平成中村座 小倉城公演

一条真也です。
2日の11時から、妻と一緒に「平成中村座 小倉城公演」を鑑賞しました。小倉城天守閣再建60周年にあたる記念事業にして博多座20周年特別公演です。

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平成中村座 小倉城公演公式サイト」の「はじめに」には、こう書かれています。
「十八世中村勘三郎の思いが詰まった『平成中村座』は‟江戸の芝居小屋”にタイムトリップしたような時空を超えるエンタテインメント。2000年、東京・浅草第一回公演以来、東京のみにとどまらず大阪、名古屋、さらには日本を飛び出し、ニューヨーク(アメリカ)、ベルリン(ドイツ)、シビウ(ルーマニア)などに登場し、各地で人々を沸かせてきました。以降も歌舞伎ファンの観客を惹きつけています。そんな『平成中村座』が2019年11月に博多座テレビ西日本主催で九州(北九州市)に初上陸となりました」

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平成中村座、小倉に来る!

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平成中村座の前で

 

続いて、以下のように書かれています。
勘三郎が立ち上げた平成中村座のコンセプトは、単なる劇場での歌舞伎公演だけでなく、まるで江戸の芝居小屋に見物に来ているような、タイムトリップしたかのような体験が出来る時空を超えたエンタテインメント空間であること。そのため江戸情緒を感じられる地で行われることも多く、名古屋、大阪公演では天守閣をのぞむ城郭での上演を行いました。そこで今回、 福岡で唯一天守閣がある北九州市小倉城天守閣再建60周年にあたる記念事業と博多座20周年特別公演の目玉としてこのプロジェクトが始動。小倉城お膝元の勝山公園で仮設劇場を建設し、『平成中村座』の九州初上陸を北九州市が全面サポートいたします」

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劇場の入口

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会場内のようす

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天井には大提灯が・・・

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劇場内のようす

 

続いて、以下のように書かれています。
博多座で行われた昨年2月の花形歌舞伎でも勘九郎七之助は『自信のある演目(お染の七役・鰯売恋曳網)をお見せします。楽しんで欲しい』と公言。結果、大入りでファンを沸かせ有言実行しました。勘九郎七之助にとっても九州で『平成中村座』を行うことは悲願であり、特に福岡通の七之助は2年前の西日本新聞取材で『福岡でやりたいことはいっぱいある。「平成中村座」も実はここでやりたい。具体的に動こうとして、話もしているがなかなか・・・』とこのプロジェクトを実現する難しさを語っていました。しかしその夢をあきらめずに温め続け、北九州市の後ろ盾を得て、いよいよ九州初の『平成中村座』が開幕に向けて動き始めます。昨年6月には亡き父の夢であった平成中村座スペイン公演を大成功させるなど着実に“夢”を形にし続ける二人の活動には目を見張るばかりです」



この日の昼の部の演目は、「一、神霊矢口渡 一幕」「二、お祭り 清元連中」「三、恋飛脚大和往来 封印切 一幕」の三部構成でした。「一、神霊矢口渡」ですが、「平成中村座 小倉城公演公式サイト」の「演目・配役」には以下のように書かれています。
「 『神霊矢口渡』は、新田義興の謀殺後、一族の苦心談を新田神社縁起に結び付けた芝居で、人形浄瑠璃で上演後、歌舞伎となり十八世紀末、江戸桐座で上演された。作者福内鬼外は異才の発明家平賀源内の筆名。南朝方の義興は足利討伐の途上、武蔵国玉川の矢口渡で忠臣を装う竹沢らの謀略で船が転覆、溺死した。その後日譚で、義興の弟義峯は御台所の台を連れ、渡し守頓兵衛の家に宿を求める。頓兵衛は竹沢の一味で金欲しさに義峯捕縛を図るが、義峯に一目ぼれした頓兵衛の娘お舟が救う。対照的な娘と父だ。お舟はえび反りの美を演じ、囲いを解く合図の太鼓を乱打し、義峯への恋心を見せる。頓兵衛は強欲の塊で、鍔の鳴る刀を持ち、『蜘手蛸足』の誇張味を演じる。江戸の義太夫狂言の名作だ」

 

配役は、中村七之助(娘お舟)、中村橋之助(新田吉峯・新田義興の霊)、中村鶴松(傾城うてな)、坂東彌十郎(渡し守頓兵衛)です。七之助演じるお舟の衣装が綺麗でした。また、七之助の海老反りが見事でしたね。わたしは花道のすぐ横の席だったのですが、花道のせり出しから橋之助演じる新田義興の霊が突如現れたのには驚きました。スペクタクル性満点の歌舞伎で、まさにエンターテインメントでした。



「二、お祭り 清元連中」は、こう書かれています。
「 『お祭り』は1826年初演の舞踊。鳶頭を主人公に、神田祭とともに『天下祭り』と呼ばれた山王神社のお祭りの華やかさを見せる。毎年夏、神田祭と隔年交替で江戸城に招かれ将軍に飾った山車をお見せした。鳶頭が現れると、『待ってました!』と大向うの声がかかり、『待っていたとはありがてえ』と応じる。首抜き、たっつけ袴の粋な鳶頭は、のろけ話や狐拳の遊び、『引けや引け引け』と山車にちなむ‟引き物尽し”を見せる。清元節の代表作で、祭のほろ酔い気分があふれれている」

 

配役は,中村勘九郎(鳶頭)、中村虎之介(若い者)です。
勘九郎が出てきたとき、客席から「いだてん!」のかけ声がかかって笑いました。勘九郎はずっと動いていましたが、最後に花道から退場するときに至近距離で見たら、顔一面にびっしょりと汗をかいていました。やはり彼は華がありますね。演出でバックの壁が倒れて本物の小倉城が出現したときは驚きましたが、わたしは「なんだか結婚式場の演出みたいだな」と思いました。



「三、恋飛脚大和往来 封印切」は、こう書かれています。
「『封印切』は、公金横領で牢死した男の実話を基に近松門左衛門が書いた『冥土の飛脚』の改作で、安永七(1778)年大阪道頓堀で上演された。飛脚屋の養子の亀屋忠兵衛は遊女梅川を愛し、丹波屋八右衛門に五十両借り、身請けの手付金として親方の槌屋治右兵衛に渡したが、残り金ができない。思案に暮れつつ、武家屋敷に届ける三百両を懐に梅川を訪ねる。八衛門が来ていて、梅川を横取りする身請け金を横柄に出し、散々に忠兵衛の悪口を言う。それを聞いて忠兵衛は飛び出し言い争い、男の意地で三百両の封印を切ってしまう。封印を切れば重罪だ。忠兵衛と梅川は死を覚悟する。『梶原源太は俺かしらん』と色男ぶって現れる忠兵衛は上方和事の典型的二枚目で、愛敬と滑稽を見せる。 梅川のやるせなさ、二人に肩入れする井筒屋おえん、治右衛門も気持ちのいい役だ」

 

配役は、中村獅童(亀屋忠兵衛)、中村七之助(傾城梅川)、中村歌女之丞(井筒屋おえん)、片岡亀蔵槌屋治右衛門)、中村勘九郎丹波屋八右衛門)です。これは勘九郎七之助獅童もみんなオールスターで出演するので、ゴージャス感がありました。セリフもわかりやすく、純粋なドラマとして楽しめました。梅川の身請け金である二百五十両をめぐる忠兵衛と八右衛門の生々しいやりとりは、拝金主義に対する痛烈な風刺であると感じました。最後に、花道で繰り広げられる獅童の顔芸が素晴らしかったです。彼を見たのは、2004年公開の映画「いま、会いにゆきます」のスクリーン上でした。あれからもう15年が経ちましたが、良い役者になりましたね。



さて、平成中村座は歌舞伎役者の十八中村勘三郎(初演時は五代目中村勘九郎)と演出家の串田和美らが中心となって、浅草・隅田公園内に江戸時代の芝居小屋を模した仮設劇場を設営して「平成中村座」と名付け、2000年(平成12年)11月に歌舞伎「隅田川続俤 法界坊」を上演したのが始まりです。


翌年の2001年(平成13年)以降も、会場はその時によって異なるものの、ほぼ毎年「平成中村座」を冠した公演が行われていたが、座主の十八中村勘三郎が2012年12月に亡くなった為、2013年は公演を行わいませんでしたが、勘三郎の遺志を継いだ長男の六代目中村勘九郎が座主を引き継ぎ、2014年に実弟の二代目中村七之助、ニ代目中村獅童と共にアメリカ合衆国・ニューヨークで平成中村座復活公演を行いました。


わたしには息子がいませんが、2人の息子たちが志を継いでくれた十八世中村勘三郎は本当に幸せな人だと思いました。また、2人の息子たちも立派です。見ると、六代目中村勘九郎も二代目中村七之助も亡父によく似ています。日経電子版に掲載された連載コラム「『人は死なない』歌舞伎の襲名披露を見て」にも書きましたが、わたしはもともと歌舞伎とは「孝」の芸術であると思っています。というのも、わたしは、歌舞伎の襲名というのは儒教における「孝」そのものであると思いました。

 

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

儒教とは何か 増補版 (中公新書)

 

 

これは中国哲学者で儒教研究の第一人者である加地伸之先生の一連の著書を読んで知った考え方ですが、現在生きているわたしたちは、自らの生命の糸をたぐっていくと、はるかな過去にも、はるかな未来にも、祖先も子孫も含め、みなと一緒に共に生きていることになります。わたしたちは個体としての生物ではなく一つの生命として、過去も現在も未来も、一緒に生きるわけです。これが儒教のいう「孝」であり、それは「生命の連続」を自覚するということです。「孝」という死生観は、明らかに生命科学におけるDNAに通じています。

 

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

沈黙の宗教――儒教 (ちくま学芸文庫)

 

 

加地先生によれば、「遺体」とは「死体」という意味ではありません。人間の死んだ体ではなく、文字通り「遺(のこ)した体」というのが、「遺体」の本当の意味です。つまり遺体とは、自分がこの世に遺していった身体、すなわち「子」なのです。あなたは、あなたの祖先の遺体であり、ご両親の遺体なのです。あなたが、いま生きているということは、祖先やご両親の生命も一緒に生きているのです。孔子は「孝」という思想によって「人は死なない」ということを宣言したわけですが、その真髄を歌舞伎に見た思いでした。平成中村座の舞台には、十八世中村勘三郎の遺体が2体並んでいるのです。f:id:shins2m:20191102123449j:plain高齢者の方が多かったです 

 

また、会場を見渡すと、高齢者の方が多かったです。中には杖をついて来られた方も見られました。一般に高齢者の方は時代劇が好きだといわれます。歌舞伎も江戸時代を舞台とした演劇です。お年寄りになればなるほど昔の話を好まれる理由がわかったような気がしました。というのも、江戸時代に生きていた人々というのは、現在はもう生きていません。いわば、死者です。高齢の観客は、舞台の上で生き生きと動いている江戸時代の人々が間もなく死ぬことを知っています。すると、「どんな元気な人間でも、いつかは死ぬ」、ひいては「人間が死ぬことは自然の摂理である」ということを悟り、自身が死ぬことの恐怖が薄らぐのではないでしょうか。

f:id:shins2m:20191102104318j:plain二十軒長屋 

 

天守閣をのぞむ小倉城郭には、平成中村座最大規模数のテナントが出店されている「二十軒長屋」があります。江戸時代の情緒を感じられる商店街に来ているようなエンターテインメント空間が小倉城 勝山公園に出現していました。これは観劇客のみならず、初めて一般客にも開放した形で展開されています。テナントには、平成中村座お馴染みのお店から、小倉織など九州ご当地ならではのお店も多数出店し、公演期間中は、特設劇場と合わせてお祭りのような雰囲気を楽しめます。

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良い思い出となりました 

 

わたしが広告代理店の新入社員だった頃、歌舞伎座100周年記念イベントの仕事をしたことがあります。連日、歌舞伎について勉強し、また鑑賞するうちに、その魅力にすっかり取りつかれたのですが、最近は忙しさにかまけて歌舞伎から遠ざかっていました。久々に夫婦で歌舞伎を堪能し、良い思い出となりました。

 

2019年11月2日 一条真也