汚された五輪

一条真也です。
建国記念の日」の今日、東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会の森会長は、女性蔑視発言を受け、辞任する意向を固めて政府などに伝えたそうです。辞任を否定していた森会長が一転して辞任を決意した背景には、「謝罪したので解決済みの問題」などと言っていたIOCが手の平を返したように、森会長の退任を要求したからだと見られています。 

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ヤフー・ニュースより

 

スポーツ・マフィアとでも呼ぶべきIOCには絶対に逆らえない相手がいます。アメリカのTV局であるNBCです。中日スポーツが配信した「兆単位の五輪放映権料を支払うNBCも森会長の辞職迫っていた『去らねばならない。聖火を落とした』」には、「目もくらむ大金がかかるだけに、舌鋒も鋭い。五輪の放映権料を支払う米コムキャスト傘下の放送局NBCは10日、女性蔑視発言で炎上する東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長(83)を『去らねばならない。聖火を落とした』と批判。さらに、国際オリンピック委員会(IOC)にも森会長へ退陣を迫るよう要求した」と書かれています。



コムキャスト傘下のNBCユニバーサルは2011年、東京まで夏季・冬季五輪4大会の放映権料44億ドルでIOCと合意。14年は、22年からの6大会分を同77億ドルで合意した。計10大会で、日本円にして総額約1兆2700億円です。当時は「リスキーすぎる投資額」とも報じられましたが、夏季五輪に関しては、前回大会のリオで最高記録のテレビCM料12億ドル(約1260億円)を売り上げ、単一五輪の利益で2億5000万ドル(約262億5000万円)は新記録だったそうです。



東京五輪は20年3月時点でCM枠が10%しか残っておらず、CM料も記録更新の12億5000万ドル(約1313億円)を売り上げていたそうです。記事には「NBCは日本や東京都、IOCと一蓮托生。森会長とIOCの失態で五輪中止の機運がさらに高まり、爆発すれば、天文学的な損失を被ることになる」と書かれていますが、そもそも一民間企業に過ぎないNBCがそこまでのカネをIOCに支払うというのが常軌を逸しています。これでは完全にNBCによる五輪の私物化です。日本のプロ野球の「サンヨー・オールスターゲーム」のように「NBCオリンピック・ゲーム」に大会名を変更するべきだと思います。



そもそも、アマチュア・スポーツの祭典にこのような偏ったカネが流れていること自体、「もう、オリンピックは終わった」と思わずにいられません。五輪を興行ビジネスと見るのはまだしも、投資ビジネスにしてはなりません。わたしも経営者の端くれではありますが、「なんか資本主義って、本当に嫌らしいな」と思ってしまいます。今回の森会長の辞任については、「それでは東京五輪そのものが開催できなくなる可能性がある」などと危惧する意見もあるようです。自民党の最長老である森会長しか交渉できない案件だというわけですが、国民の80%が東京五輪の開催に反対している現状では、国民は喜ぶだけではないでしょうか。もともと、今回の騒動は「森会長やめろ!」ではなく、「東京五輪やめろ!」が本質だからです。



五輪が中止になれば、電通やJTBが倒産するなどという人もいますが、それも仕方ありません。コロナ禍で日本中の飲食店や観光地が危機的状況に陥っているのに、どうして最大手の企業だけを税金で助けなければいけないのでしょうか? 東京五輪が中止になれば、コロナ禍で苦しむJALやANAのように、電通やJTBも経営努力するしかありません。わが冠婚葬祭業界も新型コロナウイルスの感染拡大を受けて甚大な被害を受けていますが、わが社を含めて各社は必死に自助努力を重ねていますよ。それにしても、IOCなんてものはロクなものではありませんね。カネ・カネ・カネで、昭和の日本プロレス時代に力道山の周囲にいたプロモーターみたいなもんですな。



そもそも、現在の五輪ほど虚構性の高いイベントはありません。ひたすら「世界最大のスポーツの祭典」という虚構を膨らまし続けていますが、世界3大球技と呼ばれるバスケット、バレー、サッカーはそれぞれ独自の国際的な組織と世界選手権に至る競技日程を持っています。また、水泳、陸上、テニス、ラグビー、卓球、ゴルフなどの競技も五輪が頂点とはなりません。そこでIOCはそれらメジャーな競技の国際連盟補助金を注いで何とか繋ぎ止めて体裁を繕ってきたのです。さらには、他に何かテレビ映りのよさそうな新奇な競技はないかと探し回り、これが本当にスポーツと言えるのかと思うような曲芸まで参加させようとしました。結果、いたずらに大規模化が進み、33競技339種目にまで膨らみました。


どうしても五輪を続けたいのなら、前々から言われているように、開催地をギリシャに固定し、競技も1896年第1回アテネ大会と同等の10競技40種目程度に減らして続けるべきでしょう。さらに言えば、わたしはオリンピックを本来の儀式に戻すべきであると考えています。わたしが現在の商業主義にまみれたオリンピックに強い違和感をおぼえているのは事実ですが、クーベルタンが唱えたオリンピックの精神そのものは高く評価しています。


儀式論』(弘文堂)

 

拙著『儀式論』(弘文堂)の第11章「世界と儀式」では、「儀式としてのオリンピック」として、「オリンピックは平和の祭典であり、全世界の饗宴である。数々のスポーツ競技はもちろんのこと、華々しい開会式は言語や宗教の違いを超えて、人類すべてにとってのお祭りであることを実感させるイベントである」と書きました。その意味で、オリンピックが「国威発揚」の場となっているという高野氏の発言には違和感があります。基本的に儀式富国論者であるわたしは、参加各国がそれぞれオリンピックで国威発揚すればいいと思っています。その結果の「平和の祭典」というのは矛盾しません。


また、わたしは、「古代ギリシャにおけるオリンピア祭の由来は諸説あるが、そのうちの1つとして、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行ったというホメーロスによる説がある。これが事実ならば、古代オリンピックは葬送の祭りとして発生したということになろう。21世紀最初の開催となった2004年のオリンピックは、奇しくも五輪発祥の地アテネで開催されたが、このことは人類にとって古代オリンピックとの悲しい符合を感じる。アテネオリンピックは、20世紀末に起こった9・11同時多発テロや、アフガニスタンイラクで亡くなった人々の霊をなぐさめる壮大な葬送儀礼と見ることもできるからである」と書いています。



さらには近代オリンピックについて、わたしは「オリンピックは、ピエール・ド・クーベルタンというフランスの偉大な理想主義者の手によって、じつに1500年もの長い眠りからさめ、1896年の第1回アテネ大会で近代オリンピックとして復活した。その後120年が経過し、オリンピックは大きな変貌を遂げる。『アマチュアリズム』の原則は完全に姿を消し、ショー化や商業化の波も、もはや止めることはできない。各国の企業は販売や宣伝戦略にオリンピックを利用し、開催側は企業の金をあてにする。2020年の東京オリンピックをめぐる問題でも明らかなように、大手広告代理店を中心とするオリンピック・ビジネスは、今や、巨額のマーケットとなっている」と書きました。そのオリンピックという巨大イベントを初期設定して「儀式」に戻す必要があると強く思います。

 

2021年2月11日 一条真也