月を見上げて、死を想う

一条真也です。
5日、「西日本新聞」に「令和こころ通信 北九州から」の第13回目が掲載されました。月に2回、本名の佐久間庸和として、「天下布礼」のためのコラムをお届けしています。今回のタイトルは、「月を見上げて、死を想う」です。

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西日本新聞」2019年11月5日朝刊

 

秋は月が美しく、各地で月見の会が開かれます。先日、わたしは八幡西区にあるサンレーグランドホテルで開催された「隣人祭り・秋の観月会」に参加したのですが、そこでは恒例の「「月への送魂」も行われました。

 

月への送魂」とは、夜空に浮かぶ月をめがけ、故人の魂をレーザー(霊座)光線に乗せて送るという「月と死のセレモニー」です。その日の夜空は月が厚い雲に隠れてハラハラしましたが、なんとか儀式の時間には姿を見せてくれました。300人を超える人々が夜空のスペクタクルに魅了されました。それにしても、なぜ月に魂を送るのでしょうか。じつは、わたしは月こそは「あの世」ではないかと思っているのです。

 

地球上の全人類の慰霊塔を月面に建てるプランを温めたりもしています。なぜ、月が「あの世」なのか。多くの民族の神話と儀礼において、月は死、もしくは魂の再生と密接に関わっています。規則的に満ち欠けを繰り返す月が、死と再生のシンボルとされたことはきわめて自然でしょう。世界中の古代人たちは、人間が自然の一部であり、かつ宇宙の一部であるという感覚とともに生きており、死後への幸福なロマンを持っていました。その象徴が月なのです。

 

「葬式仏教」といわれるほど、日本人の葬儀やお墓、そして死と仏教との関わりは深く、今や切っても切り離せませんが、月と仏教の関係もまた非常に深いです。「お釈迦さま」ことブッダは満月の夜に生まれ、満月の夜に悟りを開き、満月の夜に亡くなったといいます。ミャンマーをはじめとした東南アジアの仏教国では今でも満月の日に祭りや反省の儀式を行います。仏教とは、月の力を利用して意識をコントロールする「月の宗教」だと言えるかもしれません。

 

仏教のみならず、神道にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、あらゆる宗教の発生は月と深く関わっています。地球人類にとって普遍的な信仰の対象といえば、太陽と月です。つねに不変の太陽は神の生命の象徴であり、満ち欠けによって死と再生を繰り返す月は人間の生命の象徴なのです。

 

「葬」という字には草かんむりがあるように、草の下、つまり地中に死者を埋めるという意味があります。「葬」にはいつでも地獄を連想させる「地下へのまなざし」がまとわりついているのです。一方、「送」は天国に魂を送るという「天上へのまなざし」へと人々を自然に誘います。

 

月への送魂」によって、葬儀は「送儀」となり、お葬式は「お送式」、葬祭は「送祭」となります。そして「死」は「詩」に変わります。秋の夜長、みなさんも、ぜひ月を見上げて、死を想ってみてはいかがでしょうか。



2019年11月5日 一条真也