回天搭乗員の最後の言葉

一条真也です。
ヤフー・ニュースで見つけた「人間魚雷・回天搭乗員、最後に『ありがとう』 母艦乗組員証言、冥福祈り続ける」という記事には泣けました。

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この記事は、「京都新聞」が配信したものですが、「太平洋戦争末期、人間魚雷『回天』搭乗員の最後の言葉に耳を澄ましていた元潜水艦乗組員の男性が、7月に94歳で亡くなった。艦長と特攻兵器との連絡員だった。男性は戦後、未成年もいた搭乗員たちの冥福を祈り続けてきた。生前の今年2月、京都新聞社の取材に応じ、当時の心境や平和へを思いを語り残していた」と書かれています。



記事は「回天」の母艦となった大型潜水艦「伊58」の乗組員だった京都市伏見区の中村松弥さんの証言をまとめた内容ですが、以下のように書かれています。回天の搭乗員が「よーい」という号令でエンジンを掛けたとき、艦長はいつも「最後に言うことはないか」と聞いたそうです。中村さんの記憶は鮮明で、「出撃した(18歳~23歳の)5人のうち4人は『お世話になりました。ありがとうございました』、1人は『天皇陛下万歳、後続の者よろしく』と言った」と語っています。

 

回天が離艦すると電話線がちぎれて通信は途絶えます。中村さんは、「後は回天の人任せ。私は何とか当たれ当たれと願っていた」と述べ、敵艦に命中すると「あー良かったと思ったものです。みんなが一つの棺おけに入っているようなもん。私もいつでも死ねると思っていた」と回想します。わたしは、この「みんなが一つの棺おけに入っているようなもん」という言葉を読んだとき、落涙しました。当時の若者たちの心中を想像すると、たまりませんでした。



それだけの極限体験を共有した者の心の「絆」は強固です。「きずな」という字には「きず」が入っています。痛み、苦しみ、悲しみ、不安、恐怖といった心の傷を共有した者たちの絆は強く結ばれていますが、その意味では戦友の絆は最強だと言えるでしょう。回天をテーマにした横山秀夫の小説を原作とした日本映画の名作「出口のない海」(2006年)を観ても、そのことがよくわかります。


終戦後、中村さんは東山区の実家に帰り、結婚。実家の青果店の商売が落ち着いた1960年代から、基地があった山口県周南市の大津島を毎年訪れ、冥福を祈るようになりました。「出て行ってそれきりですやん。そら忘れられません。これからも戦争がないと良いなと思います」と語られた中村さんは慰霊の旅を亡くなる前年まで続けられたそうです。亡き戦友たちと共に戦後を生きられたのでしょう。故中村松弥さんの御冥福、および、すべての回天搭乗員の方々の御霊が安らかであることを心よりお祈りいたします。

 

2020年10月12日 一条真也