夢と希望、感動と勇気?

一条真也です。
東京の感染者が1387人だった20日、都内で国際オリンピック委員会(IOC)の総会が開かれました。最初に菅義偉首相が開会宣言を行いました。

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ヤフーニュースより

 

いよいよ3日後の7月23日に開幕する東京五輪に向けて、菅首相は「(コロナ禍は)ようやく長いトンネルを抜け、出口が見え始めている。そうした中で東京大会は開催されます。多くの会場では無観客での開催となりますが、東京大会の意義は決して損なわれるものではありません。今大会は世界で40億人もの人々がテレビなどを通じて観戦するといわれています。世界が大きな困難に直面する今こそ団結し、人類の努力と叡智によって大会を開催することができる、そして成功される、このことを日本から世界に発信したい」と高らかに宣言しました。


また、菅首相は「アスリートの活躍は、若者や子供たちに夢と希望、感動と勇気を与えてくれると確信している。未来を切り開く原動力となる」と力を込めました。さらにパラリンピックについても、「心のバリアフリーの精神を世界に発信したい」と述べました。菅首相の言語能力の低さはさんざん指摘されていますが、このスピーチはさすがに「大丈夫か?」と思ってしまいます。丸川五輪担当大臣が使った「絆」という言葉も大きな批判を受けましたが、「夢」「希望」「感動」「勇気」という抽象的な言葉の羅列には空虚さしか感じません。もともと、それらの言葉はポジティブで素晴らしいのですが、国民の大半が開催を反対している東京五輪について使われると白けるだけです。


菅首相が念仏のように唱えている「安心安全」も、すっかり手垢がついてしまいました。損保業界などはほとんどの会社が「安心安全」を経営理念やスローガンに使っているので困っているのではないでしょうか。パラリンピックについて菅首相が「心のバリアフリー」と表現したことも悪くはないのですが、一連のスピーチの流れの中で使われると空虚さしか感じません。わたしも「ハートフル」をはじめ、「ハート」や「心」を基軸とした多くのキーワードを世に送り出してきました。精神的な世界に関わる言葉はどうしても抽象的になりがちです。ですから、わたしは当ブログの「KEYWORD」において、わたしが生んだ言葉の定義を行っているのです。

 

もちろんスピーチの原稿は菅首相本人ではなく、スピーチライターが書いたはずですが、慣例からいっておそらくは官僚が書いたのでしょう。その官僚の語彙力も大したことないですね。きっと東京大学あたりを卒業しているエリートなのだと推察しますが、読書の経験が乏しいように思えます。読書といえば、昭和の首相はみんな読書家でした。福田赳夫大平正芳中曽根康弘といった東大出身の人々は古今東西の古典に通じていました。ですから、彼らのスピーチには深い教養が感じられました。田中角栄は中学校しか卒業しませんでしたが、陽明学者の安岡正篤の指導を受けて中国古典などを読み込んだといいます。彼のスピーチには味があり、大衆の心をとらえました。


アメリカ大統領には多数のスピーチ・ライターがついており、演説のための原稿を練り上げ、繰り返し大統領にスピーチの練習をさせるといいます。彼らは、たった5分間のスピーチが世界中の人々に、あるいは全社員にどれだけの影響を与えるかということを知っているのです。そもそも、政治や経営の世界において大切なことは「何を語るか」ではなく、「誰が語るか」でしょう。リーダーの究極の役割とは、力に満ちた言葉、すなわち「言霊」を語ることなのです。「言霊」のある言葉だけが人々の心の奥まで届き、実際の行動に導くことができると思います。

 

 

「吾れ言を知る」と言った孟子は、その「言」を4つ挙げています。1つは、詖辞(ひじ)。偏った言葉。概念的・論理的に自分の都合のいいようにつける理屈。2つ目は、淫辞。淫は物事に執念深く耽溺することで、何でもかんでも理屈をつけて押し通そうとすることです。3つ目は、邪辞。よこしまな言葉、よこしまな心からつける理屈。4つ目は、遁辞。逃げ口上。つまり、これら4つの言葉は、リーダーとして決して言ってはならない言葉なのです。

 

 

では、リーダーは何を言うべきか。それは、真実です。拙著『孔子とドラッカー 新装版』(三五館)にも書きましたが、リーダーは第一線に出て、部下たちが間違った情報に引きずられないように、真実を語らなければなりません。部下たちに適切な情報を与えないでおくと、リーダーが望むのとは正反対の方向へ彼らを導くことにもなります。そして説得力のあるメッセージは、リーダーへの信頼の上に築かれます。信頼はリーダーに無条件に与えられるわけではありません。それはリーダーが自ら勝ち取るものであり、頭を使い、心を込めて、語りかけ、実行してみせることによって手に入れるものなのです。

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ヤフーニュースより

 

20日に開かれたIOC総会の冒頭あいさつで、菅義偉首相は「新型コロナ感染拡大は世界中で一進一退を繰り返しているが、ワクチン接種も始まり、長いトンネルにようやく出口が見え始めている」とも述べました。これには批判が殺到しています。そもそも東京には4回目の緊急事態宣言が発令されていますし、この日の東京の感染者は1387人で、6日連続の1000人超えでした。専門家が変異株を主とした第5波突入に備えてと提言しているのに、リーダーが違う景色を見ていては勝負には必ず負けます。もしかして、このスピーチライターは菅首相に恥をかかせたり、炎上させることが目的で原稿を書いているのではないでしょうか。そんな悪意さえ感じてしまいます。

 

 

「長いトンネル」という単語から、川端康成の名作『雪国』の冒頭に書かれた「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の影響があるのは明らかですね。わたしも『雪国』は大好きな小説で、わが心の二大女優である岸惠子岩下志麻が主人公の駒子を演じた映画版のDVDも持っています。このスピーチを書いた人物は『雪国』は読んでいるかもしれませんが、読書の習慣はないと断言できます。そんな読書力のないスピーチライターには、8月3日に発売される拙著『心ゆたかな読書』(現代書林)をぜひお読みいただきたいと思います。

 

 

2021年7月21日 一条真也