『弔辞』

弔辞

 

一条真也です。
『弔辞』ビートたけし著(講談社)を読みました。世の中には、「生き方にはいろいろと問題はあっても、この人のすることはすべて肯定したい」と思わせる人物がいます。わたしにとって、それは石原慎太郎氏であったり、アントニオ猪木氏であったりするわけですが、本書の著者であるビートたけし氏もそんな1人です。本書には、73歳になった著者の考えが余すところなく書かれています。 

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本書の帯

 

帯には著者の顔写真とともに、「人間は一人で生きて一人で死んでいく。で、どうする?」と書かれています。また、カバー前そでには、「いろんなものが消えていく。だけど、忘れちゃいけないものもある。あから、俺は弔辞を読もうと思った」とあります。

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「芸論から人生論・世界観まで――この年になって、今、考えていること――」「ビートたけし『自分への生前弔辞』」として、次の言葉が並びます。
朝、目が覚める瞬間が怖い理由
やり残したのは「独裁者」
人間は欠陥品だ。理想と現実の行為が必ず違ってくる。そこに「笑い」が生まれる
志村けんちゃんは苦労人だった
いくつになっても忘れない母親の教え
ささやかな幸せがあれば、なんとか生きていける
働くことに理由なんて要るのか
人生って結局わりと平等なんじゃないか
漫才はテレビに始まりコロナで終わる
誰も気づかない資本主義の恐ろしさ
エンタメには寿命がある
政治に何かを期待するほうがおかしい
科学と神様と人間の三角関係
ビートたけしはつまらなくなったのか  ほか

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
「自分への生前弔辞」北野武
「はじめに」
第1章 あのころのテレビ
第2章 人間ってやつは 
第3章 お笑いの哲学
第4章 さよなら古い世界



「自分への生前弔辞」では、著者が学生の頃に大学の授業にも出ず、就職など考えず、堕落した日々を送っていた時、出会ったのが「お笑い」だったとして、「大学では最先端のレーザー光線を学び、レーザーに関する卒論も書いていたにもかかわらず、就職は全部諦めたところに、掃き溜めのように浅草のフランス座が私の前に現れました。お笑いが一番やりたかったことではないし、もっとやりたいことはたくさんあったけれども、当時、真面目に働く気はないヤツが行くのはお笑いの世界しかなかったともいえます。そこで出会ったのが、きよしさんで、ツービートというコンビを組んで、私の芸人人生は始まったのです」と述べています。



よく「人々の生活が苦しいときは『お笑い』が流行る」といいますが、著者によれば、あれは嘘だそうです。お笑いは景気が良いときにこそ花咲くとして、「本当に飢え死にしそうな人間にナン億円もするピカソの絵とおにぎり1個のどちらかをあげようとしたら、みながおにぎりを選ぶに決まっています」と述べます。どうにかお笑いの世界でメシも食えるようになって、人気も出て、売れるようになって、今度は自分と同じ世界を目指す若手の姿を見るにつけ、一種の虚無感のようなものを感じるようになったという著者は、「お笑いは所詮お笑い、エンターテインメントは所詮エンターテインメントです。その時代や自分の身に何も起こらなければ楽しいという、それだけのことであって、世の中を救うわけでも、人様の役に立つわけでも全くありません」と述べます。



さらに、著者は「私は47歳の時にバイク事故で死にかけました。実は、今の私は、自分が認識している現在の「私」ではなく、ほんとうは、事故のあとも植物状態で病院にずっと居続けているのではないかと考えることがあります。今、私が見ている光景は、入院中の私が頭の中で描いたバーチャルなものなのではないかと。だから、朝起きて、ゆっくりと目を開けるとき、もしも天井が病院の病室だったらどうしようと、たまに不安になります。退院してから、現在までにやった仕事は全部、嘘で、入院してまだ1週間の自分に戻ったらどうしようという恐怖が拭えません。人間の『生きる』『死ぬ』という概念もまた、人間の脳が作り出しているのかもしれません」と述べています。



そして、著者は「死後どこどこへ行くなんていうのも、正直、どうでもいいことです。亡くなった丹波哲郎さん、今、どこで何しているのかな。丹波さんは、なぜか私のことを尊敬していまして、よく「死後の世界では、あなたは私よりもずっと格上の存在なんです」とか言われて困りました。死んだ後も上とか下とかあるのか、大霊界ではそうなのか、とか思いましたが、そこまで言うなら丹波さん、1回、こっちに帰ってきて、もっといろいろ教えてくれないかなと思いながら、私は今日を生きております」と述べるのでした。著者が本当にやりたかったことはお笑いではなく、お笑いは二番手だったそうです。そして、「いまでも、ノーベル賞を受賞した科学者を見ると嫉妬します」と告白しています。



第1章「あのころのテレビ」の「テレビに始まりコロナで変わる――漫才と芸人について」では、テレビという箱は、寄席で演じているようなお笑いの質をもっと落としたゲスなネタが向いていると思ったという著者は「それは、視聴者をバカにしているのではなく、テレビに合った漫才をしないといけない、つまり、テレビ用のネタを作らないといけないということだった。漫才のネタってやつは不思議なもので、今日ウケたネタが明日ウケるかは分からないし、東京でウケたネタが地方でウケるとも限らない。結局はどうやって、客との間に『共通社会』を作るかってことがネタの肝だった。少なくとも、テレビと社会が一心同体の時代はそうだった」と述べています。



「さんまとタモリに関する本音――俺以外の『ビッグ3』について」では、「お笑いビッグ3」と呼ばれ、著者と一緒に「ひょうきん族」で一時代を築いた明石家さんまについて、「さんまちゃんは、今も『さんまのまんま』という毎回、違うゲストを呼ぶ番組で司会をやってるけど、どんなゲストが来ても、それなりに笑いをとる。仮にゲストがあまり喋らなかったとしても、アイツが一人で漫談のように喋って、それで番組が成立してしまう。大阪で漫才コンビ紳助・竜介」として一世を風靡した紳助(島田紳助)も同じタイプだけど、紳助はさんまにくらべると毒がある。あの二人はトークをやらせたら抜群に上手い。ただ、これは悪口じゃないけど・・・・・・難を言えば、二人とも知性がない」と述べています。いやあ、これは立派な悪口だと思いますけどね。(笑)



また、同じく「お笑いビッグ3」のタモリについては、著者は「タモリは『物まね』が上手いけど、それ以上に『設定』で面白がらせるよね。アメリカ人、中国人、韓国人、日本人の4人で麻雀をやるという設定の『4ヵ国語麻雀』。ああれは面白い。ただ、あれには元ネタがあってね、『インチキ外国語』のアイデアは藤村有弘。麻雀卓を囲むというアイデアは、佐々木つとむが得意とした『高倉健鶴田浩二渥美清藤山寛美の4人が雀卓を囲んだら』という設定の声帯模写麻雀。イグアナのモノマネも、昔からマルセ太郎がやっていた。ただ、それらを上手に利用して、オリジナルな芸として見せるということができるのがタモリのセンスだよね。意識してひとつ次元の高い笑いを目指していると思う。ただ、あれを面白いと言ってるヤツはみんなエセインテリだと思うけどね」と、これまた悪口としか思えない際どい発言をしています。(苦笑)



第2章「人間ってやつは」の「『人間って結局わりと平等なんじゃないか』説――人生の平等・不平等について」では、不平等だ、格差社会だ、階級だとかいろいろ言われますが、最後の最後になって平等になるのだけは間違いないとして、著者は「どんな貧乏人でも金持ちでも死ぬことには変わりはないし、人間死ぬことは選べても生きることは選べないっていうのも平等。『金持ちに生まれたのと、貧乏人に生まれたのとでは全然違う。不平等じゃないか』っていうけど、俺はあまりそうは思ってなくて、金持ちに生まれたヤツには欠けている部分を、貧乏人に生まれたヤツが持ってたりするから、意外に平等にできてるんじゃないかと思う」と述べています。



また、著者がこの前、番組でスティーブ・ジョブズを取り上げたときに、思わず「いくら儲けたか知らないけど、あれだけ金持ちなのに癌1つ治せなかったじゃねえか」って言ってしまったとか。「アップルだのスマホだの作って、世界中の人間から個人情報とカネをとことん吸い上げて大金持ちになったくせに、いくら金持ちになったところでカネ持って死ねないよ」と発言したそうです。確かに、一理ありますね。



世界共通の現象として「中間層」がいなくなっており、金持ちと貧乏人とに大きく分かれ、二極化されているとして、著者は「リーマンショックで税金使って救済された大銀行の奴らは、それまで悪質なサブプライムローンで貧乏人からさんざん巻き上げたくせにその責任は一切とらなかった。スマートフォンを世界中の人間に持たせたというのは、犯罪ではないけれども、スマホの会社からしたら錬金術のようなもので、金儲けの手段としては見事だと思う。世界中の奴らが携帯使用料を払うから、元締は黙っていても天文学的なカネが懐に入ってくる。これはすごいことで、まさにスマホこそ、奴隷の手縄や足枷みたいなものだと思うね」と述べます。まったく同感ですね。



第3章「お笑いの哲学」の「芸人にとって最強の武器とは何か――たけし 本気の芸論1」では、お笑いに潜む悪魔は緊張した場面にこそ忍び込んでくるとして、著者は「葬式という厳粛な空間で、坊主がお経読んでいるのに、後ろに座っている親族のオッサンが、足がしびれて悶絶している姿が目に入ってしまって笑いたいけど笑えないとか。あるいは、結婚式で新郎新婦から両親への感謝の言葉とか、感動的なクライマックスの場面で新郎の親父が緊張のあまり、マイクにおでこを思いっきりぶつけたりしたら、やっぱり、おかしいじゃない」と述べています。



また、著者は「泣かせるよりも笑わせるほうがテクニックが要る。悲しいドラマは音楽とか演出次第でどうとでもなるけど、『笑い』を確信犯的に作るのは本当に難しい。笑っちゃいけないと人間が意識すればするほど、笑いたくなるというのが人間の不完全なところで、それが、お笑いという悪魔の本質なんだと思う」と述べます。なるほど。



「エンターテインメントには寿命がある――たけし 本気の芸論3」では、著者は「エンターテインメントにははっきりと寿命がある。商売としては残らない。志ん生のあのときのあのネタはすごかった、とかNHKでよくやってるけど、でも今の人はわからない。その一方で法隆寺や正宗は残っている。エンタメはその時代に生きないとわからない、ってことはある。そう考えると、やっぱり絵画ってすごいと思う。ゴッホピカソ、いまだに『すげえなぁ』って思うもの。バンクシーとか流行りモノのポップアートや、ジャクソン・ポロックのような抽象画を見ても、やっぱりゴッホとは格が違うよな、って感じる」と述べています。



第4章「さよなら古い世界」の「トランプが負けても支持される理由――歪んだアメリカについて」では、トランプってには、昔の下町の無礼講とかによくいた差別根性丸出しのオヤジみたいなイメージがあるとして、著者は「職人とか肉体労働者とか、いろいろ集まって『今日は無礼講だからパーッといこう』みたいな酒席のときに『なんだ、この土人め』『こんなクソまずいメシをくわせやがって』みたいなことを平気で言っちゃうような奴。悪役なんだけど、その発言が一部からは「よく言った」って褒められるところもある。トランプって、あの下品な発言で人気が出てるけど、それはよくわかる」と述べています。



しかし、著者は「あまりにも浅い考えというか、ただのオヤジが酒の勢いで言っちゃったみたいなことを、平然と政治的な文脈で言ってしまうトランプっていうのは、独立前からアメリカがずっと伝統とか言ってきた民主主義とか博愛とかっていう、それがいかにインチキで偽善だったかってことをハッキリ言った大統領っていうことでもあるかもしれない。その意味では『王様はハダカじゃないか』って言った少年にも近いかもしれない。アメリカという国が誕生したばかりのころ、ジェファーソン大統領の時代のアメリカって、荒っぽいし、奴隷はワンサカ持ってたしで、メチャクチャだったからね」とも述べます。本当に、そうだと思います。



「誰もが気づかない『システム』の恐ろしさ――欠陥だらけの資本主義について」では、著者は「資本主義のことって、もっと真剣に考えたほうがいい。資本主義の本質って、結局のところ『いかに経費を削減して、安いモノをたくさんつくって、貧乏人にたくさん買わせるか』っていう一点に尽きる。今の会社ってそこしか考えていない」と喝破します。さらに、そもそも先進国が昔やっていたようなことを、貧困国がいまやっているだけなのに、先進国が偉そうに言える筋合いなのかとして、「昔は、白人がアフリカに行って象狩りとかライオン狩りとかさんざんやってた。ルーズベルトとかヘミングウェイとかさんざん銃を撃ちまくってたくせに、いまさら動物愛護だ、絶滅危惧種を守れだ、そんなこと言える資格が先進国にあるのかよ」と述べます。



そして、著者は「発展途上国、貧しい国っていうのは、先進国がやったことを真似しているだけなのに、それを『やめなさい』って、お前らもやってたじゃないか、先にやった者勝ちなのかっていう、地球全体が歪んだような経済、資本主義の世界になっている」と述べるのでした。最初は芸人としての弔辞かと思いましたが、次第に民主主義や資本主義の限界も明らかにする高尚な弔辞となりましたが、著者の考えがわかりやすく述べられていて、興味深く読むことができました。本書が「人類への応援歌」のように思えたのはわたしだけでしょうか?

 

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2021年3月12日 一条真也