明日ありと思う心の徒桜、
夜半の嵐の吹かぬものかは
(親鸞)
一条真也です。
言葉は、人生をも変えうる力を持っています。
今回の名言は、親鸞(1173~1262年)の言葉です。法然を師と仰ぎ、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承、発展させました。浄土真宗の宗祖です。
親鸞は90歳まで生きた人です。臨終に立ち会った弟子は、顕智と専信、家族は五番目の子供の益方と末娘の覚信尼のみだったといわれています。しかし、おそらく彼には寂しさなどなかったことでしょう。親鸞は、「生きているときに苦悩の根元が断ち切られたならば、死ぬと同時に、阿弥陀仏の浄土に往く。しかし、苦しみ悩む人がいる限り、自分だけ極楽浄土で楽しんでいることはできない」と言いました。
この「明日ありと思う心の徒桜、夜半の嵐の吹かぬものかは」という歌は、『親鸞上人絵詞伝』に出てきます。仏門に入る決意を固めたとはいえ、わずか9歳の子どもが詠んだというのですから驚かされます。「明日もまだ桜は咲いていると思っているが、夜更けに嵐がきて桜の花を散らすことがないといえようか、そんなことはない」とあります。親鸞の無常観とともに、強く訴えあけるような力が感じられます。わたし自身も歌を詠みますが、歌の力を感じます。親鸞は、どんな人でも、煩悩あるがままで、苦悩の根元が断ち切られて、本当の幸せに救われる、日本的な仏教の極致のひとつを明らかにしたのです。
死を迎えたとき、人はなかなかその現実を受け入れられないものです。死への恐怖を拭い去ってくれることが宗教の大きな役割です。法然が生きた時代は、末法思想の中にありました。末法思想とは、釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(=正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(=像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観のことです。なお、この言葉は『死を乗り越える名言ガイド』(現代書林)に掲載されています。
2020年10月10日 一条真也拝