人生を修めるための「修活」のすすめ

一条真也です。
10月になりました。
1日の朝、サンレー本社で行われる月初の総合朝礼と北九州本部会議に参加します。この日は、WEB「ソナエ」に連載している「一条真也の供養論」の第15回目がアップされます。タイトルは、「人生を修めるための『修活』のすすめ」です。

f:id:shins2m:20190930151325j:plain「人生を修めるための『修活』のすすめ」 

 

わたしが監修した『修活読本』(現代書林)という本が出版されました。「人生のすばらしい修め方のすすめ」というサブタイトルがついています。
人生は100年という時代を迎えています。その流れの中で、「終活」という言葉が今、高齢者にとって大きなテーマになっています。終活とは、「終末活動」を縮めたものです。つまり「人生の最期をいかにしめくくるか」ということであり、実は人生の後半戦の過ごし方を示した言葉ではないことには、注意が必要です。では、「いかに残りの人生を豊かに過ごすか」ということに目を向けたとき、わたしは人生の修め方としての「修活」という言葉をご提案しています。

 

考えてみれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないかと思います。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活なのです。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。これが、わたしのご提案する「修活」です。わたしは、かつての日本は美しい国だったように思います。しかし、逆にいまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りにし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてしまうことが多々あります。それは、戦後の日本人が「修業」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。

 

誰にでも「老」の次には「死」がやってきます。死を考えないのではなく、「死の準備」をしなければなりません。そもそも、老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。
究極の「修活」とは何か。それは、自分なりの死生観を確立することではないでしょうか。死は万人に等しく訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。

 

一般の人が、そのような死生観を持てるようにするには、どのようにしたらよいでしょうか。わたしがお勧めしているのは、読書と映画鑑賞です。同書では、死の不安を克服して、死と向き合い、そして死者と対話するためのヒントとなる本や映画も紹介しています。豊かな死生観を持ちながら健康寿命を延ばし、生き生きとした人生の後半戦を過ごすために、「終活」から「修活」への転換が求められます。ぜひ、『修活読本』をご一読、ご活用下さい。

 

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

修活読本 人生のすばらしい修め方のすすめ

 

 

2019年10月1日 一条真也