人生を修める「修活」を!

一条真也です。
九州を代表する経済誌「財界九州」の4月号が送られてきました。「OPINION-私の視点ー」のコーナーで、わたしの発言が紹介されています。

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「財界九州」2020年4月号

 

「人生を終える『終活』ではなく、人生を修める『修活』を!」のタイトルで以下のように書かれています。
わが社が本社を置き、わたしが住んでいる北九州市は、現在、政令指定都市の中で最も65歳以上の高齢者が多いことで知られる。そんな街に住みつつ、わたしはいつも「豊かな老い」について考えている。わが社は冠婚葬祭業である。そこで長寿祝いや葬儀のお世話をさせていただき、さらには高齢者介護施設なども運営させていただきながら、人生を輝かせる方策について考え、具体的な提案を行ってきた。
現在、世の中には「終活ブーム」の風が吹いている。多数の犠牲者を出した東日本大震災の後、老若男女を問わず「生が永遠ではないこと」、そして必ず訪れる「人生の終焉」というものを考える機会が増えたことが原因とされる。
いま、多くの高齢者の方々が、生前から葬儀やお墓の準備をされている。このほか「終活」をテーマにしたセミナーやシンポジウムも花ざかりで、わたしも何度も出演させていただいた。いつの間にか、わたしは「終活」の専門家のように見られるようになり、『決定版 終活入門――あなたの残りの人生を輝かせるための方策』(実業之日本社)という著書も上梓した。そこでも書いたのだが、ブームの中で、気になることもある。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことだ。特に「終」の字が気に入らないという方に幾人もお会いした。
もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされている。正直に言って、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚える。そこで、「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案し、『人生の修め方』(日本経済新聞出版社)、『修活読本』(現代書林)といった著書を出版して世に問うた。
よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」であるという見方ができる。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活だからだ。そしてその先に、人生の集大成としての「修生活動」がある。かつての日本人は、「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」ということを深く意識していた。これは一種の覚悟である。その半面、いま、多くの日本人はこの「修める」覚悟を忘れてしまったように思えてならない。そもそも、老いない人間、死なない人間はいない。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかならない。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないだろうか。
わたしは、以前に『老福論――人は老いるほど豊かになる』(成甲書房)という本を書いたのだが、そこでは拙いながら「老いの豊かさ」について紙幅の許す限り論じ、「老い」は人類にとって新しい価値であることを指摘した。
自然的事実としての「老い」は昔からあったし、社会的事実としての「老い」も、それぞれの時代、それぞれの社会にあった。しかし、「老い」の持つ意味、そして価値は、これまでとは格段に違ってきている。
これまで「老い」は否定的にとらえられがちだった。仏教では、生まれること、老いること、病むこと、そして死ぬこと、すなわち「生老病死」を人間にとっての苦悩とみなしている。現在では、一般的には生まれることが苦悩とは考えられなくなってきたにせよ、まだ老病死の苦悩が残る。
しかし、わたしたちが一個の生物である以上、老病死は避けることのできない現実である。それならば、いっそ老病死を苦悩ととらえない方が精神衛生上もよいだろうし、人生を前向きに歩めるのではないだろうか。すべては、気の持ちようである。世界各国で高齢者が増え、ずいぶん以前から「高齢化社会」という語が生み出されている。各国政府の対策の遅れもあって、人類そのものが「老い」を持て余している印象を受ける。さらにその中で、現在の日本は、未知の超高齢社会に突入している。それは、そのまま多死社会でもある。
日本の歴史の中で、今ほど「老いる覚悟」と「死ぬ覚悟」が求められる時代は他にない。特に「死」は、人間にとって最大の問題だ。これまで数え切れないほど多くの宗教家や哲学者が「死」について考え、芸術家たちは死後の世界を表現してきた。医学や生理学を中心とする科学者たちも「死」の正体をつきとめようと努力してきた。それでも、今でも人間は死に続けている。死の正体もよくわかっていない。実際に死を体験することは一度しかできないわけだから、人間にとって死が永遠の謎であることは当然だと言える。まさに死こそは、人類最大のミステリーなのである。
なぜ、自分の愛する者が突如としてこの世界から消えるのか、そしてこの自分さえ消えなければならないのか。これほど不条理で受け入れがたい話はない。その不条理と相対するために、わたしたちは死生観というものを持つべきだ。高齢者の中には「死ぬのが怖い」という人がいるが、死への不安を抱えて生きることこそ一番の不幸だろう。まさに死生観は究極の教養であると考える。自らの人生を修めるための活動、すなわち「修活」において、最も重要なことは死生観を持つことではないだろうか。わが社は多くの高齢の会員様を抱える互助会として、そのお手伝いをしたいと願っている。

 

2020年3月21日 一条真也