もうバッハでいくしかない!

一条真也です。
五輪開会式作曲担当のミュージシャン小山田圭吾氏が辞任しましたが、開会式まで3日となった現場は大混乱しているようです。まあ、結婚式や葬儀などでは直前の演出変更など珍しくも何ともないのですが、五輪のような巨大イベントとなると大変でしょうね。

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ヤフーニュースより 

 

そんな中、興味深いニュースを目にしました。「AERAdot.」配信の「小山田氏辞任で開会式の楽曲は使用せず『もうバッハでいくしかない』と官邸筋〈dot.〉」という記事なのですが、「小山田氏の辞任で穴が空いた4分間の楽曲について、官邸の一部では『クラシック、もうバッハでいくしかないだろう』などとアホな会話が飛び交っています。バッハは敬意を込めてIOCのバッハ会長とかけたものです(笑)。五輪問題に限らずですが、官邸は世の中の意識とかなり乖離していますね」という政府関係者のコメントが紹介されています。


当初、結成された開会式の狂言師野村萬斎さん、椎名林檎さんら7人のクリエイティブチームは、開催延期もあってすでに解散しています。SNS上では松平健さんの「マツケンサンバ」、氷川きよしさんの「東京音頭」などの待望論が出ているとか。それも悪くはないですが、本当は北島三郎さんの「まつり」がベスト・チョイスだったと思います。残念ながら高齢でサブちゃんの声が出なくなっているようですが、ブログ「まつり」で紹介したように、あの歌ほど祝祭の開始にふさわしい歌はないだけに残念です。わたしのカラオケの十八番なので、オファーさえあれば、わたしが歌ってもいいですけど。(笑)


しかしながら、政府関係者が口にした「クラシック、もうバッハでいくしかないだろう」というのは意外とグッド・アイデアかもしれません。「大バッハ」と呼ばれたヨハン・ゼバスティアン・バッハは、18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家です。バロック音楽の重要な作曲家の1人で、鍵盤楽器演奏家としても高名であり、当時から即興演奏の大家として知られていました。彼の荘厳な曲が新国立競技場に鳴り響けば、IOCのバッハ会長も泣いて喜ぶのではないでしょうか。


バッハには数多くの名曲がありますが、わたしには東京五輪の開会式にぜひおススメしたい曲があります。彼は教会カンカータを多く作曲しましたが、その中には当然ながら葬儀で使われた曲もあります。その葬儀カンカータを開会式で流してはいかがでしょうか? わたしは、これをブラック・ジョークなどで書いているのではありません。当ブログをお読みの方なら、わたしがいかに葬儀というものに最大の価値を置いているかをよくおわかりと思います。

唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館)

 

拙著『唯葬論――なぜ人間は死者を想うのか』(三五館・サンガ文庫)の「芸術論」にも詳しく書きましたが、もともとクラシック音楽そのものがヨーロッパの葬送音楽として発展してきたという歴史的事実があります。バッハには、最近音源が完全復活した「レーオポルト侯のための葬送音楽」もありますし、大バッハの親戚にあたるヨハン・ルートヴィヒ・バッハの「葬送のための音楽」なども名曲です。今回の東京五輪の強行開催では、いろんなものが死にました。某政党、某大手広告代理店、五輪のスポンサーに成り下がった大手新聞社への信頼が決定的に失われましたが、それは「死」にも等しいでしょう。また、IOCの権威、何よりもオリンピック神話というものが死にました。それらへの追悼の意味を込めて、東京五輪の開会式ではバッハの葬送音楽を流せばいいと思います。

f:id:shins2m:20200516165530j:plain心ゆたかな社会』(現代書林)

 

また、拙著『心ゆたかな社会』(現代書林)にも書きましたが、もともと、オリンピックそのものが古代ギリシャの葬送儀礼として生まれ、発展してきたと言えます。古代ギリシャにおけるオリンピア祭の由来は諸説ありますが、そのうちの1つとして、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行ったというホメーロスによる説があります。これが事実ならば、古代オリンピックは葬送の祭りとして発生したということになるでしょう。21世紀最初の開催となった2004年のオリンピックは、奇しくも五輪発祥の地アテネで開催されましたが、このことに人類にとって古代オリンピックとの悲しい符合を感じました。アテネオリンピックは、21世紀の幕開けとともに起こった9・11同時多発テロや、アフガニスタンイラクで亡くなった人々の霊をなぐさめる壮大な葬送儀礼と見ることもできたからです。

f:id:shins2m:20200630095055j:plainWEB「ソナエ」産経新聞社)2020年7月号

 

オリンピックは、クーベルタンというフランスの偉大な理想主義者の手によって、じつに1500年もの長い眠りからさめ、1896年の第1回アテネ大会で近代オリンピックとして復活しました。その後120年が経過し、オリンピックは大きな変貌を遂げます。「アマチュアリズム」の原則は完全に姿を消し、ショー化や商業化の波も、もはや止めることはできません。各国の企業は販売や宣伝戦略にオリンピックを利用し、開催側は企業の金をあてにします。大手広告代理店を中心とするオリンピック・ビジネスは、巨額のマーケットとなりました。そのオリンピックという巨大イベントを初期設定して「儀式」に戻す必要があると、わたしは考えます。2021年7月23日に開幕する東京五輪は、新型コロナウイルスで亡くなった世界中のすべての方々の葬送儀礼であり、追悼儀礼であるべきでしょう。よって、開会式ではバッハに限らず、モーツァルトでも、ベートーヴェンでも、ショパンでもいいので、ぜひ葬送音楽を流すべきであると、わたしは考えます。

 

 

2021年7月20日 一条真也