五輪を儀式に戻そう!

一条真也です。
弥生晦日になりました。3月も今日で最後です。
新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、明日4月1日に予定していたサンレーグループ合同入社式は規模を大幅に縮小して、本社新入社員のみの辞令交付式を行います。

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ヤフー・ニュースより 

 

さて、東京五輪は2021年7月23日~8月8日に延期するとの発表がありましたが、「『無神経の極み』と批判 五輪日程発表で米紙」というネット記事を読みました。それによれば、30日の米紙「USA TODAY」(電子版)は、東京五輪の新たな大会日程が発表されたことについて「無神経の極みだ」と国際オリンピック委員会(IOC)を批判したそうです。同紙の運動担当コラムニストは「世界中が疫病と死と絶望に包まれている時に、なぜ日程を発表する必要があるのか」と指摘しました。また、「せめて暗いトンネルを抜けて光が見える時まで待てなかったのか」「新型コロナウイルス感染の状況改善を待つべきだった」、さらには「来年7月に感染が終息している保証はない」などと述べて、発表が拙速だったと主張しました。わたしも同感です。

f:id:shins2m:20200331150155j:plain高野孟のTHE JOURNAL」より 

 

なぜ延期期間は1年になったのか。その理由を調べていたら、ジャーナリストの高野孟氏が自身のメルマガ「高野孟のTHE JOURNAL」に書いた「すべて自己都合。安倍首相が東京五輪を2年でなく1年延期にした訳」という記事を見つけました。高野氏によれば、「安倍首相は、バッハと森に任せておけば優柔不断の二乗となって決断が遅れ、延期もままならず中止に追い込まれることを恐れたのだろう。これを中止ではなく延期、しかも2年ではなく自分の自民党総裁任期内の1年延期に止めるべく、権限外の場違いであることを厭わず介入した」そうです。「中止となれば、後手後手への非難を含めて責任論が噴き出して、安倍首相は早期辞任となりかねない。それを避けるには延期だが、それも2年先では自分がどうなっているか分からないから1年先なのである。しかし、それってすべて自分の都合ですよね。本当は、指導者というものは、自分のことはさておいて、中止と延期でどちらが時間とエネルギーと費用が少ないか、延期の場合に1年先と2年先ではどちらが日程を組み替えやすくて費用も最小で済むかなど、まずは国民と世界のアスリートにとってのメリット・デメリットを試算して提示し、判断を仰ぐのが普通でしょうに」とも書いています。



高野孟氏といえば、1995年、新党さきがけ政調会長菅直人、前日本社会党委員長山花貞夫日本新党を離党した海江田万里といった人々と「リベラル東京会議」を旗揚げされた方です。この「リベラル東京会議」の設立が翌年の旧「民主党」結党のきっかけになったわけですから、高野氏は自民党および安倍首相とは政治的立場を異にすることは明白です。わたしはこれでも自民党の党員ですので、正直言って安倍首相への批判の色合いが強い論調には距離を置きたいのですが、そこで語られている高野氏の五輪についての考え方には「目から鱗」の思いがしました。

 

朝日新聞」3月26日朝刊で、一橋大学教授の坂上康博氏(スポーツ社会学)は、IOCのバッハ会長が「自分からそれを言い出すのをできるだけ避けているように見えた」理由について、テレビ局やスポンサーに大きな損害を与えてしまうこと、IOCが開催地に負担を強いているという印象を強めることを恐れていたからだと指摘しています。IOCの2013~16年の収入は約57億ドル(約6300億円)で、その7割強がテレビの放映権料だといいます。かつては、そのまた7割以上を米国のテレビ局が占めていました。それゆえ、彼らの意向で開催時期は米国内のスポーツ競技の閑散期に当たる夏で、さらに人気のある競技は米国のゴールデンタイムに生中継できるようゲーム開始時間が組まれるということが罷り通っていたのです。



しかし、現在では米テレビ局のシェアはそれほどでもなく、放映権料全体の中で5割程度と見られているそうです。それでもIOCとしては放映権料を少しでも高く売るのに必死ですので、できれば自分から延期や中止を口にしてテレビ局やスポンサー企業の機嫌を損ねることはしたくありません。
また、開催地の経済負担の大きさという問題は、すでに五輪そのものの存続に関わるほどに深刻さを増しているとか。
無理を重ねて誘致して施設の整備や大会の準備に莫大な費用を注ぎ込んでも、大会後にはその国の経済全体が落ち込み、せっかくの施設も市民スポーツの増進には役立たずに廃墟化してしまう。そんなマイナス面ばかりが目立つようになったというのです。そのため、五輪招致の手を挙げるのはロンドン、東京、パリなど先進国の巨大都市ばかりになったのでした。それ以外都市で市長が動こうとすると、市民から反対運動が起きるような始末。これが五輪招致の現実なのです。



以上の坂上氏の見解を受けて、高野氏はこう述べます。
「つまり五輪そのものがもはや黄昏のビジネスとなりつつあって、そこで今回『中止』となれば破局は間違いなし。『延期』であっても恐らく何千億円もの追加費用を投じて無理に無理を重ねて強行しなければならないはずで、それを見ればますます誘致希望者はいなくなっていく。それを思うと、バッハはたぶん、自分の方からは『さらに何千億円かけてでも延期せよ』とは言い出せなかったのだろう」
同じ3月26日付「朝日」の記事では、ライターの武田砂鉄氏が「なぜ中止ではなく、延期なのか。『1年』の根拠は何なのか。こうした疑問に明確な説明があったわけでもない・・・・・・。延期より『中止』が経済的な損失が少ないのではないか。『復興五輪』ならこのタイミングで中止してその分のお金を復興に回す。そう考えてもいいはずなのに」と指摘しています。これも、わたしは同感です。



また、高野氏は「もう止めたほうがいい五輪」として、「このドタバタ劇から透けて見えるのは、五輪そのものの馬鹿馬鹿しさ──と言ってしまうと身も蓋もないが、時代との関わりですでに歴史的使命が終っているという事実である」と述べます。オリンピック憲章が「オリンピック競技会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」(1章6項1)「国ごとの世界ランキングを作成してはならない」(5章57項)と定めていますが、高野氏は「これはほとんど空文である。早くも1908年の第4回ロンドン五輪から、開会式の入場行進が国ごとに国旗を掲げて行われるようになり、それ以来五輪はもっぱら『国威発揚』の道具として弄ばれてきた。それは、20世紀という国家エゴイズムの剥き出しのぶつかり合いの時代にふさわしい道具立ての1つだったと言えるのだろう」



さらに、高野氏は以下のように述べています。
「冷戦の終わりと共に、そのような国家エゴの時代は本質的には終わったはずなのだが、米国を筆頭に多くの国々はまだ20世紀へのノスタルジアから自由になれずに相変わらず軍拡を続けていて、そうであるからこそ五輪もまた惰性で続けているのである。そのためには『世界最大のスポーツの祭典』という虚構を膨らまし続けなければならない。しかしそうは言っても世界3大球技と呼ばれるバスケット、バレー、サッカーはそれぞれ独自の国際的な組織と世界選手権に至る競技日程を持っているし、水泳、陸上、テニス、ラグビー、卓球、ゴルフなどの競技もみな同じで、五輪が頂点とはならない。そこでIOCはそれらメジャーな競技の国際連盟補助金を注いで何とか繋ぎ止めて体裁を繕う一方、他に何かテレビ映りのよさそうな新奇な競技はないかと探し回り、これが本当にスポーツと言えるのかと思うような曲芸まがいのものまで参加させようとする。結果、無闇な大規模化が進み、今回で言えば33競技339種目にまで膨らんだ」



そして、高野氏は「いきなり廃止というのもどうかと言うなら、前々から言われているように、開催地をギリシャに固定し、競技も1896年第1回アテネ大会と同等の10競技40種目程度に減らして続ければいいのではないか。あるいは、思い切って発想を転換して、巨大スタジオ1つだけを会場にした『全世界こども運動会』にするのはどうか」と述べるのでした。最後の「全世界こども運動会」の提案には仰天し、次に爆笑しましたが、悪くないアイデアだと思います。
そして、「開催地をギリシャに固定し、競技も1896年第1回アテネ大会と同等の10競技40種目程度に減らして続ける」という考えには全面的に賛成します。というのも、わたしはオリンピックを本来の儀式に戻すべきであると考えているからです。


儀式論』(弘文堂)

 

わたしが現在の商業主義にまみれたオリンピックに強い違和感をおぼえているのは事実ですが、クーベルタンが唱えたオリンピックの精神そのものは高く評価しています。拙著『儀式論』(弘文堂)の第11章「世界と儀式」では、「儀式としてのオリンピック」として、「オリンピックは平和の祭典であり、全世界の饗宴である。数々のスポーツ競技はもちろんのこと、華々しい開会式は言語や宗教の違いを超えて、人類すべてにとってのお祭りであることを実感させるイベントである」と書きました。その意味で、オリンピックが「国威発揚」の場となっているという高野氏の発言には違和感があります。基本的に儀式富国論者であるわたしは、参加各国がそれぞれオリンピックで国威発揚すればいいと思っています。その結果の「平和の祭典」というのは矛盾しません。



また、わたしはオリンピックの起源について書いています。
古代ギリシャにおけるオリンピア祭の由来は諸説あるが、そのうちの1つとして、トロイア戦争で死んだパトロクロスの死を悼むため、アキレウスが競技会を行ったというホメーロスによる説がある。これが事実ならば、古代オリンピックは葬送の祭りとして発生したということになろう。21世紀最初の開催となった2004年のオリンピックは、奇しくも五輪発祥の地アテネで開催されたが、このことは人類にとって古代オリンピックとの悲しい符合を感じる。アテネオリンピックは、20世紀末に起こった9・11同時多発テロや、アフガニスタンイラクで亡くなった人々の霊をなぐさめる壮大な葬送儀礼と見ることもできるからである」



さらには近代オリンピックについて、わたしは「オリンピックは、ピエール・ド・クーベルタンというフランスの偉大な理想主義者の手によって、じつに1500年もの長い眠りからさめ、1896年の第1回アテネ大会で近代オリンピックとして復活した。その後120年が経過し、オリンピックは大きな変貌を遂げる。『アマチュアリズム』の原則は完全に姿を消し、ショー化や商業化の波も、もはや止めることはできない。各国の企業は販売や宣伝戦略にオリンピックを利用し、開催側は企業の金をあてにする。2020年の東京オリンピックをめぐる問題でも明らかなように、大手広告代理店を中心とするオリンピック・ビジネスは、今や、巨額のマーケットとなっている」と書きました。そのオリンピックという巨大イベントを初期設定して「儀式」に戻す必要があると、わたしは考えています。

 

21 Lessons: 21世紀の人類のための21の思考
 

 

ブログ『21 Lessons』で紹介したイスラエル歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリの最新刊は叡智の書ですが、同書の第6章「文明」の中で著者ハラリは、「2020年に東京オリンピックを観るときには、これは一見すると国々が競っているように見えるとはいえ、じつは驚くほどグローバルな合意の表れであることを思い出してほしい。人々は自国の選手が金メダルを獲得して国旗が掲揚されるときに、国民としておおいに誇りを感じるものの、人類がこのような催しを計画できることにこそ、はるかに大きな誇りを感じるべきなのだ(柴田裕之訳)」と書いています。



現在のわたしたちは、深く考えることなく「WHO」や「IOC」などの国際機関の名前を口にしますが、これらは想像を絶する苦労の末に生まれたグローバルな合意の表れなのです。そして、第一次世界大戦が起こったから国際連盟が生まれ、第二次世界大戦が起こったから国際連合が生まれた歴史的事実を忘れてはなりません。国連もWHOもIOCも、すべて人類の叡智の果実です。さらには、グローバリズムの「負のシンボル」がパンデミックであり、「正のシンボル」がオリンピックであることを知る必要があります。

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五輪はグローバリズムの「正のシンボル」

 

ブログ「NO!3密、NO!3権」にも書いたように、人類の叡智の果実であるオリンピックが「利権」「金権」「政権」に絶対に利用されてはなりません。新型コロナウイルスの感染拡大を避けるために密室・密閉・密接な環境を避ける「NO!3密」が必要ですが、それとともに、利権・金権・政権よりも国民ファーストということで、わたしは「NO!3権」を訴えています。
ぜひ、世界における新型コロナウイルスの感染拡大の収束後に開催されるオリンピックは「真の人類の祭典」であることはもちろん、加えて、犠牲者たちの葬送儀礼と位置づけるべきです。そうすれば、利権・金権・政権の「3権」に利用され、汚され続けたオリンピックも少しは浄化されるのではないでしょうか。そして、その開催時期は世界的な感染拡大の収束が確認された時点で決めるべきだとも考えます。そのときの日本の首相、東京都知事組織委員会の会長が誰であろうと別にいいではありませんか!
五輪は、あくまでも人類の祭典なのですから・・・。

 

2020年3月31日 一条真也