哲学・芸術・宗教の時代

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一条真也です。
わたしは、これまで多くの言葉を世に送り出してきました。この際もう一度おさらいして、その意味を定義したいと思います。今回は、「哲学・芸術・宗教の時代」という言葉を取り上げることにします。

ロマンティック・デス』(国書刊行会

 

最初は、1991年10月15日に刊行された『ロマンティック・デス〜月と死のセレモニー』(国書刊行会)の中で登場した言葉です。20世紀の終わり、さまざまな場面で、「21世紀は、哲学・芸術・宗教の時代である」と言われてきました。フランスの文化相も務めた作家アンドレ・マルローは「21世紀はスピリチュアリティ(精神性)の時代である」と述べましたが、わたしはより具体的に、哲学・芸術・宗教が人々の主要な関心事になる時代と表現しました。

ハートフル・ソサエティ』(三五館)

 

その後、2005年9月9日に刊行された『ハートフル・ソサエティ』(三五館)、同書のアップデート版として2020年5月20日に刊行された『心ゆたかな社会』(現代書林)では、「哲学・芸術・宗教の時代」という一章を設けて、より詳しく説明しました。
そもそも哲学とは何でしょうか。また、芸術とは、宗教とは何か。一言で語るならば、それらは人間が言語を持ち、それを操り、意識を発生させ、抽象的を持つようになったことと引き換えに得たものです。わたしたちが知っているような話し言葉の誕生が、人類の先史時代を特徴づける1つの出来事だったことに疑問の余地はありません。あるいは、それこそが実際に先史時代を特徴づけた決定的な出来事だったのかもしれません。

f:id:shins2m:20210410135313j:plain心ゆたかな社会』(現代書林)

 

言語を身につけた人類は、自然界に新たな世界をつくり出すことができました。つまり、内省的な意識の世界と、他者とともにつくりあげて共有する世界、わたしたちが「文化」と呼ぶものです。ハワイの言語学者デリック・ビッカートンは、「言語こそが、人間以外のあらゆる生物を拘束する直接体験という監獄を打ちこわし、時間や空間に縛られない無限の自由へとわれわれを解き放ったのである」と述べています。人間は言葉というものを所有することによって、現実の世界で見聞したり体験したことのない、もしくは現実の世界には存在しない抽象的イメージを、それぞれの意識のなかに形づくることができます。そして、そのイメージを具現化するために自らの肉体を用いて自然を操作することができるのです。まさしく、その能力を発揮することが文明でした。それによって人間はこの自然の上に、田や畑や建造物などの人工的世界を建設し、地球上で最も繁栄する生物となったのです。

 

言語のルーツ

言語のルーツ

 

 

抽象的なイメージ形成力を持ち、自然を操作する力を持ち、自らの生存力を高めてきた人間ですが、その反面で言語を持ったことにより大きな原罪、あるいは反対給付を背負うことになりました。人間はもともと宇宙や自然の一部であると自己認識していました。しかし、意識を持ったことで、自分がこの宇宙で分離され、孤立した存在であることを知り、意識のなかに不安を宿してしまったのであす。実存主義の哲学者たちは、それを「分離の不安」と言います。しかし、不安を抱えたままでは人間は生きにくいので、それを除去する努力をせざるを得ませんでした。この営みこそが文化の原点であり、それは大きく哲学・芸術・宗教と分類することができます。したがって、文明と文化は相互補完の対概念であると言えるでしょう。

 

人間 (岩波文庫)

人間 (岩波文庫)

 

 

「分離の不安」が言語を宿すことによって生じたのであれば、その言語を操る理性や知性からもう一度「感性」のレベルに状態を戻し、不安を昇華させようとする営み、それが芸術であると言えるでしょう。さらに、麻薬を麻薬で制するがごとくに、言語で悩みが生じたのであれば、それを十分に使いこなすことによって真理を求め、悟りを開こうとしたのが哲学でした。そして宗教とは、その教義の解読とともに、祈り、瞑想、座禅などの行為を通して絶対者、神、仏、ブラフマンといったこの世の創造者であり支配者であろうと人間が考える存在に帰依し、悟ろうとしたり、心の安らぎを得ようとする営みでした。

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このように、哲学・芸術・宗教は同根であり、人間が言語を操って抽象的イメージを形成し、文明を築いていく代償として「分離の不安」を宿したことへのリアクションだと言えます。インターネットに象徴されるさまざまなテクノロジーやグローバルな資本主義によって、人類はますます文明化していきます。その結果として、21世紀はまた、哲学・芸術・宗教のルネッサンスの世紀となるのです。

f:id:shins2m:20210410134723j:plain宇宙の情報システム

 

哲学・芸術・宗教を統合するものとして、わたしは「宗遊」という言葉を提唱しています。宗教の「宗」という文字は「もとのもと」という意味で、わたしたち人間が言語で表現できるレベルを超えた世界です。いわば、宇宙の真理のようなものです。その「もとのもと」を具体的な言語とし、習慣として継承して人々に伝えることが「教え」なのです。だとすれば、明確な言語体系として固まっていない「もとのもと」の表現もありうるはずで、それが儀礼であり、広い意味での「遊び」だと言えます。

唯葬論』(三五館)

 

「宗遊」には、もう1つの意味もあります。ずばり、「葬儀」の別名です。わたしは『唯葬論』(三五館、サンガ文庫)の中で「葬儀は遊びよりも古い」と記しました。実際、世界的に見ても相撲・競馬・オリンピックなどの来歴の古い「遊び」の起源はいずれも葬儀と深い関係があります。古代の日本では、天皇の葬儀にたずさわる人々を「遊部(あそびべ)」と呼んでいました。葬儀と「遊び」とのつながりをこれほど明らかにする言葉はありません。そもそも、はるか7万年前、ネアンデルタール人が最初に死者に花をたむけた瞬間から、あらゆる精神的営為は始まりました。これからの多死時代において、葬儀のもとに、「死」を見つめ、魂を純化する営みである哲学・芸術・宗教は統合されるのかもしれません。そして、その大いなる精神の営みはもはや葬儀とは呼ばれず、「宗遊」という新しい名を得ると思います。

 

2021年4月21日 一条真也