『エクソシスト急募』

エクソシスト急募 (メディアファクトリー新書)

 

一条真也です。
エクソシスト急募』島村菜津著(メディアファクトリー新書)を紹介します。「なぜ現代人が『悪魔祓い』を求めるのか」というサブタイトルが付いた本書は、ブログ『エクソシストとの対話』で紹介した本の続編的内容です。ノンフィクション作家の著者は1963年福岡県生まれ。東京芸術大学美術学部芸術学科卒業後、イタリア各地に滞在しながら、雑誌に寄稿。99年ヴァチカンのエクソシストらに取材した『エクソシストとの対話』で21世紀国際ノンフィクション大賞優秀賞受賞。

 

カバー表紙にはカトリックエクソシストのイラストが描かれ、「イタリアではエクソシストが足りず、大学に養成講座が設けられた! 驚くべき現実を取材するうちに見えてきた、その意外な理由――」と書かれています。帯には「大学は養成講座を開設。なぜ――?」と大書され、「これはオカルト話ではない! 多忙を極めるエクソシストの現状を克明に描き、社会が抱える闇に警鐘を鳴らす衝撃の書」と書かれています。

 

帯の裏には、以下のように書かれています。
「70年代、イタリア半島全体でわずか20人ほどだったエクソシストは、90年代に200人を超え、現在は300人を数える。にもかかわらず、彼らが暮らす教会や修道院には、ひっきりないに電話が鳴り、全員が寝る暇もないほど大忙しだという。理由は明白だ。エクソシストの人数よりも、儀式を必要とする人々のほうがより増えているからである。(中略)21世紀に入って10年も経つというのに、イタリア、そしてヨーロッパでは、いったい何が起こっているのだろうか。(「まえがき」より)」

 

カバー前そでには、「決して対岸の火事ではない」として、以下の内容紹介があります。
「大学ではエクソシストの養成講座が開かれ、勉強会には全世界から200名ものエクソシストが集う。イタリアを中心とした欧州で、いま何が起こりつつあるのか――? 著者は、悪魔に憑かれた人々やエクソシストに取材し、日本人として初めて『悪魔祓い』の儀式に立ち会う。グローバリズムの嵐がキリスト教文化圏の人々にもたらした『正体不明の不安』の実態に迫る迫真のレポート」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。
まえがき「映画『エクソシスト』の知られざる事実」
第1章 エクソシストが足りない
第2章 カトリックとは何か
第3章 聖書のなかのエクソシズム
第4章 エクソシズムとは何か?
第5章 史上最高のエクソシスト
第6章 「悪魔祓い」という聖なる儀式
第7章 近代のエクソシズム事件
第8章 欧米の悪魔主義
第9章 精神医療とエクソシズム
あとがき「エクソシストを巡る旅」

 

まえがき「映画『エクソシスト』の知られざる事実」では、1973年12月26日にアメリカで、1974年7月13日に日本で公開された映画「エクソシスト」が取り上げられます。このホラー映画の歴史に燦然と輝く作品は、少女に憑依した悪魔と神父の戦いを描いたオカルト映画の代表作であり、その後さまざまな派生作品が制作されました。題名となっている「エクソシスト」とは、英語で「悪魔祓い(カトリック教会のエクソシスム)の祈祷師」という意味です。この映画によって、「エクソシスト」という言葉は一気に世界中で知られることになりました。

 

著者は、この「エクソシスト」についてのあるエピソードを紹介しています。
「原作は、49年にアメリカ・メリーランド州に住む13歳の少年の身に実際に起こった出来事から材を採っている。映画と同じように、少年の寝室の壁からは何かを引っかくような音が聞こえ、ベッドが激しき揺れ動いたという。ただし、この少年の場合は駆けつけた二人の神父による6週間ものエクソシズムによって正気を取り戻し、奇妙な現象もぴたりとやんだそうだ」

 

ちなみに、実在した高名なエクソシストのカンディド神父はこの映画を観たそうです。いまは亡きカンディド神父の弟子であるカルミネ神父は次のように語っています。
「少女の首が回転するといった誇張を除けば、かなり評価なさっていたそうです。悪魔は人の目を欺くといいます。だから儀式の当事者たる神父にどういう現象が見えるかはわかりませんが、現実に少女の首が回転するとしたら、それはもう聖書にいう『奇跡』のレベルです。悪魔はもともと神の創造物ですから、人間に幻影を見せることはできても、奇跡は起こせない。それに映画の最後、若い神父が悪魔を自分に乗り移らせて自殺しますが、神学的には、悪魔は司祭を外から妨害することはできても、司祭に憑依することはできません。しかし、それらも映画的誇張としては許される範囲だとおっしゃって、カンディド神父は全体的に気に入っていらしたようです」

 

このコメントについて、著者は「これは意外だった。伝説のエクソシストとも呼ばれる神父が、世界的に有名なオカルト映画を少なからず褒めていたのである。この事実を知った後で、あらためて映画を観直した。すると、映画のタイトルバックに「REVERENDO」という肩書の3人の人物の名前を確認できた。この肩書は、カトリックプロテスタントの最高位聖職者にだけ使われる敬称である。調べてみると、3人のうち2人は教会の許可を得て、端役として映画に出演までしていた」と述べています。

 

第2章「カトリックとは何か?」では、「カトリック」という言葉について、著者は「カトリックの語源はギリシャ語のカトリケ、『普遍性』を表す言葉である。キリストが十字架上で処刑されて以来、およそ2000年をかけて世界最大の宗派へと成長したカトリックを、その名のとおり普遍性を手にした宗教だと評価する人もいる」と説明しています。

 

カトリックの総本山がヴァチカンですが、彼らにとって、エクソシズムとはどんな儀式なのでしょうか。著者は、「ヴァチカンには国務省をはじめとして9つの聖省があり、なかでもエクソシズムに大きくかかわるのが教理省と典礼秘跡省だ。教理省はその昔、検邪聖省と呼ばれ、異端宗教の審問などを担当していた。現在は新しい信心会の審査や教理の解釈などを担当している。エクソシズムの儀式をどう解釈するか、あるいはどう改革、存続させていくかの判断は教理省が行う」と述べます。

 

続けて、「一方、典礼秘跡省はクリスマスや復活祭、日曜日ごとのミサといった典礼や儀式を執り行う組織だ。第4章で詳しく解説するが、エクソシズムカトリックの歴史において古くから受け継がれてきた儀式である。儀式を行うエクソシストは、教会が定める法律上、カトリックの聖職者に与えられる聖務の1つに位置づけられている。先代の教皇ヨハネ・パオロ2世は、自ら3度のエクソシズムを行った人物として有名だ。ミュンヘン大司教を経て、長く教理省の長官をしていた現在のローマ教皇ベネディクト16世もまた、エクソシズム擁護派として知られている」と、著者は述べています。

 

「移民が揺るがすカトリックの居場所」として、著者は「欧州統合にあたり、ヴァチカンはヨーロッパの精神を代表する信仰として『カトリック』の表記を欧州憲法に入れるよう希望していたが、これは叶わなかった。EUにはギリシャルーマニアブルガリアキプロスといった正教会圏の国々も加盟しているからだ。EU発足後、移民増加に伴ってイタリア国内の正教徒の数は3倍にも増えた。また、カトリック教会が拠点とする国にもかかわらず、プロテスタントの人口は36万人を超えている。フランスでも劇的な教会離れが進み、70年代に国民の8割ともいわれたカトリック信者は、現在6割以下に減少している」と述べます。

 

続けて、著者は「EU各国に暮らすトルコ人労働者やアフリカからの移民の多くはイスラム教信者であり、その数は今後も増え続けると予想されている。異国に移り住んできたからといって、移民たちが自分たちの信仰や風習を曲げることはごく稀だ。こうなると、もはやカトリックがヨーロッパを代表する宗教だという事実すら危うくなるだろう」と述べています。

 

昨今のヴァチカンでは教会内部の混乱も目立つとして、著者は「02年以降、『ニューヨーク・タイムズ』や『ニューズウィーク』といった大手メディアがカトリック神父による未成年者への性的虐待事件を大きく取りあげた。これがきっかけとなり、アイルランドオーストリア、メキシコなど世界各地でカトリック神父が性的虐待の疑いで告発される騒動に発展、10年3月には、ロンドンで現教皇の辞任を要求する抗議デモが起きている」と述べます。

 

続けて、著者は「ヴァチカンはこれまでにも、ユダヤ系ジャーナリストが組織するメディアによる『アンチ・ヴァチカン』キャンペンを何度となく経験してきたが、今回の事態は特に深刻だ。カトリック教会の聖職者のあいだでも、教会内部から膿を出すために、真摯な態度で批判を受け止めるべきという意見が主流だそうである。移民の増加や教会内部の混乱による信者たちの教会離れ――これが、世界最大の宗教組織カトリックが直面している危機である。信仰を失った者が次に救いを求める対象は何か。生活の規範として機能していた精神的支柱の喪失は何を生むのか。こうした問いに対する答えは、エクソシストが不足している理由と直結する」と述べるのでした。

 

第3章「聖書のなかのエクソシズム」では、「誤解される悪魔のイメージ」として、著者は「ホラー映画に登場する悪魔の原型になっているのは、たとえば中世の写本であり、ルネサンスの絵画であり、ロマン派の小説や挿画である。山羊のような角、血走った瞳、鋭い牙、そして黒い大きな翼を背にもつ異形の怪物。あるいは、この世の征服をもくろむ野望に満ちた悪の支配者。でなければ、天から堕ちた憂鬱な地獄の住人・・・・・・。ヴァチカンの高位聖職者であり、悪魔学の権威だった故コッラード・バルドゥッチ神父は、悪魔という存在を理解するためには、そうした『陳腐でハリウッド映画的な悪魔像』を頭から一掃することが大切だと説いている。彼によれば、それらは『民間伝承や民俗学レベルでの悪魔像』だという」と述べています。

 

 また、「デビルとサタンの違い」として、著者は述べます。
「悪魔を指す英語の『デビル』(イタリア語ではディアボロ)の語源はギリシャ語の『ディアボロス』、これは『敵、中傷者、反対者』を意味する言葉だ。『デーモン』の語源もギリシヤ語で、これは善でも悪でもなく、古代ギリシャの哲学者ソクラテスは『インスピレーションをもたらす内なる声』と認識していた。『デーモン』は、聖書では通常「悪霊たち」と訳されるが、もともとは善とも悪とも決めつけられない両義的な響きをもっているのである。一方、『サタン』はヘブライ語で『告発者』という意味だ。サタンはイヴを誘惑して木の実を食べさせた蛇、あるいは旧約聖書で描かれる、傲慢さから天を追われた光の天使ルシファーとも混同されてきた」

 

さらに、「悪魔祓いの原型は聖書に」として、著者は「エクソシズムの語源は、『強く誓わせる』という意味のギリシャ語である。つまり悪魔祓いとは、取り憑いた人や物、場所からの退散を、悪しき霊に誓わせることなのだ。人に取り憑いた悪魔は、人間の口を通じてでたらめを喋り、動物のように吠えたりするが、エクソシストはこれに取り合わない。彼らは悪魔を鎮め、沈黙を強いる。それから取り憑いた悪魔の名を問い、出ていくよう命じる。彼らが悪魔に命令するときに重要なキーワードが、『キリストの御名』という言葉だ」と述べます。

 

 

そして、「悪魔祓いを行った聖人たち」として、著者は以下のように述べるのでした。
イエス・キリストの死後、エクソシズムの儀式は急速に広まった。『よきキリスト教徒』とは、とにかくキリストに近づき、弱者の苦しみに共感する者だと信じられたからだ。キリスト教の習慣では、生涯にわたって聖性が高く、死後も多くの信者に愛され、さらに病を癒すなどの『奇蹟』を起こしたと認められた者を「聖人」と呼んで崇める(正式な認定は教会が行う)。そんな聖人たちのなかからも、悪魔祓いを行う者が続々と名乗りをあげた。たとえば、修道制(キリスト教徒を志す者が、俗世間を離れて祈りと労働の共同生活を送る制度)の父と呼ばれる、エジプトの聖アントニウス(251~356年)もその一人だ。彼は裕福な家に生まれながら、20歳のときにすべての財産を捨てて砂漠の洞窟にこもり、やがて集まってきた弟子たちと共に修道制度を生んだとされている。アントニウスといえば、悪魔の誘惑と苦闘する姿が美術のテーマとして愛され、ヒエロニムス・ボッシュグリューネヴァルトといった多くの画家が『聖アントニウスの誘惑』というタイトルの作品を残している」

 

第4章「エクソシズムとは何か?」では、「キリスト教徒が大切にする儀式」として、国際エクソシスト協会の会長であるジャンカルト・グラモラッツオ神父の「エクソシズムの祈りは、サクラメンターレです」という発言を紹介し、著者は「サクラメンターレは日本語で『準秘跡』と訳される。秘跡サクラメント)とは、キリスト教において「信者が神からの力や恵みを受け取る儀式」のことだから、エクソシズムはそれに準ずる重要な儀式なのである」と述べています。

 

カトリックには、信者が日々の暮らしの基本とする7つの秘跡があります。キリスト教徒になるための儀式として頭部や全身を水に浸す「洗礼」、聖職者への告白を通して洗礼後に犯した罪の赦しを乞う「告解」といった、われわれにもなじみのある行為も、この秘跡に含まれる。他には、洗礼を受けた者が信仰を強めるために信仰の告白を行う「堅信」、最後の晩餐でのイエスの行為に基づいてパンと葡萄酒を配る「聖体拝領」、男女が神の前で結婚の誓いを立てる「婚姻」、病人や臨終の者に聖油を塗って祈る「病者の塗油」、そして聖職者を任命する「叙階」があります。これらの秘跡を補う諸儀式がサクラメンターレです。

 

エクソシストが増える国」として、著者は、「史上最高のエクソシスト」と呼ばれたカンディド神父が次々著作を世に問うた理由を述べた次の発言を紹介します。
「魔術とサタニズム(悪魔崇拝)とスピリチュアリズム精神主義)、私はこの3つをオカルトという木の3本の技だと考えています。オカルトの木は本物の信仰が陰ると育つという歴史的な原理があります。私が力を注いでいるのは、原点に立ち返り、エクソシズムを復活させることです」
そして、このカンディド神父の発言を受け、著者は「エクソシズム復活に際して、今後、重要な役割を担う可能性があるのがアメリカ大陸だ。中南米では70年代に比べてカトリック信者の数が3倍に増え、いまや全世界のカトリック人口の43%を占める。あるいは、信者の数が緩やかに増えるアフリカ大陸、未知なる可能性を秘めた中国も控えている」と述べるのでした。

 

Messale ordinario tradizionale: Latino e italiano (Italian Edition)

Messale ordinario tradizionale: Latino e italiano (Italian Edition)

 

 

第6章「『悪魔祓い』という聖なる儀式」では、「悪魔祓いの『教科書』」として、著者は「エクソシズムが正式な儀式である以上、当然、規範となる型が必要だ。その型が書かれているのが、エクソシストたちが儀式に臨む際に手にしている『ローマ典礼儀式書』である。この書には、主にミサや祭日の典礼の執り行い方や聖歌集などが掲載されているが、そのなかにエクソシストの儀式に関する項目、いわばエクソシストたちの教科書ともいうべき文面が収められている」と述べています。

 

また、「儀式に欠かせない道具」として、著者は十字架とともに聖水を取り上げます。「聖水の効果について、カトリック信者に教義の内容をわかりやすく説いた教理指導書『カテキズム』には、「水は生命の源であり、海の水は死の象徴であるという一文がある。全身を水に浸したり、頭部に聖水を注ぐ儀式である「洗礼」は、「キリストの死のなかに信者となる人を浸す」ことを意味する。キリストの復活を追体験し、新しい命を得る。つまり、聖水をかける行為には、壮大な死と再生の儀式が潜んでいるのである」

 

続いて、聖水について、著者は「また少なくとも3世紀頃から、聖水と同じく塩もあらゆるものを腐敗から守り、魔を祓う力があると信じられてきた。日本でも古くから水が魂のお清め、塩が魔除けの役割を果たしてきたから、感覚的にもよくわかる気がする。オリーブ油を聖別した聖油も儀式では活躍する。ちなみに、『キリスト』というギリシャ語の語源は、ユダヤ語の『メサイヤ』=『油を注がれた者』だ。聖香もまた、煙が天へと昇ることから場を浄化する効力があると考えられている」と述べます。

 

さらに、「典礼服が意味するもの」として、著者は「儀式に臨むエクソシストはどんな礼服を着るのだろうか。映画『エクソシスト』では、老神父がもう一人の中年神父に紫色のストーラを用意するよう指示を出す場面がある。ストーラというのは典礼に臨む司祭が首からかける頚垂帯のことで、何色かあるうち、エクソシズムの際には必ず紫色のストーラを身につける。なぜ紫色なのか。カトリック典礼では、白、緑、赤、黒、紫の5色が重要とされる。白色は神の尊厳を意味し、復活祭やクリスマス、聖母の祭りなどで使われる。日曜日のミサは希望と復活の緑色、赤色は血液を連想させることから殉教聖人やキリストの受難の日に使用される。黒色は葬式など死者にかかわる儀式に使われるが、死者のミサでも教会で行う場合は紫色を使う」と述べます。

 

第7章「近代のエクソシズム事件」では、1976年、ドイツのアンネリーゼ・ミシェルという少女が、悪魔祓いの末、命を落とし、両親と2人の神父が懲役6ヵ月の有罪判決を受けた事件が紹介されます。彼女は、しばしばてんかんに似た症状を呈し、大学生になると「壁に悪魔の顔が見える」などと訴え出した少女には、虫を食べる、獣のような声で喚き散らす、また十字架や聖画を粉々にするといった奇行が目立ちました。5年間、精神科医から処方された薬を飲み続けましたが、これも効かず、当人も、自分には「ルシファー、ベリアル、ユダ、暴君ネロ、ヒットラー」などが憑依していると信じていました。

 

75年9月、両親の願いが叶い、ようやくエクソシズムの許可が下ります。その後、約10ヵ月にわたり2人の司祭が週に3回程度の間隔でエクソシズムを続けました。ところが、彼女はあるときから食物の摂取を断ってしまう。やがて肺炎を患い、激しく消耗していった彼女は、76年7月1日の真夜中、わずか8歳の若さでこの世を去る。数日前にしたためた遺書には、「聖母が現れ、私は悪魔から解放された」と綴られていました。

 

息を引き取ったとき、彼女の体重は31kgしかなく、顔は別人のようにやつれていました。もし病院で点滴を受けるなどして無理にでも栄養補給をしていれば、アンネリーゼの命は救われたかもしれないと、神父と両親が過失致死罪と虐待の罪に問われたのでした。ヨーロッパのメディアは「まるで中世の遺物のような儀式が、ついに犠牲者を出した」と大きく報道。果ては、ドイツの司祭を中心にしたグループが、ヴァチカンに対してエクソシズムの儀式を禁止するよう求める請願書を提出するに至りました。この事件以後、ドイツでは、エクソシズムは一切、行われなくなり、『エミリー・ローズ』(2005年)というアメリカ映画にもなりました。

 

第8章「欧米の悪魔主義」では、「悪魔主義の台頭」として、著者は「サタニズムとは本来、司祭がキリストの代わりにサタンを崇め、動物の生費などを使って聖体拝領をする、伝統的なミサのパロディだった。ある研究家はサタニズムを3つに分類する。1つ目は、ドラッグや過激なロック音楽に誘発されるアシッド・サタニズム(麻薬的悪魔崇拝)。ファッション的傾向が強い思想で、信奉者には若者が圧倒的に多い。2つ目は、悪魔に魂を売り渡し、代わりに金銭や恋人、名声、権力を手に入れようという現世利益的なサタニズム。この思想は古くから存在しているが、信奉者が大きな犯罪事件を起こすことは、そう多くないのだという。3つ目は、黙示録的サタニズム。この世の終末を夢見る信仰で、あらゆる生命を破壊しようという衝動に駆られた思想集団を形成する。本当に存在するのなら、かなり恐ろしそうだ」と述べています。

 

第9章「精神医療とエクソシズム」では、「イタリアには精神病院がない」として、著者は「日本人にとっては意外に思えるが、実はイタリアには精神病院がない。正確にいえば、法律に基づいて消えつつある。この場合の精神病院とは、精神疾患のある患者の治療・保護を専門的に行う、隔離病棟を含む入院施設をもった病院のことだ。イタリアで精神病院を禁止する法律が制定されたのは1978年。制定の理由は、精神病院が非人間的な環境であり、治療よりむしろ病状の悪化を引き起こし、さらには社会福祉予算を当て込んだ不正運営の温床となるというものだった」と述べています。

 

そして、「『悪魔の憑依』という救い」として、著者は「心に病を抱える人にとって、心理学者のもとへ通うことは、あたかも自分が普通の人間ではないと宣告されるようなものだと教授は分析する。世間のそんな偏見が患者たちには何よりつらいことで、エクソシストに『悪魔が憑依していますよ』と言われたほうがずっと気が楽なのだという。なぜなら、悪魔が憑いていると告げられた瞬間に、彼らの病は文化的に記録が残っているカテゴリーに分類されるからだ。悪魔は集団で共有する問題であり、もはや個の過失や弱さではなくなる。また、聖書が描いたキリストや聖人たちがそうであったように、キリスト教では悪魔に苛まれることを魂の浄化のための試練だと考える者もいる。『悪魔憑き』と呼ばれたその瞬間から、彼らの苦しみは『選ばれた人』たる意義をキリスト教文化のなかでもち始めるのである」と述べるのでした。

 

前作同様に、本書は日本人がエクソシズムについて知る格好の入門書であると思いました。それにしても、イタリアには精神病院がないという事実には驚きました。それくらい、カトリックの信仰が浸透している国なのでしょう。日本でも、新たなるスピリチュアルケア・センター、グリーフケア・センターの存在が求められると思います。わたしは、その役目をセレモニーホールが担うべきであると考えているのですが・・・・・・。

 

エクソシスト急募 (メディアファクトリー新書)

エクソシスト急募 (メディアファクトリー新書)

 

 

2020年6月8日 一条真也