「パリの調香師 しあわせの香りを探して」 

一条真也です。
東京に来ています。9日、冠婚葬祭文化振興財団が主催する絵画コンクールの審査会に参加した後、日比谷で出版の打ち合わせをしました。その後、夕方の打ち合わせまで時間があったので、ヒューマントラストシネマ有楽町でフランス映画「パリの調香師 しあわせの香りを探して」を鑑賞。東京で映画を観るときは、東京でしか上映されていない作品、それも仕事の参考になるような作品を観るようにしています。この映画は、いろいろと考えさせられる内容でした。


ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「パリを舞台に、返り咲きを狙う調香師と人生がけっぷちの運転手の奮闘を描くバディムービー。調香師と運転手が、お互い自分にない部分を補いながら共に仕事をこなしていく。グレゴリー・マーニュが監督と脚本を手掛け、『ヴィオレット ある作家の肖像』などのエマニュエル・ドゥヴォスが調香師、ドラマシリーズ『エージェント物語」』などのグレゴリ・モンテルが彼女の運転手を演じ、『ハリー、見知らぬ友人』などのセルジ・ロペスらが共演している」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
「調香師のアンヌ(エマニュエル・ドゥヴォス)は世界中のブランドと仕事をし、クリスチャン・ディオールの香水『ジャドール』などをヒットさせてきた。だが、4年前に多忙と仕事のプレッシャーから突然嗅覚障害を発症し、それまでの地位を失ってしまう。今は嗅覚も戻り、地味な仕事だけをこなしながら静かに暮らす彼女は、元妻と娘の親権でもめているギヨーム(グレゴリ・モンテル)を運転手として雇う」

 

パリの香水業界が舞台で、エルメスディオールが協力しているということで、エレガントな美女が主役の洗練されたオシャレな映画を持っていたのですが、その予想は裏切られました。正直言って、主役の調香師アンヌを演じたエマニュエル・ドゥヴォスはあまり魅力的な女性とは言えず、とにかく人生に疲れた感がハンパないです。そんな彼女に運転手として雇われたギョームを演じたグレゴリ・モンテルはなかなか良い味を出していました。「映画.com」で、映画評論家の佐藤久理子氏は「本作がユニークなのは、男女の話の場合、かなりの割合で誘惑と欲望に結びつくフランス映画において、そんな紋切り型を粋なやり方でかわしていること」と書かれていますが、「それは単に女性に魅力がなかっただけでは?」と思ってしまいます。フランス映画なら、相手がソフィー・マルソーとかだったら、男性も黙ってはいないでしょう。はい。

 

ただ、アンヌとギョームの間には恋愛感情を超えた「人生の同志」的な絆を感じます。まったく異なる世界で生きてきた2人が、それぞれに困難を抱えながらもた支え合い、助け合うことで障害を乗り終えていく姿を描いています。まるで、菅首相が就任時に決意表明で述べた「自助、共助、公助、そして『絆』」みたいな関係ですが、現在のコロナ禍で世界中が困難な状況に直面している今、この2人の姿は観客の胸を打つものがあります。本来、夫婦がそのような関係にあるべきなのでしょうが、アンヌは独身で、ギョームも離婚しています。 

 
しかし、離婚した元妻が育てている10歳の娘とは心を通わせていて、観ていて暖かな気分になりました。わたしも含めて、日本には、娘とのコミュニケーションがうまく図れなくて悶々としている父親が多いように思いますが、その意味でフランス人は感情表現がストレートゆえに親子の心の交流も順調なようで、羨ましく感じました。特に、娘との面会日にギョームが海に連れて行き、父娘で浜辺で戯れるシーンが幸福感に溢れていて、良かったですね。フランス映画の名作「男と女」には恋する2人が浜辺で抱き合う名シーンがありますが、フランス人にとって海辺の砂浜というのは幸福を連想させる場所なのでしょうか。

 
主人公のアンヌは、仕事のプレッシャーと忙しさで、突如、嗅覚障害になり地位も名声も失ってしまいました。嗅覚が戻った現在はエージェントから紹介される企業や役所の地味な仕事だけを受けています。他人と関りを持たず、パリの高級アパルトマンでひっそりと暮らしているわけですが、そんなアンヌに対してギョームは、「人間は香りだけじゃないよ」と言います。たしかに、人間は香りだけではありません。顔もあれば、髪もあれば、身体もある。そして、何よりも心があります。そういった全体性を見ないで、香りだけを追求しても始まりません。それにしても、新型コロナウイルスの感染拡大で、世界から香りが消えました。みんながマスクをしている現在、良い香りを嗅げないのとととも、悪臭に我慢しなくてもよくなりました。コロナ時代は「香りのない時代」と言えるでしょう。

 
アンヌは、いつも不機嫌でイライラしています。運転手であるギョームが引ったくりを撃退してくれても感謝の言葉すら口にしません。「お願い」も「ありがとう」も言わず、ひたすらギョームをこき使うアンヌですが、次第に彼の真心に感化されて、「お願い」や「ありがとう」という言葉を使うようになります。じつは、今日、絵画の審査会をしたときに冠婚葬祭互助会の某大手の社長さんが「今日は、久々に会話ができて楽しかった」とわたしに言うので、「会社では会話をしないのですか?」と質問したところ、「会社では何を言っても、社員にとっては指示でしかないから」と言われました。部下に何か言って、それを単なる指示ではなくて会話に変える魔法の言葉が「お願い」と「ありがとう」ではないかと思いました。

  
ところで、パリを舞台にした香水がテーマの映画といえば、2006年のドイツ映画「パフューム ある人殺しの物語」が思い出されます。「ラン・ローラ・ラン」のトム・ティクバが監督を務めました。パトリック・ジュースキントによるベストセラー小説を映画化したサスペンスドラマで、18世紀のパリの魚市場で生み捨てられたジャン=バティスト・グルヌイユの数奇な人生を描いています。超人的な嗅覚を持っていた彼は、ある日、街で出会った女性の香りに取り憑かれます。その香りを再現するために、彼は香水調合師に弟子入りする。やがて、パリでは若く美しい女性ばかりを狙った連続殺人事件が発生するのでした。非常に妖しくエロティックな物語で、「香り」の持つ魔力を見事に描いた名作でした。

  
また、香水といえば、昨年大ヒットした日本の男性ミュージシャン・瑛人の楽曲「香水」が連想されますね。瑛人が恋人と別れて3か月くらい経ったときに作られた曲だそうです。彼が働いていたハンバーガー屋のオーナーがドルチェ&ガッバーナの香水をつけており、一緒に朝まで遊んだ際にオーナーに「香水持ってて」と言われて、預かったまま帰宅。その後、渋谷で友達とセッションしたときになんとなくその香水をつけ、落ち込んでいる気持ちなどを全部吐きだし歌い、匂いについて歌う部分で歌詞が自然に出てきたとか。曲の大ヒットを受け、ドルチェ&ガッバーナの香水の売上が増加し、デザイナーであるドメニコ・ドルチェステファノ・ガッバーナも本作について「知っていますよ! とてもうれしく思っています。ありがとう!」とコメントしています。

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香をたのしむ』(現代書林)

 

そもそも、香水とは何のためにあるのか。そして、「香り」とは何なのでしょうか。かつて、わたしは『香をたのしむ』(現代書林)という本を書きました。同書の帯には「そう、香りが、人生を、そして世界を豊かにする!」と大書され、「もし香りというものがなかったら、わたしたちの人生は何と味気ないものになっていることでしょう」と書かれています。また、同書の中で、わたしは「香り」の文学の金字塔といえるマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を取り上げました。この作品は「20世紀最高の小説」などの非常に高い評価を受けていますが、その長さでもよく知られています。なにしろ、わたしの手元にある井上究一郎訳の「ちくま文庫」版でも全部で10巻あり、しかもそれぞれ500ページから800ページ近いボリュームなのです。この長大な小説は、1913年から1927年にかけて書かれました。

 

 

内容は、第一次世界大戦前後のヨーロッパのベル・エポックの世相風俗を描くと同時に、社交界に生きる人々の俗物性を徹底的に暴いています。では、なぜ、この長大な作品が西洋を代表する香文学なのか。それは、第一篇「スワン家のほうへ」の冒頭場面に次のような重要なシーンが登場するからです。物語の語り手であるマルセルはマドレーヌ菓子を紅茶に浸して食べますが、その香りから幼少時代の記憶が一気に思い出されるのです。そこから壮大な物語ははじまります。とにかく、この出来事をめぐってフランス語の原書で3000ページもの小説を書き上げたということ自体が驚嘆に値しますし、プルーストの文学的才能を物語っていると言えるでしょう。

 

 

母親から出されたスプーン一杯の紅茶とマドレーヌを口元に運んだとき、マルセルは身震いし、「すべてを支配する喜び」に満たされます。漠然とした懐かしさに圧倒された彼は、この「いつか嗅いだことのある香り」の原因を必死で突き止めようとします。懸命な努力の結果、ついに記憶はよみがえります。それはマルセルが子どもの頃こと、日曜日の朝に、レオニ叔母さんが紅茶に浸したマドレーヌを彼に食べさせてくれたのでした。この描写は大変なインパクトを世界中の読者に与えました。そして、嗅覚によって過去の記憶が呼び覚まされる真理現象を「無意識的記憶」あるいは「プルースト現象」と呼ばれるまでに至ったのです。

 

匂いの人類学 鼻は知っている

匂いの人類学 鼻は知っている

 

 

でも、「プルースト現象」はプルーストのオリジナルではなかったようです。アメリカの心理学者にして嗅覚専門の認知科学者であるエイヴリー・ギルバートの刺激的な著書『匂いの人類学』(勅使河原まゆみ訳・ランダムハウス講談社)によれば、プルーストが「失われた時を求めて」の執筆に取り組んでいた当時にも、嗅覚と記憶との結びつきを探求していた人々がいたというのです。たとえば、1903年、アメリカの医師であるルイーズ・フィスク・ブライソンは女性向けファッション誌『ハーパース・バザー』で、「たぶん、香り、香水には、過去の輝かしい光景を奇跡かと見紛うほど鮮明によみがえらせる効果があるのでしょう」と述べています。

 
また、1908年にイギリスの雑誌『スペクテイター』に掲載された「匂いと記憶」というエッセイには、不意の匂いがいかにして「何キロメートルもの隔たり」と「何十年もの年月」を消し去るのかが述べられ、匂いを嗅ぐ行為を「魔法の絨毯」に乗っているイメージにたとえて説明しています。その五年後に、プルーストは嗅覚記憶を『アラビアン・ナイト』の魔神の魔術で運ばれる感覚にたとえているのです。もちろん、プルーストが「プルースト現象」の発見者でなかったにしろ、意識の流れに与える嗅覚の重要性を世界中にアピールした最初の人物がプルーストであった事実に変わりはありません。

  

時をかける少女 (角川文庫)

時をかける少女 (角川文庫)

 

 

このように『失われた時を求めて』は近代、そして西洋を代表する「香り」の文学でした。プルーストはフランス人ですが、「目に見えないもの」の価値を説いた『星の王子さま』のサン=テグジュペリもフランス人でした。いずれにせよ、「香りは文化のバロメーター」と言われますが、熟成した香りの文化は最高の香りの文学を誕生させたわけです。そして、わたしは「香り」が「魔法の絨毯」にたとえられたことを非常に面白く感じます。たしかに香りには、空間も時間を超越する不思議な力があります。中国茶の香りを嗅げば意識は中国に、インドの香を嗅げばインドに飛びます。また、日本にはラベンダーの香りを嗅ぐことによって時間を超えてしまう筒井康隆の『時をかける少女』というSFの名作があります。

 

嗅覚について、さらに考えてみましょう。あらゆる香りは、鼻から体の中に入ります。それが自律神経やホルモンの分泌を促す脳下垂体に伝わりますが、よい香りは人体によい影響を与えるようです。人間は五感というものを備えています。もともとは古代ギリシャの哲学者アリストテレスによって記述されたそうですが、すなわち「視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚」の五つの感覚のことで、具体的には「見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう」といった感覚をいいます。このうち視覚・聴覚・嗅覚の三つの感覚は、外部からの情報を目と耳と鼻がキャッチするものです。その中でも一番活躍するのが目です。人間は日常生活の中で、外界からの情報の多くを目から取り入れています。「人間は視覚動物」だと言われるゆえんです。

  

 

では、嗅覚は何のために必要なのでしょうか。花のよい香りを吸って心地よくなったり、肉の焼けるいい匂いを嗅いで、食欲が湧いてきたりするためでしょうか。理学博士の外崎肇一氏は、著書『「におい」と「香り」の正体』(青春出版社)に「嗅覚はもっとも自覚されない感覚であるが、例えば、腐ったものを食べようとした瞬間、ツーンというにおいを嗅げば、人はそれを口に入れずにすむ。鼻でしか感知できない大きな生命の危機に、ガス漏れもある。フェロモンなどといわれるように、女性のいい香りを嗅げば、男性はフラフラッと吸い寄せられる。これは子孫繁栄のために、なくてはならないにおいである。」と書いています。外崎氏によれば、五感はすべてが補完関係にあり、どれが欠けてもかなり不自由な生き方を余儀なくされるとのことです。その通りでしょう。

 

 

どうしても視覚に独占されそうな五感ですが、「目に見えないもの」の大切さを説く思想がこの世にはたくさんあります。仏教やキリスト教などの宗教の教えがまさにそうですし、哲学でも物の背後に潜む本質的実在を重んじるプラトンの「イデア説」なども、目には見えないものを大切にする考えです。わたしの愛読書であるサン=テグジュペリの『星の王子さま』の全体に流れるメインテーマも「大切なことは目に見えない」です。わたしは、いま、これをサービス業に携わる者の心得として、いつも社員に話しています。自分たちの仕事は、「思いやり」「感謝」「感動」「癒し」といった目に見えない大切なものを扱う素敵な仕事なのだと語りかけています。

 

星の王子さま (新潮文庫)

星の王子さま (新潮文庫)

 

  

さらに、サン=テグジュペリは「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えない」と、作中に登場するキツネに語らせています。心で見るとは、どういうことでしょうか。それは、「感じる」ということです。「心で見る」とは「感じる」と同じ意味なのです。そこで、「共感」というキーワードが出てきます。ホテル業や冠婚葬祭業に携わるサービスマンも「共感」する感性を研ぎすますことで、お客様が考えていること、求めていることを瞬時にキャッチできるようになります。大事なのは、「同感」ではなく「共感」なのです。サービスマンは、お客様とまったく同じ立場にはなれません。しかし、それぞれの立場を想像し、限りなくその心情に近づいてことはできます。そして、「共感」とともに「気づき」というものが大事です。「心で見る」というのは「気づく」ということでもあります。気づく人は、人が困っていたりするのが見えるわけですから、すぐにサポートしてあげることができます。また、気づく人は、人が喜んでいるときにもそれに気づくので、一緒に喜んであげることができます。気づかない人というのはサービス業では失格ですね。

 

 

わたしは、「目に見えないもの」とは「香り」に通じるのではないかと思います。もちろん「音」も「目に見えないもの」です。「香り」も「音」も、目に見えないものが存在することの証明となります。でも、聴覚は嗅覚に比べてもっとしっかりとした感覚です。目に見えなくとも耳で聞こえれば、そのものの存在は判別できます。でも、香りは違います。よほど強い香りでなければ、かすかに漂う香りを嗅ぐことは気配を感じることに限りなく近いと言えます。つまり、「共感」や「気づき」という心の働きと、香りを嗅ぐという嗅覚の働きは似ているのではないでしょうか。なお、『ジャングル・ブック』などの著書で知られるイギリスの作家キプリングは、「嗅覚は、視覚や聴覚より、人間の心の糸をかきたてる」と述べています。その意味で、映画「パリの調香師 しあわせの香りを探して」で、ギョームがアンヌに「お願い」や「ありがとう」という言葉を教えてあげたことは「共感」や「気づき」という心の働きの大切さを教えてあげたことにほかならず、アンヌが「香り」を生み出す上で最高のアドバイスだったのです。

  

2021年2月10日 一条真也