永平寺 

一条真也です。
6日、夜叉ヶ池を訪れた後、「せっかく福井県まで来たのだから」と、金沢に帰る途中で永平寺に寄りました。これまで5回ぐらい参拝していますが、じつに久々に来ました。現在、心のコントロール法としての「マインドフルネス」に世界的に注目が集まっていますが、その原点は禅にあります。そして、その禅の聖地こそが永平寺なのです!

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永平寺の入口で

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入口脇に掲げられた木板

 

永平寺町観光ガイド」によれば、「永平寺は、今から約770年前の寛元2年(1244年)、道元禅師によって開創された出家参禅の道場。大佛寺山に拠って、渓声山色豊かな幽邃の境に七堂伽藍を中心とした大小70余棟の殿堂楼閣が建ち並んでいる。また、仏殿や法堂など19棟は令和元年夏に、国の重要文化財に指定されることになっている」と書かれています。


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永平寺全景図

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ここから山門へ

 また、「永平寺では、多くの修行僧が、早朝の起床にはじまり、勤行、坐禅、行鉢、『動の坐禅』といわれる作務など日夜厳しい修行に励んでいる。参拝者はそのひたむきな修行僧たちの様子を伺い知ることができる。境内は約10万坪(33万平方メートル)の広さをもち、樹齢700年といわれる鬱蒼とした老杉に囲まれた静寂なたたずまいは、出家道場として誠にふさわしい霊域である」とも書かれています。

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手水場の前で

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手水場で手を洗いました

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山門の前で

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永平寺の山門

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曹洞宗大本山です


Wikipedia「永平寺」の「歴史」には、「道元の求法」として、「曹洞宗の宗祖道元正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺天台宗総本山)に上り、仏門に入った。道元には『天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)・仏性(ぶっしょう、仏としての性質)を持っているはずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか』という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西道元が出家した2年後に、既に世を去っていた」と書かれています。

f:id:shins2m:20211006203927j:plain北方多聞天王像の前で

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西方廣目天王像
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永平寺の玄関で

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永平寺にて

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永平寺にて


また、「比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)に建仁寺へ入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む『只管打坐(しかんたざ)』を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ死去した。日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(現在は京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う」とも書かれています。

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荘厳な絵天井の大広間
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絵天井の大広間で

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座禅に挑戦・・・アイタタタ!

 

さらに「越前下向」として、「旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここで一冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号『永平』からであり、意味は『永久の和平』である」と書かれています。「永平」とは「永久和平」だったのですね!

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永平寺にて

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心が洗われるようでした

 

そして、「道元以降」として、「その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介の下で整備が進められた。義介が三代相論で下山し、4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興して現在に至る基礎を固めた。義雲から19世祚玖までと、22世の常智祚天は寂円派の住持であった。暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである」と書かれるのでした。このような歴史を持つ永平寺でのひとときは心洗われる時間となりました。

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夕食は、ステーキ&ハンバーグの3点セット

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あー、腹減った! いただきます!

 

帰りは夕食に精進料理でも食べようかと思いましたが、夜叉ヶ池にも行ってよく体を動かしたので空腹を感じ、金沢の「ステーキ宮」でステーキ&ハンバーグの3点セットを、赤ワインを飲みながら食べました。この日は、とても充実した一日となりました。ちなみに、この日の石川県は102日ぶりに新型コロナウイルスの新規感染者数が0でした。翌7日は、北陸新幹線で東京へ向かいます。

 

2021年10月7日 一条真也