儀式が日本人を不幸にする?

一条真也です。
31日、京都から小倉に戻りました。
小倉に到着した後、パソコン・メールをチェックしていたら、新しい「まぐまぐニュース」が届いていました。いつも頼んでもいないのに送信されるニュースですが、今日は、とんでもないタイトルの記事が紹介されていました。「入学式も卒業式もムダ。3月4月すべての儀式が日本人を不幸にする」という記事です。

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「MAG2NEWS」より

 

記事のリード文には、「3月4月の日本では、卒業式や入学・入社式等々多くの行事が行われますが、それらはすべて『ムダな儀式』と言い切ってしまって間違いないようです。今回のメルマガ『冷泉彰彦プリンストン通信』では米国在住作家の冷泉彰彦さんが、前掲の行事を『オワコン』と一刀両断。その上で、それらの儀式を無意味と判断せざるを得ない理由を、冷静な筆致で明らかにしています」と書かれています。

 

記事を読んでみると、率直な感想は「春の一連の儀式について悪意を持って書くとこのようになるのかな」と思いました。また、主張に論拠もなく、主観を振りかざすばかりで、特に得るものがありませんでした。当然いろいろな儀式については様々な意見があると思いますが、1人1人の多様な人間が、それぞれの儀式で何を得るかなどを考えず、価値感の押し付けをする独善的な印象です。しかしながら、タイトルは刺激的であり、こんな記事がネットの世界で独り歩きするのは好ましくありません。「これは、ちょっと看過できないな」と思った次第です。

f:id:shins2m:20210331182047j:plain日本経済新聞」2021年3月29日夕刊

 

最近、新型コロナウイルスの影響で昨春の入学式を中止とした大学が今春、新2年生向けに「1年遅れの入学式」を行うケースが相次いでいます。オンライン授業中心でキャンパスに通うこともままならなかった学生たちは「ようやく大学生の実感が湧く」と喜んでいるそうです。1年遅れの入学式を希望するかと大学側が新2年生たちにアンケートを取ったところ、じつに80%以上の学生が希望したそうです。これを知ったわたしは、彼らが入学式もないまま大学生活をスタートして、どんなに不安な毎日を送っていたかと思い、泣けてきました。文部科学省の調査によりますと、大学などの入学式は去年、78%が延期や中止になったということで、この春全国の多くの大学が新2年生向けの入学式を開催することにしています。

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毎日新聞オンライン」より

 

一昨日の29日、わたしが客員教授を務める上智大学では、新型コロナウイルスの影響で去年中止となった入学式が開かれ、新2年生たちが1年遅れの式典に臨みました。上智大学では去年、新型コロナウイルスの影響で入学式を中止し、この1年間ほとんどの授業はオンラインで行われました。わたしもオンラインで講義しました。今年の新入生の入学式は来月1日に実施することが決まり、大学は、1年間厳しい環境で学んできた新2年生のためにも節目の行事を開きたいと1年遅れの入学式を開くことにしたのです。新2年生の入学式は感染対策のため29日から3日間、6回に分けて開催され、29日午前、東京・四谷のキャンパスの大教室で開かれた式にはおよそ400人が参加しました。



1年遅れの入学式では、上智大学の曄道佳明学長が「私たちより不便を、厳しい闘いを強いられている人たちが世界に多くいることを忘れてはなりません。いま私たちが何をすべきか、考え続けましょう。ご入学おめでとうございます。ようこそ上智大学へ」と祝いのことばを述べられました。これに対し、新2年生代表で総合人間科学部看護学科の世良明日花さんが「この入学式を新たなスタートラインとして、勉学にいそしむことを誓います」と挨拶しました。入学式に保護者は参加できませんでしたが、スーツ姿の新2年生たちは「入学式」と書かれた看板の周りに、オンラインなどで知り合っていた同級生たちと集まり、笑顔で記念写真を撮っていました。

儀式論』(弘文堂)

 

さて、儀式はわたしの専門でございます。『儀式論』(弘文堂)という600ページの著書も書きました。同書の帯には、「人間が人間であるために儀式はある!」と大書されています。では、儀式とは何でしょうか。人間の「こころ」は、どこの国でも、いつの時代でも、ころころ動いて不安定です。だから、安定するための「かたち」すなわち儀式が必要なのです。人間は儀式を行うことによって不安定な「こころ」を安定させ、幸せになれるように思います。その意味で、儀式とは人間が幸福になるためのテクノロジーです。そう、カタチにはチカラがあるのです。


サンデー毎日」2015年10月18日号

 

さらに、儀式の果たす主な役割について考えてみたいと思います。それは、まず「時間を生み出すこと」にあります。日本における儀式あるいは儀礼は、「冠婚葬祭」と「年中行事」の2種類に大別できますが、これらの儀式は「時間を生み出す」役割を持っています。「時間を生み出す」という儀式の役割は「時間を楽しむ」や「時間を愛でる」にも通じます。日本には「春夏秋冬」の四季がありますね。わたしは、冠婚葬祭は「人生の四季」だと考えています。七五三や成人式、長寿祝いといった儀式は人生の季節であり、人生の駅です。セレモニーも、シーズンも、ステーションも、結局は切れ目のない流れに句読点を打つことにほかなりません。 わたしたちは、季語のある俳句という文化のように、儀式によって人生という時間を愛でているのかもしれない。それはそのまま、人生を肯定することにつながります。

人生の四季を愛でる』(毎日新聞出版

 

儀式が最大限の力を発揮するときは、人間の「こころ」が不安定に揺れているときです。まずは、この世に生まれたばかりの赤ん坊の「こころ」。次に、成長していく子どもの「こころ」。そして、大人になる新成人者の「こころ」。それらの不安定な「こころ」を安定させるために、初宮参り、七五三、成人式、結婚式があります。さらに、老いてゆく人間の「こころ」も不安に揺れ動きます。なぜなら、人間にとって最大の不安である「死」に向かってゆく過程が「老い」だからです。しかし、日本には老いゆく者の不安な「こころ」を安定させる一連の儀式として、長寿祝いがあります。そして、人生における最大の儀式としての葬儀があります。葬儀とは「物語の癒し」です。 愛する人を亡くした人の「こころ」は不安定に揺れ動きます。「こころ」が動揺していて矛盾を抱えているとき、儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の「こころ」はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。もちろん、葬儀は必要です!

f:id:shins2m:20210125161111j:plain葬式は必要!』(双葉新書) 

 

葬儀という儀式の本質は卒業式です。「人生の卒業式」です。卒業とは環境が激変することであり、最も「こころ」が不安定となってストレスが増大します。これに続く入学式ではストレスが最大になります。だから、「こころ」を安定させる「かたち」である卒業式や入学式が必要なのです。人の「こころ」は、人生のさまざまな場面での「かたち」によって彩られます。人には誰にでも「人生の四季」があるのです。その生涯を通じて春夏秋冬があり、その四季折々の行事や記念日があります。大切なことは、自分自身の人生の四季を愛でる姿勢でしょう。ちなみに、儀式を重んじる日本人の精神性を見事に描いた作品は、社会現象にまでなった『鬼滅の刃』です。

f:id:shins2m:20201221125540j:plain「鬼滅の刃」に学ぶ』(現代書林) 

 

まあ、冷泉氏の記事の中には、学校教育のあり方など、首肯できる点も少なからずありましたが、これは標題の儀式不要論というよりも、日本的共同体改革論のように感じました。例として、冷泉氏は日本的な共同体を「メンバーシップ」型、あるいは「ネバネバした共同体」と表現し、「生産性の低下、幸福度の低下、そして国際競争力の喪失を招いています。結果的にその集団全体を不幸にしている」と述べています。また、学校暦と学校での儀式の乖離から、卒業式等を不要と断じていますが、それらは組織として改善か必要な点を論っているのであって、それが儀式の要不要という論点には結びつかないのは明白です。

 

個人的には、冷泉氏はアメリカの個人主義にかぶれ過ぎているのか、「孝」の視点、すなわち受け継ぎ、繋いでいくという視点が不足しているように思えます。だから東大受験という、保護者の協力なくしてはクリアし得ない目標を達成した親にすら、入学式というケジメをつける必要がないと言ってしまえるのではないでしょうか。ただ、冷泉氏が言っているように、卒業式の時期や来賓のシステムなど、確かに改革が必要な点は多々あるとは思います。そうした文化を改善しながら、儀式もアップデートしながら、後代に繋げていけば良いでしょう。それを問題があるからといって、儀式そのものを廃止してしまうのは、『論語』にある「羹に懲りて膾を吹く」ではありませんか!

 

冷泉氏は、「日本の場合は、終身雇用の非専門職によるネバネバした共同体が、企業の意思決定勢力であり同時に守旧派勢力として君臨しており、その貴族的であり同時に奴隷的でもある特権階級に入るための『受験競争』があるという制度が長く続いてきました。その特徴を象徴するものが、この3月から4月に共同体を出たり入ったりする際の儀式であり、その一連の儀式のナンセンスが、この共同体システムの崩壊を示しているわけです。にもかかわらず、実は崩壊しているにも関わらずそのゾンビのような実態に気づくことなく、相変わらず訓示をしたり、辞令交付をしたり、コロナ禍の下でも歓送迎会を深夜までやったりしているわけです」と述べています。厚生労働省の深夜までの飲み会はたしかにケシカランですが、訓示や辞令交付まで冷泉氏的にはNGなのですね。これは恐れ入りました。

 

明日、わが社は不安な「こころ」を抱えているであろう新入社員を迎える辞令交付式を行い、社長訓示も行います。入社式について、冷泉氏は「大学の入学式以上に意味不明なのが、企業の入社式です。最悪なのが、社長のスピーチですが、昨今の定番というのは2種類あります」と述べます。1つは「諸君にはわが社を変革してもらいたい」というもので、2番目の定番はスピーチの中で社長が「色々あったがわが社は大丈夫だ」と述べるというパターンだとか。たしかに、このようなステロタイプな社長訓示は珍しくないかもしれませんね。わたしは、しませんけどね。
まあ、ステロタイプといえば、この記事の根底に厳然として在る「長年アメリカに住んでるけど、日本はこんなに遅れてるんだよ」という、上から目線でアメリカかぶれの物言いが一番ステロタイプではないかと思いますけどね。
最後にひとつ、冷泉氏に質問したいことがあります。
それで、アメリカ人は幸福ですか?

 

2021年3月31日 一条真也