「時代の価値観」を超えて

一条真也です。
東京五輪開会式で楽曲を担当するチームの一員に任命されたミュージシャン小山田圭吾氏の過去の「いじめ自慢」発言が多方面から問題視されています。ブログ「『高い倫理観』について」ブログ「カズレーザーに共感!」でわたしの見解は示しましたが、大きな騒動になっています。そんな中、爆笑問題太田光氏の発言が話題になりました。

f:id:shins2m:20210719095518j:plainヤフーニュースより

 

18日、太田光氏がTBS系ワイドショー「サンデー・ジャポン」に出演した際、小山田問題について「時代の価値観を知りながら評価しないとなかなか難しい」と述べました。その後、ツイッターでは「時代の価値観」がトレンド入りし、太田氏への批判の声が相次いでいます。


中日スポーツ」配信の「『いじめ告白』問題で太田光の『時代の価値観』発言トレンド入り」という記事によれば、太田氏の発言に対して、「一体人類の歴史のいつの時代に弱いもの虐めはいいことなんていう時代があったのか、考えてみたことないの?? 時代じゃなくてお前らの価値観なんだよ」「その時代に青春時代を生きていた人間から言わせて貰えばその時代の価値観でも無条件で完全にアウトだよ」「いや、太田君の発言はある程度までは正しい。時代の制約はあるし、法を過去に遡って適用するのは不正じゃ。じゃが、小山田君のやったことはその時代の価値観に照らしても犯罪相当、道徳的にも容認できるものじゃない。それに尽きる」などと、当時の価値観から見ても許されなかったという意見が相次いだようです。太田発言に対して、元新潟県知事の米山隆一氏は「『時代の価値観』などと言いますが、まあ少なくとも戦国時代位迄遡らなければ(恐らく戦国時代でも)、小山田氏がやったことが『外道』であることは変わらないでしょう。何というか非常にげんなりするコメントです」とツイートしました。

 

 

わたしが考えるに、「時代の価値観」というものは確かに存在します。江戸時代や戦前の日本人の価値観を現在の時点から批判しても無意味なことがあります。しかし、「時代の価値観」を超えるものも確実に存在します。わたしは、7世紀に『論語』が伝来して以来、日本人の心には孔子の教えが息づいていると思います。孔子は「仁」を最重視しました。『論語』に「樊遅、仁を問う。子曰く、人を愛す」とあるように、「仁とは何か」という弟子の質問に対して、孔子は「人を愛することだ」と答えています。また、「生涯それだけを実行すればよい、一言があるだろうか」と弟子が尋ねたとき、孔子は「其れ恕か。己の欲せざる所は人に施すこと勿れ」と答えました。「恕」とは、「思いやり」のこと。まさに「仁」や「恕」の精神があれば、いじめなど起きようがありません。

 

 

「孔孟」という言葉があるように、孔子と並んで儒教の最高の聖人とされる孟子は、「惻隠の心」というものを説きました。これは他人のことをいたましく思って同情する心であり、やがては人の最高の徳である仁に通ずるものです。障がい者という存在は、一般に社会的弱者とされます。弱者をいじめるなど、あってはならない行いであり、最低の行為です。孟子は、「惻隠の心」とともに「羞悪の心」「辞譲の心」「是非の心」も説きました。惻隠の心が「仁」に発展するように、羞悪の心は「義」に、辞譲の心は「禮」に、是非の心は「智」へと発展します。これらは「人の道」そのものであり、弱い者をいじめることは「人の道」に最も反する恥ずべき行為でした。

唯葬論』(サンガ文庫)

 

日本人に限らず、人類そのものにも、「弱者をサポートする」という精神的伝統が生きています。拙著『唯葬論』(三五館・サンガ文庫)でも紹介しましたが、イラクの洞窟で見つかった旧人ネアンデルタール人の骨は右腕が萎縮し、生まれつきの障がいと見られました。左目も見えなかったそうですが、推定年齢は40歳でした。彼らはちゃんと体の不自由な仲間を世話していたのです。この洞窟は別の人骨から大量の花粉粒が見つかったことでも知られます。遺体を花とともに埋葬していたと見られています。このように、弱者をサポートすること、死者を弔うことは人類最古の営みであり、それはわたしたちの直接の祖先であるホモ・サピエンスにも受け継がれました。

唯葬論』の帯の裏

 

唯葬論』文庫版の帯の裏には、「『唯死論』ではなく『唯葬論』」として、「わたしは、儀式を行うことは人間の本能ではないかと考える。ネアンデルタール人の骨からは、葬儀の風習とともに身体障害者をサポートした形跡が見られる。儀式を行うことと相互扶助は、人間の本能なのだ。これはネアンデルタール人のみならず、わたしたち現生人類の場合も同じである。儀式および相互扶助という本能がなければ、人類はとうの昔に滅亡していたのではないだろうか。わたしは、この本能を『礼欲』と名づけたい。『人間は儀式的動物である』という哲学者ウィトゲンシュタインの言葉にも通じる考えだ。礼欲がある限り、儀式は不滅である」と書かれています。もうおわかりでしょうが、「時代の価値観」を超えるものとは、人類の本能です。そして、人類にとって、弱者をいじめることが本能ではなく、弱者をサポートすることが本能です。わたしは、そのように考えます。

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ヤフーニュースより

 

ところで、小山田圭吾氏の「いじめ自慢」は、1994年1月発行の「ロッキング・オン・ジャパン」(ロッキング・オン)と95年8月発行の「クイック・ジャパン」vol.3(太田出版)で語ったインタビューで発言されたものです。18日、「ロッキング・オン・ジャパン」を刊行するロッキング・オン社が公式サイトで、編集長名義で声明を発表しました。当該インタビューで編集長自身がインタビュアーを務めていたことを明かし、「そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います。(中略)犯した過ちを今一度深く反省し、二度とこうした間違った判断を繰り返すことなく、健全なメディア活動を目指し努力して参ります」と記し、「ロッキング・オン・ジャパン編集長 山崎洋一郎」と締めくくっています。

Quick Japan(クイック・ジャパン)Vol.156 2021年6月発売号 [雑誌]

 

一方の「クイック・ジャパン」の版元である太田出版は何の声明も出していませんが、ネットで調べてみると、なんと同誌の最新号(vol.156)は「爆笑問題」が表紙になっているではないですか。ということは、太田発言には「クイック・ジャパン」への忖度や擁護の姿勢が感じられますね。太田氏は忖度などとは無縁で毒を吐きまくるイメージだったので、意外です。いずれにせよ、今回の件で太田光氏は大いに株を下げたと思います。 

  

 

2021年7月19日 一条真也