに違いない。だからこそ、それが風習となり、伝統として長く受け継がれてきたのではないだろうか」と述べます。


また、著者は以下のようにも述べています。
「無駄なしきたりはすぐに消えるし、『無駄な便利さ』もはかないものである。あっという間に忘れ去られる。90年代のなつかしいゲーム『たまごっち』もかつては大ブームとなり、サラリーマンもポケットに入れて持ち歩く時期もあったが、それもいまではすっかり廃れている。面白くて手軽で便利なメガヒットの流行も、消えるのはあっという間である。ところが「しきたりや風習」は、ほとんど消えることはなく、少なくとも100年以上は続いてきたものばかりである」



「習慣が予知能力を研ぎ澄ます」として、著者は「しきたりや風習は、窮屈に感じることなく、積み重ねてきた所作が自然な感覚でできるようになることによって、『能力を開発できた』とか『リラックスできた』とかいう実感が得られるようになる手段である。一石二鳥にも三鳥にもなる呪術性(呪力)をもっているからすごい。つまり、良いしきたりの見えない意味を知って、それを習慣化すれば、人は禍を遠のけて幸せになることができるのだ。だからこそ、しきたりや風習は大切なのである」と述べます。

f:id:shins2m:20190328111550j:plain儀式文化=冠婚葬祭+年中行事

 

本書でいう「呪術」とは、「人に禍をもたらす術」ではないといいます。見えない大自然力や、心の力、イメージ力を味方につけるための実用的技術、歴史的習慣を指すとして、著者は「そこには、ポジティブでためになる“テクノロジー”のヒントが深くかかわっているのである」と述べるのでした。わたしは、つねづね儀式という「かたち」には「ちから」があることを訴えてきました。日本人の儀式文化は冠婚葬祭と年中行事に大別されます。『儀式論』(弘文堂)をはじめ、『決定版 冠婚葬祭入門』、『決定版 年中行事入門』(ともにPHP研究所)を書いたわたしですが、この著者の意見には大賛成です。

 

 

1章「人生の節目をつつがなく――冠婚葬祭のしきたりの呪力」の「呪術だらけの『揺りかごから墓場まで』」の冒頭を、「人はオギャーと生まれた瞬間から習慣やしきたりに満ちた人生をスタートさせる。へその緒をどうするかに始まって、名前を何と名付けるか、そして七五三などの冠の祝いがあるかと思えば、やがて成長して婚礼、出産などにかかわる儀礼や儀式のオンパレードだ。やがて、両親が亡くなれば、葬祭の儀式に追われ、ついには自分が喜寿、米寿、白寿と齢を重ねたことを意識する儀式をされる。そしてついには、自分の葬儀が待ち受けているという塩梅である。まさに『揺りかごから墓場まで』呪術だらけだ」と書きだしています。


「結婚式 『縁起がいいとは、そもそもどういうことか』の「結納と語呂合わせ」では、結納や引き出物として出される食べ物には、地口や語呂合わせ的な意味もあると指摘し、著者は「鯣(するめ)は『日持ち』し、『噛めば噛むほど味が出る』という意味だし、柳樽や角樽の『樽』には、『足る』という意味と、『家内喜多留(家の内に多くの喜びがきて留まる)』という意味が込められている。鰹は『勝つ』、鯛は『めでたい』『なりたい』、昆布は生命力と子宝のシンボルで、『喜ぶ』という語呂合わせである」と述べています。



語呂合わせが非常に重要な意味をもつのは、もともと呪術のなかには、ある単語があって、その2番目の意味や解釈が潜在意識に落とし込まれやすいという性質があるからだと指摘し、著者は「メインの意味は顕在意識化するのに対して、2番目の意味は潜在意識化すると言い換えることもできる。半ば隠された2番目の意味が、潜在意識に影響を与えて、呪術的な意味をもつようになるのである。一種のサブリミナル効果がそこにあるのだ」と述べます。



その効果に気づいていた昔の中国では、たとえば「寿」「祥」「泰」など縁起のいい文字を記した札をあえて上下逆さまにして飾り、一目では読めないようにする「サブリミナル化」をすることによって縁起の力を強めるという風習があったことを紹介し、著者は「要は意識のメイン(顕在意識)ではわからないようにすればいいのである。意識のセカンド化(潜在意識化)をすると縁起物のパワーが強まるのだ。地口や語呂合わせは、まさにその言葉がもっている2番目の意味を使った呪力なのである」と述べています。


さらに、語呂合わせ、地口、洒落について、著者は「ポイントは潜在意識化するということだ。『私は成功する』と何度も唱えるような単純な暗示効果は、思ったほど成果に結びつかない。顕在意識で意味を考えながら唱えても、その人の欲望など余計な願望が付着して、成功のイメージがぼやけてしまうのである。『何も考えないで』とまではできなくとも、考えるファクター(余計な要素)をできるだけ入れずに、潜在意識にイメージを送り込まなければならない。それができるのが、語呂合わせや、地口、洒落なのだ」と述べます。


昔の日本人は、和歌にして雰囲気を伝えました。掛詞を使って、1番目の意味だけでなく2番目の意味をそれとなく忍ばせることによって、潜在意識にも響かせると、より奥行きのある神秘的な世界とつながることができるのだとして、著者は「和歌にはそうした呪術的効果がある。それは暗示効果ではあるのだが、それだけでは説明できない別の呪力も隠されている。それが、シンクロニシティという現象が引き起こすものだ」と述べています。


「三三九度、角隠し、お色直し」では、三三九度について、著者は「三三九度は中国の儀礼だという説もあるが、中国では本来、奇数は忌み嫌われていた。王朝交代で何度か変遷はあったものの、偶数のほうがおめでたいとされることが多かった。日本では奇数がほぼ一貫して縁起の良い数字といわれ、3を3回重ねるのは、非常におめでたいことであるとされた。家紋を見ても、同じシンボルを三つ重ねて『三菱』『三鱗』『三葉葵』などが古くから使われている」と述べます。ただし、三三九度の本格的な定着は戦後であり、習俗を100年以上続くものとする著者の認識に照らし合わせると、三三九度を習俗と呼ぶにはその期間が不足しているのではないでしょうか?


白無垢については、「白」は先入観をもたない「無垢」を表わすとして、著者は「心を白紙にして心を委ねる、相手色に染まるということだ。結婚式のお色直しも同様である。お色直しはかつて、花嫁が実家の家紋をつけた白無垢で婚礼に臨み、式後は、嫁入り先の家紋をつけた衣装に着替えたことに由来するとされている。まさに感情を抑えて、相手色に変わっていくことの象徴であったのだ」と述べています。しかしながら、民俗的な事例や色直しの由来は葬儀のシロギ=色着を普段着に直すことに求められる他、こうした色着は出産の際などにも見られる事実から、こうした説明には不適当な印象を抱きました。


「祝いと祓い なぜ節目で儀式をするのか」の「喜寿、米寿、白寿の祝い」では、「喜」の字の草体「㐂」が七十七と呼ばれることから77歳の賀の祝いを「喜寿」、「米」の字を分解すれば「八十八」になることから88歳の賀の祝いを「米寿」、「百」から一を取れば「白」の字となることから99歳の賀の祝いを「白寿」と呼ぶことが紹介されます。著者は、「誰もが知っている風習だ。単なる語呂合わせのようなものだが、語呂合わせだからこそ祝ったほうがいい風習でもある。すでに説明したように、地口や語呂合わせはイメージや祈りを強固にするためには非常に重要な呪術であるからだ」と述べます。


イメージを広げやすい年齢の節目に、皆でお祝いすることは、非常に意義のあることなのであり、「還暦」や「古希」も本当はお祝いをしたほうがいいという著者は、「高齢になったら、家に親戚が集まる儀礼が増えていくのはいいことなのだ。親戚の高齢者に皆が関心をもち、つながりをもつことは、本人にとってもかけがえのないことであるし、親戚にとっても明るい未来のイメージをもつことにつながる。高齢者に対する祝いの儀礼があれば、末広がりになるイメージが広がるからである」と述べています。まったく、その通りだと思います。


そして、葬式です。著者は、「葬式は、とにかく告別式をしっかり時間をかけておこなうことである。最近の傾向では、告別式を簡素化しておこなう場合が多くなっているが、本来は死者ときちんと向き合って死者と離別し、残された家族の心を立て直すための時間を十分にとる重要な儀式なのである。だから、本当は1日で終わるものではない。1週間くらいゆっくりと時間をかけて、親戚がきたり、知り合いがきたりして、故人の昔話をたくさんして、喪失感を癒やしていく作業が必要なのである。葬式や告別式がもつ重要性はここにある。つまりこれは故人のための儀式というよりも、本当の意味は、残された人たちの心を癒やすための儀式だということである」と述べています。

 

 

この世に未練を持ち、残る霊もいますが、著者によれば、「ほとんどの場合、彼らがなぜ残るかというと、残された人が後ろ髪を引っ張るからだ。故人の心残りよりも、家族が霊を引き止めてしまうことが非常に多い。故人の霊と、残された家族の心の状態のすり合わせには時間がかかる場合もあるだろう。そのすり合わせの時間がおよそ49日であると、古人は考えたのではないだろうか」といいます。仏教では、死後49日間は、前世までの報いが定まって次の生に生まれ変わる期間で、その間死者の魂が迷っているとされます。だが本当は、喪失感から混迷してしまうのは、多くの場合残された人のほうだとして、著者は「だから、49日くらいかけて、残された人たちが自分の心に『踏ん切り』をつけ、故人をあの世に送り出すのが葬儀や告別式の奥にある意味なのだ」と述べるのでした。

 

 

2章「季節を生きるための大切な歳時――年中行事のしきたりの呪力」の「おせち料理 語呂合わせのオンパレードだが・・・」の「連想によるイメージの効果」では、おせち料理について、「煮しめ、酢の物、焼き物を祝い肴三種と呼ぶ。関東では黒豆、数の子、田作り(ごまめ)、豆、関西では黒豆、数の子、たたきごぼうなどを使う。火を通したり、酢につけたり、煮しめたりして、日持ちを良くする狙いがあった。当然、それは食事処が式日には休みになるところが多かったからだが、そこに地口や語呂合わせを介在させて呪術性をもたせたのである」と述べています。


「年中行事の呪術性」では、「中国ではお金の形をした縁起物を食べるという風習があり、日本にも伝わった。それが餃子や焼売である。縁起物を食べるという日本の風習もそれに近い」と書かれていますが、これは初めて知りました。また、「駄洒落が強い呪力を生む時とは」では、「ただし断っておくが、そういった縁起物の食べ物に、財宝を呼び込んだり幸福を招いたりする呪力が実際に宿っているわけではない。縁起物には、そういうイメージを喚起しやすくする力があるということなのだ。良いイメージを強めるための一種の『呪術的材料』なのである」と書かれています。


呪術的材料を体に取り入れることによって、しっかりとより良いイメージを思い描きやすくなるということに縁起物の本当の意味があるとして、著者は「ここに儀礼や儀式、風習の原点がある。要は、良いイメージをどう強めるかということと、後ろめたさをどうしたら消せるかということ、それに体が汚れていくというイメージと決別するためにどうすればいいかということに尽きるのである。それは呪術の基本でもある」と述べています。


いくら「プラスのイメージをもて」といわれても、普通の人はそう簡単には、悪いイメージを捨て去ることはできないし、確固たる良いイメージを思い描くこともできないとして、著者は「そこで縁起物が活躍するわけである。縁起物を口に入れながら、語呂合わせをしたり駄洒落をいったりして笑いながら、良いイメージを強めようとする。普段の生活に、良いイメージをもてる習慣をつけるということが、風習がもつ呪術の真の意味なのである。年中行事にはそうした意味がある。とくに『食べる』という風習には強力な呪力がある。餅を食べる、おせち料理を食べる、魔を祓うとされるよもぎを食べる、七草粥を食べる――すべてが日本人にとって欠かすことのできない重要な生活向上のための呪術なのである」と述べるのでした。


「ひな祭り 本質は先祖供養にあった?!」には、「ひな祭りに並んでいるキャラクターたちは、皆ご先祖様なのである。先祖一族郎党を表わす。ひな壇には、彼らが霊的な階段を昇って高みにいけますようにという願いが込められている。だから、ひな壇に向き合って、ご先祖様が宿られた人形と対話をするのである。また、ご先祖様に呼びかけて、話を聞いてもらう、あるいはご先祖様のご加護をいただくという側面もあった。このように、ご先祖様との接点をもつことが、ひな祭りに隠された本当の意味であると思っている」と書かれています。


わたしは「雛人形が先祖をあらわす」との箇所を読んで大いに驚き、また興味を抱きました。しかしながら、この論は著者の他に井戸理恵子(民俗情報工学研究家)が主張していることが確認できましたが、その論拠が不明です。民俗学における理解としても、人形を、先祖も含めた神の依り代とする捉え方は理解できますが、雛祭や雛人形の成立過程を考えると、そうした依り代としての人形ではなく、通説のごとく祓具の延長と考えた方が自然ではないかと感じました。さらに「雛壇に飾った人形を以て霊的な高みへ~」という点も、伝統的な霊魂観からみると疑問であるように思いました。


終章「暮らしのなかで呪力を活かす知恵」の「礼と節 怨念を払いのけるための呪術」では、儒教に言及しています。著者は、「儒教は道徳的風習を残した教学であった。その教えは、道徳的な窮屈さに対する反発から近代以降、激しい批判の的になっている。だが、その批判の多くは、当初あったであろうスピリチュアル的な意味の喪失からきているように思われる。その喪失の筆頭が、礼と節の重要性だ。とくに『節』にはなぜ季節の『節』という字を使っているのかを知っておく必要がある。それは節度の節である。節には、やり過ぎず、引き過ぎずという意味が込められている。『礼』はそのバランスを取るための作法を説いたものであった。そして、実はこの『礼節』こそ、スピリチュアルな世界を極めるうえで最も重要な要素なのである」と述べています。


また、著者は以下のようにも述べています。
「実は、この礼節が、怨念を受けない技術なのだ。お世話になった人にお菓子をもっていく『菓子折り』の風習は、怨念を受けない技術の1つであった。菓子折りには、『菓子』と『折り』という2つの意味がある。菓子は甘いものを食べさせることによって、相手を恨まなくさせるという呪術的懐柔効果がある。折りは、本当に折った『折り符』を貼りつけたり、水引を折り曲げた飾り縛りを貼りつけたりする。そもそも、『折り』はそこに神様や精霊が宿ったりする呪術的なものなのだ。とくに折り符は、日本では非常に古い時代から存在している『お札のもと』になっているものだ。ある特定の折り方をすることによって、相手の悪いものを受け入れないようにするという呪力があった」


この箇所を読んだときも、わたしは違和感をおぼえました。著者は菓子に折り符をつけたものが菓子折の原義としていますが、菓子折は菓子を折り箱につめたものにもとめられるため、折り符はその成立に特段の関係がないものと思われます。また、折り符が神道の御神札の起源とも述べていますが、これは道教の札に淵源がもとめられるものであり、なおかつ折り符自体が近代の古神道家によって「再発見」された経緯があるため、この説も「ひな祭り=先祖供養」説と同様に十分な検証が必要ではないでしょうか。


この他、本書にはいくつか検証が必要とされる箇所を発見しました。本書では、学術的なデータをたっぷり詰め込んだと著者が主張されていますが、参考文献等が明示されていないために論理の検証が難しい箇所が複数ありました。詳述はあえて避けますが、たとえば、「易に基づいた数等の説明(偶数・奇数の説明など)」「『魄』に関する認識」「ケガレ=『気枯れ』論」「三方と神饌に関する解説」「地鎮祭の認識」などです。また、明らかな誤解として、「『式』についての解釈」「髪が神に通じるとの説明」などがありました。信頼に足る参考文献を使われなかったことが悔やまれてなりません。これは著者の責任というより、データを集めたスタッフや校閲者の力不足ではないでしょうか。そこは残念ですが、格調高い著者の「まえがき」をはじめ、冠婚葬祭や年中行事の価値と重要性を示すユニークな内容の本であることに変わりはありません。

 

 

2021年10月20日 一条真也