『蔵書一代』

蔵書一代―なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか

 

一条真也です。
『蔵書一代』紀田順一郎著(松籟社)を再読。
「なぜ蔵書は増え、そして散逸するのか」というサブタイトルがついています。著者は1935年横浜市生まれの評論家・作家。慶應義塾大学経済学部卒業。書誌学、メディア論を専門とし、評論活動を行うほか、創作も手がけます。『幻想と怪奇の時代』(松籟社)により、2008年度日本推理作家協会賞および神奈川文化賞(文学)を受賞。

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本書の帯

 

本書の帯には「全ての愛書家・蔵書家に捧ぐ」として、以下のように書かれています。「やむをえない事情から3万冊超の蔵書を手放した著者。自らの半身をもぎとられたような痛恨の蔵書処分を契機に、『蔵書とは何か』という命題に改めて取り組んだ。近代日本の出版史・読書文化を振り返りながら、『蔵書』の意義と可能性、その限界を探る」

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、「・・・・・・あと三ヶ月ほどで移転という時期に、私を書棚のまえで逡巡させたものは、一に『最期の蔵書』とは何だろうかという、自らへの問いかけであったといえる。仕事の本、趣味の本などという分類は二の次で、人生の決算期に『最期の蔵書』(あえていえば)『臨終の本』を含まないようなセレクションは意味がないのではあるまいか・・・・・・(本書より)」と書かれています。

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

 序章 〈永訣の朝〉

第1章 文化的変容と個人蔵書の受難

第2章 日本人の蔵書傾向

第3章 蔵書を守った人々

第4章 蔵書維持の困難性

「参考文献」

「あとがき」

「著者年譜」

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わが書斎の紀田順一郎コーナー

 

ブログ『学問こそが教養である』で紹介した渡部昇一氏の講演録を紹介したら、本書のことを思い出して再読しました。「教養」の問題は「読書」、そして「蔵書」と切っても切り離せませんが、わたしにとって読書家あるいは蔵書家といえば、渡部氏と並んで本書の著者である紀田順一郎氏の名前がすぐに浮かんだからです。ブログ『知的生活の方法』で紹介した渡部氏の大ベストセラー&ロングセラーと並んで、わたしが愛読したのが紀田氏の『現代人の読書』(三一新書)でした。1964年初版ですが、わたしは1977年の増補版を読みました。その後、『読書の整理学』(竹内書店、のちに朝日文庫)、『書物・情報・読書 』『本の環境学』(以上、出版ニュース社)、『現代人の読書術』(毎日新聞社)、『現代 読書の技術』『続 読書の技術』『知性派の読書学』(以上、柏書房)『日本の書物』『世界の書物』(以上、新潮社)、『読書人の周辺』(実業之日本社)などを夢中になって読みました。

 

幻想と怪奇の時代

幻想と怪奇の時代

 
幻島はるかなり

幻島はるかなり

 

 

わたしは知的生活の総論を渡部氏に、各論を紀田氏に学んだと思っています。紀田氏の一連の読書関連の著書に書かれた読書法、情報整理法はそのまま真似しましたし、本の最後などに収録されていたブック・リストを片っ端から読んでいきました。紀田氏はかの荒俣宏氏の師匠でもあり、雑誌「幻想と文学」を立ち上げ、創元社のブックス・メタモルファス、『世界幻想文学大系』(国書刊行会)などの生みの親でもありました。景気幻想文学のみならず、内外のミステリにも造詣が深く、その分野の著書には『幻想と怪奇の時代』『幻島はるかなり』(ともに松籟社)という名著があります。

 

さらに紀田氏は書物だけでなく、映画フィルムのコレクターでもあり、『映画コレクション入門』(海燕書房)や『古典映画ロードショー』(双葉社)などの著書もあります。その本と映画に囲まれた紀田氏の生活は、高校時代のわたしの大きな憧れでした。本書には、そんな稀代の蔵書家であった紀田氏が80歳を超え、年齢にふさわしい利便なマンション暮らしを老妻とともに選択することから起こった悲喜劇が綴られています。

 

序章〈永訣の朝〉の冒頭には、「いよいよその日がきた。――半生を通じて集めた全蔵書に、永の別れを告げる当日である。砂を噛むような気分で朝食をとっていると、早くも古書業者のトラックが到着し、頭に手ぬぐいをかぶった店員が数人、きのうまでに梱包作業を終えていた約3万冊の書物の搬出にかかった。仕向先は古書市場である。まことにやむをえない。老妻とともに旬日後に移転する予定の、シニア環境としての手狭なマンションには、3万冊になんなんとする蔵書は到底収容しきれない。12畳の書斎と10畳半の書庫はガランガランとなり、私はその空洞から目をそむけた」と書かれています。

 

ただし、蔵書を一挙にゼロにすると精神状態に自信が持てなかった著者は、以下のように書いています。
「いくら老い先短いとはいえ、今日明日にもお陀仏となるわけではあるまい。人生そう簡単に線引きできないところが老後の悩みで、解決策としては別れるに忍びない本を約600冊、新居に連れていくしかなかった。たったこれだけを60年代に流行したスライド式書架2台に収め、新居の狭い2部屋に運びこもうという算段である。案のじょう妻からは『床が抜けたら、マンションの資産価値が下がりますよ』などと猛反対を受けたが、ここが土俵際の凌ぎどころと、もっともらしく構造式や重量計算式などを並べ、かろうじて説得に成功した」


わが実家の書庫に並ぶ『古事類苑』

 

それにしても、マンション暮らしをするために3万冊もの蔵書をわずか600冊に減らす必要があるとは。そして、その600冊さえ妻に嫌がられるとは・・・・・・なんとも切ない話ですね。膨大な蔵書との別れのようすを、著者はこう書いています。
「書棚に次々と訣別の×テープを貼っていった。『古事類苑』や『広文庫』をはじめ日本の百科事典史の集約のようなコーナーにも、目をつぶって×をつけた。物書きとしての情熱を喚起してくれた吉田東伍の『大日本地名辞書』や齋藤秀三郎の『齋藤和英大辞典』など、日本の辞典出版を切り開いたモニュメントの棚にも、特大の×印を付した。もはやヤケであった」
ここに名前の出てくる『古事類苑』『広文庫』『大日本地名辞書』『齋藤和英大辞典』は、すべて著者の書いた本によってその存在を知り、わたしが高校時代に父にねだって買ってもらったものばかりです。これを読んで、非常に複雑な気分になりました。

 

また、著者は以下のようにも書いています。
「最後まで迷ったのは1000冊に近い洋書であった。その大部分は幻想怪奇文学であり、仕事というよりも半生におよぶこだわりのテーマであるが、私自身の価値観は別として、そもそも日本では洋書の需要先が学校回りに限定され、公共図書館や文学館は頭から引き取らないし、一般読者向けのマーケットもきわめて小さいというのが現実だ」
その翌日、梱包した蔵書をトラックに積み込んだ後、著者は述べています。
「リビングの隅で、がらんどうの書棚をぼんやり眺めているうちに、若いころ読書論に得々と引用した『書籍なき家は、主なき家のごとし』というキケロのことばが、実感をもって甦ってきた。ろくすっぽ家具もなく、50年以上本のほか何ひとつ買い揃えることのなかった家である。その本を失えば、主人どころか家そのものが空洞となるほかはない」

 

第1章「文化的変容と個人蔵書の受難」では、「いずこも同じ、本とのバトル」として、著者は「それにしても迂闊な話である、と人はいうだろう――何千、何万という書籍を集め、それも固定的な飾り物ではなく、ふだんに増殖し、あふれ出そうとする厄介なしろものを、体力、経済力とみに衰えるべき人生のドン詰まりまで持ちこたえようとするのは土台無理なのだ。私自身、それが不可能なことは疾うにわかっていた。わかっていながら、事態が少しでも好転しないものかと、淡い希望を保ちつづけていたのである」と述べています。

 

その希望とは、書棚を収容できる広いスペース(土地建物)と、それを購入できる金銭であるとして、著者は以下のように述べます。
「かりに1万冊の書籍を、かつて標準とされた高さ1.85メートル、間口0.8メートルほどのスチール製書棚に天板まで目いっぱいに載せるとすれば、約40本を要する。これを図書館などの書庫ではなく、現今の一般住宅の中に配置しようとすれば、6畳間換算で4部屋は必要だろう。無論、重量分散や機能性(見やすい配列)をも考えに入れなければならないから、その倍は見ておいたほうがよい」
著者の蔵書は3万冊ですから、スチール本棚120本、6畳間120部屋分が必要なわけです。1997年、著者は岡山県吉備高原に、本の収蔵を主目的としたセカンドハウスを建て、田舎暮らしを始めます。そこで、蔵書の理想的な収納、移住先での執筆の依頼、さらには妻の満足も得られて、平和な数年間を過ごします。しかし、2011年に医療や移動に不安を感じ始め、東京へ撤退し、縮小した暮らしを決意するのでした。

 

「古書界を襲った大変動」として、1960年代に最盛期を迎えた古書業界がその後2、30年という歳月が経過して、思わざる文化の変容を生みだしたと指摘し、著者は以下のように述べています。
「社会の基層が活字による論理的思考や成長よりも、映像による直感的理解や感性の発揮に移行した結果、本を読まない人が増え、したがって本が売れないという事態が生じたのである。その結果、客観的評価の定まった資料、刊行後一定の年数を経た古書籍までが一様に『売れない』『捌けない』『人気がない』という理由で、流通市場から冷遇される傾向が年々強くなってきた。もとより、類書のない権威書や辞書類から客観的価値が失せたのではないが、それとは別の市場価値や流通の効率性のほうに評価の重点が置かれるようになった」

 

そんな著者は、「蔵書の断捨離を考える」として、「いまさら気がついたのではないが、およそ本というものは段ボール箱に詰めたらおしまいなのだ。これを経験している蔵書家は、本だけを背表紙が見えるように積み上げる。そのかわり崩落する危険性はあるが、やむをえない」と述べ、さらには「若いときは気がつかないが、およそ蔵書量が幾何級数的に増え続けるのに対し、所蔵者の体力は年齢相応に算術級数的に衰える。蔵書の増加のほうは抑制がきかず、体力のほうは維持がむずかしい。どこかで折り合いをつけないことには、むざむざ無意味な散逸を招く結果となるのは知れている。私がはじめて蔵書の大部分についての“断捨離”を考えはじめたのも、ちょうどこのころであった」と述べるのでした。

 

第2章「日本人の蔵書志向」では、「名だたる昭和の蔵書家」として、「この10年ほどの間に物故した著述家や知的活動家の蔵書数は、戦前知識人の規模をはるかに超えるものがある」と指摘し、以下のような事例を紹介します。
井上ひさし(1934~2010)の蔵書数14万冊といわれるが、生前から故郷の山形県川西町の図書館へ段階的に寄贈し、『遅筆堂文庫』と名付けた。同市はこの文庫と図書館を中核にした複合文化施設を建設している」
「書誌学者谷沢永一(1929~2011)の蔵書は13万冊といわれたが、生前から関西大学図書館に寄贈を行い、一部稀覯書は『谷沢永一文庫』として収蔵されている。そのほかの蔵書は生前に整理された」

 

わたしが敬愛してやまなかった山口昌男渡部昇一両先生のことも紹介されています。
山口昌男(1931~2013)の蔵書はとにかく膨大なため、正確な数は本人にも不明であったし、また知る気もなかったようだ。自宅には到底収まらないので、福島の廃校になった小学校を買い、それぞれの教室を書庫にしたという話もあるほどだ。それでいて、どこに何があるかを掌を指すように記憶し、研究室の山積みの蔵書についても、海外出張中に必要になると、電話で『何番目の山の何冊目の何ページを引用するから探せ』といった指示を出していたというから驚く」
渡部昇一(1930~2017)は巨大な書庫に15万冊を擁していた。書庫の建設費は77歳にして借り入れた数億円の銀行ローンという、他を圧するスケールである」

 

この他にも数人の事例が紹介されていますが、いずれも蔵書の散逸を避けることに成功した幸運な事例ばかりです。著者も自身の蔵書を散逸させまいとあれこれと打診しましたが、引きうけてくれる公的機関はありませんでした。かつては蔵書家が亡くなれば公立の図書館や大学が引き取って貴重な文化遺産として活用したものでした。しかし、現在では公立図書館はどこも予算削減に見舞われ、保有図書の維持管理で手一杯です。学者や研究者が所持している資料は、一般利用者からはほとんど需要がないために無用のものとして迷惑物件扱いだそうです。かつて貴重な蔵書を寄贈した著名人のコレクションが、遺族の了解もなく散逸した例さえあるといいます。

 

「出版ブームの終焉と蔵書の変貌」として、著者は「1991年にバブルの崩壊がはじまり、その5年後から出版不況がはじまった。それまで不況に強いといわれ、最低でも年5%の成長が見られた書籍・雑誌の売り上げが急に下落し、その後現在まで回復できず、ついに半分の規模になってしまうという事態となった。この重要な分岐点となった1995年にウィンドウズ95が導入されたという指摘もあったが、要するに活字文化がネットに移行してしまい、知識情報の獲得手段としての活字の力が、加速度的に衰えてきたということであろう。往昔の“ものの本によれば”から“グーグルで検索すれば”(ググれば)に一変したのである」と述べます。

 

岡山から東京に戻り、貴重な蔵書3万冊を「生前整理」した著者ですが、蔵書を載せた4トントラック2台が去っていくのを見たときのようすを次のように書いています。「その瞬間、私は足下が何か柔らかな、マシュマロのような頼りのないものに変貌したような錯覚を覚え、気がついた時には、アスファルトの路上に俯せに倒れ込んでいた。『どうなさったんですか? 大丈夫ですか?』 居合わせた近所の主婦が、大声で叫びながら駆け寄ってくる。『いや、何でもありません。ただ、ちょっと転んだだけなんです』 私はあわてて立ち上がろうとしたが、不様にも再び転倒してしまった。後で聞くと、グニャリと倒れたそうである。小柄な老妻の、めっきり痩せた肩に意気地なくすがりつきながら、私は懸命に主なき家へと階段をのぼった」

 

本書は、わたしをはじめ本を愛する者たちにとっては悲哀に満ちた内容であると言えます。書籍や新聞など日本人の「活字離れ」は深刻です。それは大学教育における理系偏重、結婚式や葬儀を軽視する「儀式離れ」にも通じるものだと思います。つまり、それらは日本の文化の衰退、知的活力の枯渇の道へとつながるものなのです。長年にわたって日本人の「活字離れ」に警鐘を鳴らし続けてきた著者の苦闘は涙なくして読めませんでした。


わが実家の書庫のようす

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現在のわが書斎のようす(スーパー・カオス!)

 

ちなみに、ブログ「実家の書庫」で紹介したように、わが実家には2010年当時で7万冊、現在は8万冊以上の蔵書があります。また、ブログ「わが書斎」で紹介した自宅の書斎や書庫には約2万冊の蔵書があります。わたしは、HPで「書斎公開」として、すべてをお見せしています。わが書斎は、実家の父の書斎とリンクしているのですが、自分としては敬愛する三島由紀夫渋澤龍彦の書斎をイメージしてデザインしました。しかし、現在では本もオブジェも増えすぎて、完全なカオス状態になっています。親子合わせて10万冊もの蔵書を保てているわたしたちは「蔵書二代」ということで幸せなのでしょうが、この先どうなるかは油断できませんね。

 

 

 2019年6月15日 一条真也