『教養としてのヤクザ』

教養としてのヤクザ (小学館新書)

 

一条真也です。
『教養としてのヤクザ』溝口敦・鈴木智彦著(小学館新書)を読みました。わたしが住む北九州は以前は「ヤクザの街」などと呼ばれましたが、徹底した暴力団追放運動が功を奏したようで、すっかり「ヤクザと無縁の街」になりました。それで、懐かしさもあって本書を読んだ次第です。共著者である溝口氏は1942年、東京生まれ。早稲田大学政経学部卒業。ノンフィクション作家。『食肉の帝王』で2004年に講談社ノンフィクション賞を受賞。ブログ『暴力団』で紹介した本の著者でもあります。鈴木氏は1966年、北海道生まれ。日本大学芸術学部写真学科除籍。ヤクザ専門誌「実話時代」編集部に入社。「実話時代BULL」編集長を務めた後、フリーに。 

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本書の帯

 

本書の帯には「あの芸人にも読ませたい。」と大書され、「暴力団取材のプロが教える‟反社”会学入門」と書かれています。また帯の裏には、「ヤクザと五輪」「ヤクザと選挙」「ヤクザとテレビ」「ヤクザと大学」「ヤクザと憲法」「ヤクザとLINE」「ヤクザとタピオカ」「私たちの知らないところで、‟彼ら”と社会はつながっている」と書かれています。

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本書の帯の裏

 

カバー前そでには、以下の内容紹介があります。
「吉本闇営業問題で分かったことは、今の日本人はあまりにも『反社会的勢力』に対する理解が浅いということだ。反社とは何か、暴力団とは何か、ヤクザとは何か。彼らと社会とのさまざまな接点を通じて、『教養としてのヤクザ』を学んでいく。テーマは、『ヤクザとメディア』『ヤクザと食品』『ヤクザと五輪』『ヤクザと選挙』『ヤクザと教育』『ヤクザと法律』など。その中で、『ヤクザと芸能人の写真は、敵対するヤクザが流す』『タピオカドリンクはヤクザの新たな資金源』『歴代の山口組組長は憲法を熟読している』など、知られざる実態が次々明らかになっていく。暴力団取材に精通した二大ヤクザライターによる集中講義である」

 

さらにアマゾンには、 【編集担当からのおすすめ情報】として、以下のように書かれています。
暴力団取材の第一人者である溝口敦氏と、『サカナとヤクザ』がベストセラーになった鈴木智彦氏が、ヤクザと社会の意外な接点を明らかにしていく展開は、目からウロコの連続です。反社について学ぶことは、裏面から日本の社会を学び直すということなのかもしれません」

 

本書の「目次」は、以下の構成になっています。

「はじめに」(鈴木智彦)

第1章〈ヤクザと食品〉

     新たな資金源はタピオカドリンクだった

第2章〈ヤクザと副業〉

     現代の賭場はLINEのゲームである

第3章〈ヤクザと五輪〉

     東京五輪バブルを最も待ちわびる面々

第4章〈ヤクザと選挙〉

     政治家が頼る禁断の集票マシーン

第5章〈ヤクザと教育〉

     大学教授にはなぜかヤクザマニアが多い

第6章〈ヤクザと法律〉

     山口組組長は憲法を熟読している

第7章〈ヤクザとメディア〉

     闇営業反社側が追及されない理由

第8章〈ヤクザと平成〉

     震災、オウム、北朝鮮とヤクザの関係

終章 〈ヤクザと令和〉

     山口組分裂によって暴力団は絶滅するのか

「おわりに」(溝口敦)



「はじめに」の冒頭を、鈴木氏はこう書きだしています。
「昭和の実話誌を開いてヤクザのインタビューを読むと、かなりの組長・幹部が『いいもんを食って、いい女を抱いて、いい車に乗るためにヤクザになった』と身もふたもない告白をする。貧困や差別のなかを蠢いていた持たざる者たちにとって、ヤクザは体ひとつで成り上がれる最短距離だったのである。
実際、根性と胆力、腕っ節と運さえあれば、出自を問われず、学歴不要で、入社試験もなかった。抗争事件で殺されればおしまいだが、対立相手を殺害して長い刑務所生活を送ることになっても、10~20年後に出所すれば、多額の功労金と大幹部の椅子が約束されていた。駆け出しの若い衆たちは、親分たちの豪華な暮らしと羽振りの良さに憧れ、いつか俺も親分になってやると心に誓った。ヤクザという生き方は、一種、ジャパニーズドリームの体現だった」



続けて、鈴木氏は以下のようにも述べています。
「金ばかりでなく、精神的な充足もヤクザにはあった。男になりたい、男でありたい、男で死にたいと嘯くヤクザたちは、男たちのロマンチシズムをいたく刺激し、ヤクザ映画が量産された。金が儲かるうえ、周囲の羨望を集める。時折訪れる刑務所生活は、理想の生活を送るための、いわば税金のようなもので、それさえ我慢すればなかなかの人生だったろう。太く短く燃え尽きる・・・・・・刹那的かつ享楽的なヤクザの生活は、平成に入って徐々に変わっていった。というより、社会が少しずつ、しかし、確実にヤクザを追い詰めていった。平成4年、暴力団対策法が施行された頃は、まだ右翼と左翼とヤクザがタッグを組む自由闊達さがあり、彼らは連帯してシュプレヒコールをあげた。ばかりか、極道の妻たちが『このままでは生きていけない』とプラカードを掲げ、銀座をデモ行進できる時代だったのだ」



平成7年夏、鈴木氏はヤクザ専門誌の編集部に入社。その後フリーになってからは、ひたすら暴力団への直接取材を行いました。「現実という大きな山を登るため、裏道を選んだはずなのに、この道が社会のあらゆる場所につながっていて驚かされた。各種の犯罪や同和という社会問題はもちろん、ヤクザは政界、財界、芸能界とも直結していた。飲食、興行、土木建築、人材派遣はおろか、食肉や漁業といった一次産業にさえヤクザというドアからつながった」と述べています。



さらに鈴木氏は、以下のように述べるのでした。
暴力団排除条例はヤクザを根本から変えてしまった。銀行口座を持てず、生命保険に入れず、自動車の任意保険にも加入できないのだから、もはやまっとうな社会生活は送れない。就職もできず、起業もできず、あちこちで暴力団という属性が邪魔になる。金を貸した相手からの返済が滞り催促しただけでも、警察に駆け込まれれば暴力団の側が罰せられる。ばかりか暴力団であることを申告せずゴルフ場でプレーしたり、ホテルに泊まったり、クレジットカードを申請すれば詐欺罪で有罪になる。最近、暴力団幹部が検挙された事案はほとんどがこの類型で、データ上、警察の実績をアピールするためのまやかしに過ぎない。もはや、抗争事件が迷宮入りとなる例はめずらしくない。実行犯は今もなに食わぬ顔で寄り合いや義理事に参加し、市民社会のただ中で暮らしている」



第2章「〈ヤクザと副業〉現代の賭場はLINEのゲームである」では、「LINEスタンプを販売」として、以下のような会話が交わされています。
溝口 ヤクザのシノギというと、大雑把に言えば、覚せい剤の密売とノミ行為を含めた賭博、管理売春、みかじめ料の4つがある。
鈴木 この4つをシノギの“本業”とすれば、それら以外は“副業”ですかね。
溝口 ヤクザの本当の本業は“暴力”で、それ以外は全部副業なのかもしれないけど、シノギという範疇のなかではそうなりますか。ヤクザのシノギを見ていくと、まさに今のヤクザが置かれている状況というものが見えてきます。ヤクザが新たなシノギを見つけても、警察はそれをしらみ潰しに潰していく。そのたびに、ヤクザは生計の道が絶たれていくんです。



また、「ヤクザの本業は喧嘩」として、以下のような会話が交わされます。
溝口 ヤクザの本業とは何かというと、喧嘩なんです。喧嘩に勝てば金が湧いてくる。怖いというイメージを植えつけることで、一般人は震え上がってヤクザにみかじめ料を渡すし、怖いイメージを利用して示談交渉や取り立て、地上げをするんですから。それが今はなくなってしまっている。ただ、カタギ相手にしか暴力を行使しないヤクザは、ヤクザの世界では尊敬されませんけどね。
鈴木 カタギをいじめるのはダメ。やっぱりヤクザを相手にして暴力で叩き伏せられるヤクザは尊敬される。



第3章「〈ヤクザと五輪〉東京五輪バブルを最も待ちわびる面々」では、「五輪競技団体とヤクザ」として、溝口氏が次のように述べています。
「愚連隊上がりの大卒ヤクザには、大学でボクシングをはじめ、空手、相撲などの格闘技をやっている者が多かった。ヤクザの基本は、『ステゴロ(素手の喧嘩)でとにかく強くなくてはいけない』ということ。20代までに喧嘩の力をつけておくべきとされているので、格闘技を習うのはちょうど良かったんです。大学で格闘技系の部活をやっていた人から、プロのボクサーや相撲取り、格闘家などになる人もいれば、ヤクザになる人もいて、同じ釜のメシを食った者同士なのでヤクザとの接点が生まれる。この人脈からお互いの世界がつながるんですね。ついでに言うと、格闘系の部活から警察官になる人たちも多い。右翼も多い。だから、武道・格闘技系の競技関係者は、暴力団にも顔が利くし、警察にも顔が利くし、右翼にも顔が利く」



また、「柔道・剣道は警察のシマ」として、以下のような会話が交わされています。
鈴木 五輪競技ではないけども、暴力団と言えば相撲ですね。
溝口 力士上がりのヤクザは多いですからね、昔から。
鈴木 大学の相撲部からヤクザになるケースだけでなく、ヤクザが自分の息子を親方に「面倒見てください」とお願いして相撲部屋に入れるケースもある。電話1本で頼めるラインがある。ところが、息子のほうは辛い稽古に耐えられず、結局ヤクザになってしまうという。
溝口 暴力団がプロレスの興行を打つことがありますが、相撲も江戸時代以来、興行の扱いで、ヤクザが主催して神社の境内で行なわれていた。テキ屋の高街と一緒で、江戸時代からの歴史があるんです。
鈴木 昔は神社の境内で博奕をやっていて、その横で相撲の興行を開いていた。ちょうどラスベガスのカジノの横でボクシングの世界戦やっているのと同じ。賭場の余興だったんです。人足手配の頭が土俵に上がったりするから、刺青の入ってる力士もけっこういたと言われている。こういった賭場の余興だったとか、力士がヤクザだったとかいった部分がいつのまにかすっ飛ばされて、相撲は「神社でやっていたから神聖な神事だ」ってことになり、国技にまでなった。



第5章「〈ヤクザと教育〉大学教授にはなぜかヤクザマニアが多い」では、鈴木氏が以下のように述べています。
「ヤクザが大学関係者と付き合うメリットはほとんどないが、ヤクザはブランド志向だから、大学教授と付き合いがあるというのはステータスにはなる。暴力団ってパッとお金を貸せる人たちだから、相手が大学教授なら貸すでしょう。あと、チンピラレベルで美人局やっているようなヤクザなら、大学教授は地位も名声もあるからカモにしやすい。東京の超有名私立大学の教授が女子大生と関係を持ったら、実はヤクザが絡む美人局だったんじゃないかと疑われる事件も実際にありました」

 

鈴木氏は10年くらいかけて暴力団員を対象にしたアンケートを取ったことがあるそうです。700件ほど集めたところ、大卒のヤクザは7%弱で40人もいました。今でこそ大学進学率は50%くらいになっていますが、数十年前は2~3割程度だったので、鈴木氏は「ヤクザの世界で7%というのはけっこう高いな」と思ったとか。なにしろ暴力団では一般と価値観が逆転していて、学歴はないほうがいいし、刑務所に入った経験はあったほうがいい。少年院に入っていたらなおいい。そういう世界にしては、意外に大卒が多いなと思ったわけです。

 

六法全書 平成31年版

六法全書 平成31年版

 

 

「無罪を勝ち取った組長」として、会話が交わされます。
鈴木 憲法や法律のことを熟知した組長ってけっこう多いですよね。
溝口 そうですね。ヤクザにとっては法律を勉強するのも仕事の一環と言えます。
鈴木 ヤクザが法律に詳しいのは、何をしたら捕まるか捕まらないかというのをはっきり認識しておかないと、「違法だから逮捕する」と警察に言われたときに戦えないからです。サラリーマンが自社の製品や仕事のマニュアルを勉強するのと同じノリで法律を勉強している。法律を勉強していった先に、憲法にも行き着くんだと思います。
溝口 それと、逮捕されて拘置所や刑務所に入っているとヒマなんですよね。弁護を依頼した弁護士の理論構成に満足できないと、ヒマに飽かせて法律書を読みふけり、自分で弁護の理論を組み立てて、裁判を戦おうとする人もいる。

 

こども六法

こども六法

 

 

また、「武器としての法律」として、鈴木氏は以下のように述べています。
「法律とか人権とかそんな高尚な話ではなくて、ヤクザからしたら、『武器としての人権』であり、『武器としての法律』なんですよね。自分たちの都合の良い人生をおくるための武器で、時と場合によっては法律を破っても捕まらないようにするための武器にして使う。今、憲法改正の議論のなかで、『法律は人を縛るもの、憲法は権力を縛るもの』という考え方があるらしいけど、まさにヤクザにとっての憲法は権力と戦うための武器であって、その意味では先進的なのかもしれません」
最近、ブログ『こども六法』で紹介した本がベストセラーになりました。拙著『儀式論』の編集者である外山千尋さんが手掛けられた本ですが、いじめの被害に遭っている小中学生やその親によく読まれているそうです。法律とは、いじめと戦う武器でもあるのです。

 

また、「ヤクザは左翼系弁護士を頼る」として、鈴木氏は以下のように述べています。
「1992年に暴対法ができて、その後、2004年に、広島県広島市公営住宅の入居資格について『本人とその同居親族が暴力団対策法に規定する暴力団員でないこと』と条例で規定し、全国の暴排条例の元になる条例が誕生しました。それで広島市は、市営住宅に入っている暴力団を追い出すことになって、市と組員の間で裁判になった。このときに『暴力団を理由に一定の条件で排除したとしても差別には当たらない』という判例が出て、暴力団排除の法的実績ができた。それが2010年以降に全国の自治体で暴排条例が生まれていく流れにつながっています」



これについて、溝口氏は次のように述べています。
「暴対法と暴排条例は矛盾しているんですよ。暴対法では、『暴力団とは』という定義づけがあって、『指定暴力団』という定義を設けた。指定暴力団は日本の暴力団のほとんどすべてをカバーする概念ですが、指定暴力団に指定されるとどうなるのかというと、たとえば、用心棒代をとったら中止命令を出し、2度目やったらアウトで罰金100万円、懲役1年未満を科すといったことが決められている。どういうことかというと、暴力団を組織することは憲法の『結社の自由』で認められていて、暴対法という法律そのものが、指定暴力団という形で暴力団の存在を認めているということ。多くの人が誤解していますが、暴力団の結社は違法ではない。暴対法は存在を認めたうえで、こうした行為をしたら懲役や罰金などを科すと規定しているわけです。これがイタリアや香港だったら、マフィアは『結社の自由』の除外規定に該当し、存在自体が認められていません。結社を結ぶこと、加入を呼びかけること、メンバーになること、この3つをすべて禁止している。ここの違いが日本の特殊性と言えます」

 

この問題について、さらに以下の会話が交わされます。
鈴木 暴対法という暴力団対策のための法律によって、逆に、暴力団は法で認められた存在になった。
溝口 そうです。ところが、暴対法で暴力団を認めているにもかかわらず、暴排条例や銀行・不動産業などの「暴力団排除要綱」では「利益供与禁止だ!」と言って、暴力団組員とわかっている者を雇用してはいけないとか、事業の契約、金銭の貸し借りを禁じるとか、公営住宅には入居させないとか、賃貸契約の拒否や解除ができるとか、暴力団と関わりのある会社は公共工事には参加させないとか、暴力団組員の生存権に関わるような規定がされています。暴排条例は、実質的に暴力団の存在を否定しているのです。鈴木 だから、暴排条例は、法律より一段低い条例にするしかなかった。法律にはできないんですよね。
溝口 ダブルスタンダードになりますからね。

 

法の下の平等がない」として、溝口氏はこう述べます。
「今ヤクザに対しては『法の下の平等』が全然ないんですよ。彼らが言いたいことはよくわかる。現状はあまりにも酷い。殴られて、殴られっぱなしになっている。情けないのはヤクザの側で、これだけ突っ込みどころのある暴排条例に対して、ちょっと声を上げただけで、すぐに引っ込めて長続きしないことですよ」
「要するに彼らは言い出しっぺだけで、この問題を心得ていない。生存権に関わってくる状況なのに、何もしていないでしょ。もはや末端の組員のセーフティネットは刑務所だけになっている。刑務所に入れば、とりあえず本人の衣食住は保障される。だけど、女房・子供の分までは出ないから、お前らは勝手にやってくれよとなる。だから、離婚するヤクザはすごく多い。上の人間は現状でも食えているが、下の人間は苦しんでいるということです。『法の下の平等』とかもっともらしいことを言うけど、下の人間の生活を見ていないから、生活感がない」



第7章「〈ヤクザとメディア〉闇営業反社側が追及されない理由」の冒頭を、鈴木氏は以下のように述べています。
「今年の6月に、カラテカ・入江慎也の紹介で、宮迫博之田村亮など吉本芸人が特殊詐欺グループの忘年会で闇営業をしていたことがわかり、大問題になりましたが、テレビや新聞におけるヤクザ報道というのが決定的に変わったと思いますね。暴排条例以降のヤクザのニュースって、ヤクザが主役の「抗争」ではなくなってしまったんですよ。ヤクザは表に出てはいけない人たちになって、その裏世界の人間と芸能人やスポーツ選手や政治家が接点を持ってしまったということがニュースになるように変質してしまった。接触した有名人のほうにスポットが当たるようになっている」



もともと、かつてヤクザと芸能界が深い仲であったことは誰でも知っています。「黒い交際なんてみんな知っていた」として、溝口氏は「昔は当たり前でしたからね。ヤクザ映画が華々しかった頃はね、『ヤクザと付き合わずにヤクザ映画に出演できるか』というような気風があったみたいよ。しかしながら、俳優がみなヤクザ映画に出るわけでもないし、自分からわざわざ近づいていったというより、もっと、なんていうかな、盛り場に遊びに行ったら、ヤクザに『ようようよう』と呼ばれて、『お前の今日の勘定持ってやるよ』と言われて、すっかりゴチになったぜ、みたいな、そういう話だと思うんだ、もともとは。要するに、彼らは遊び場が一緒なんです」と述べています。


 

 

鈴木氏も、ヤクザと芸人の関係について述べています。
上岡龍太郎が昔の番組でしゃべっていた内容がネットで話題になっていて、ヤクザと芸人は同種の人間だと。『腕が達者なのがヤクザで、口が達者なのが芸人で、根っ子は目立ちたがりで同じだ』と。けっこう鋭いところを突いている。だから、ヤクザと芸人はすごくつながりやすいし、強い男に対する憧れも同じように持っているということ」
それにしても、「腕が達者なのがヤクザで、口が達者なのが芸人」とは、上岡龍太郎もうまいことを言いますね。さすがです!

 

「おわりに」では、溝口氏が以下のように述べています。
「ヤクザ、暴力団の勢力が全国おしなべて縮小していることに明らかだが、ヤクザは分裂しつつ縮小している。おそらく全国主要都市に勢力を扶植する広域暴力団が時代に合わなくなってきたのではないか。取り締まりと法律でがんじがらめにされ、抗争することがほぼ不可能になった時代に『大』は必ずしも『強』ではなく、他団体を吸引する力にはならない」



令和の時代のヤクザはどうなるのか?
溝口氏は、以下のように述べています。
「これからのヤクザは地域に根ざし、地域に密着した小団体でなければ、生き残りは難しい。ヤクザ、暴力団は地域や警察に対して融和的でなければ生き残れない。他方、ヤクザ、暴力団をしのぐ勢いで半グレ集団の暗躍が目立っている。警察はその勢力や参加メンバーを把握していず、特殊詐欺の被害額などから、わずかに彼らの増殖を推測しているに過ぎない。半グレがヤクザに比べて人数が多いのか少ないのか、その1人当たり稼ぎ額がヤクザより多いのか少ないのか、ほとんど何もわかっていない。単に彼らの犯罪による被害額の一部が統計により明らかにされているだけだ。たとえば2018年、彼らによる特殊詐欺被害額は356億8000万円に及んだ。半グレ集団は特殊詐欺以外にも新しいシノギを創出している。金のインゴット密輸、ビットコインの販売やマイニング(掘削)、少し前には危険ドラッグの製造と販売、そして2003年頃オレオレ詐欺などの特殊詐欺を考案、以後一貫して実行し、太い資金源としてきた」



では、ヤクザと半グレはどう違うのか?
溝口氏は、以下のように述べています。
「ヤクザは暴力的にはともかく、経済的には半グレに押されている。半グレはもともとヤクザの親分―子分関係には従えないとするグループである。ヤクザに接近すると、ヤクザからたかられるだけと警戒する者たちだから、基本的に両者は別立ての犯罪集団である。だが、ヤクザの零細化につれ、ヤクザからさえも脱落する元組員たちを吸収する受け皿にもなる。少数だが、逆に半グレからヤクザに移籍する者もおり、一部で両者の混ざり合いが見られる。ヤクザ、暴力団は犯罪という闇に足を置きつつ、半分だけ社会に認められている存在だった。世間に認められてナンボの『半社会的』存在なのだ。対して半グレは凶悪犯罪をあまり手掛けず、詐欺などの経済犯罪を専門にしながらも、とにかく世間に隠れて犯罪をシノギとする『アングラ』の存在である。半グレはシノギ以外の分野では法的に堅気であり、よって暴対法も暴排条例も適用されない」



そして、溝口氏は以下のように述べるのでした。
「江戸期以来、日本に存在したヤクザは男伊達を売る『半社会的』存在だった。『何某組』と堂々看板を掲げる犯罪組織は他の国にはなかった。その意味でヤクザは特殊日本型の犯罪組織として独自の存在だった。それが今、消滅に近づいている。その後にアングラ化した半死半生の犯罪グループが残る可能性がある。こうした状態は日本の裏社会が特殊日本型の犯罪組織を失い、遅ればせながら諸外国並みになったともいえよう。ヤクザのアングラ化は必ずしも恐るべきことではない」

 

このブログの冒頭に書いたように、わたしが住む北九州市は「ヤクザ」のイメージが強かった時期がありました。田川をはじめとする筑豊も「ヤクザ」のイメージが強いですが、こちらもわが社の営業エリアです。よく、「北九州や筑豊で商売をされていると、因縁をつけられたり、トラブルになったりしませんか?」などと聞かれますが、そんな経験は一度もありません。わたし自身、もう30年以上も小倉の夜の街で飲み歩いていますが、それらしき人に会ったこともほとんどありません。一度だけ、雨がしとしと降る日に、目つきの悪い奴から「どこの組の方ですか?」と言われましたが、わたしは「意味がわからんのお」と言って、そいつを睨みつけてやりました。正直、わたしはたくさん酒を飲むと、気性が荒くなる時があります。もしかすると飲んでいるときの自分はヤクザに近いオーラが出ているのでしょうか。

 

そういえば、最近、小倉の街に増えた半グレ風の呼び込みが執拗に客を勧誘することで問題になっているようですが、わたしはなぜか一度も勧誘されたことはありません。よく彼らと目は合うのですが、なぜか先方が視線を逸らします。そのことを妻に言うと、「きっと、あなたがヤクザに見られてるのよ!」と言うのですが、行きつけの酒場のママさんなどは笑いながら「こんな上品なヤクザがいるもんですか!」と言ってくれます。わたしのことはどうでもいいとして、ただでさえこれまで遭遇しなかったヤクザなのに、これからますます会う機会はなさそうですね。まあ、それに越したことはありませんが・・・・・・。

 

2019年11月4日 一条真也