「ある少年の告白」

一条真也です。
ゴールデンウィークはどこへも行かずに、新著の執筆&わが社の施設めぐりに励んでいます。2日は買い物に出たついでに映画「ある少年の告白」を観ました。令和になって最初に観た映画ですが、とても重く、暗い内容でした。

 

ヤフー映画の「解説」には、こう書かれています。
「ガラルド・コンリーの著書を原作にした、同性愛の矯正を強いられた青年を描く人間ドラマ。主演は『マンチェスター・バイ・ザ・シー』などのルーカス・ヘッジズが務め、彼の両親をニコール・キッドマンラッセル・クロウが演じるほか、グザヴィエ・ドランシンガー・ソングライターのトロイ・シヴァン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーらが共演。『ラビング 愛という名前のふたり』などの俳優ジョエル・エドガートンが長編2作目のメガホンを取った」

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ヤフー映画の「あらすじ」は、以下の通りです。
アメリカの田舎町で育った大学生のジャレッド(ルーカス・ヘッジズ)は、あることがきっかけで自分が同性愛者だと気付く。息子の告白に戸惑う牧師の父(ラッセル・クロウ)と母(ニコール・キッドマン)は、“同性愛を治す”という転向療法への参加を勧める。その内容を知ったジャレッドは、自分にうそをついて生きることを強制する施設に疑問を抱き、行動を起こす」

 

この映画は、LGBTQをテーマにしています。少し前まで「LGBT」と呼ばれていた言葉にいつの間にかQがついて「LGBTQ」になりました。朝日新聞掲載「キーワード」によると、「レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー(生まれた性と異なる性で生きる人)、クエスチョニング(性自認性的指向を定めない人)の頭文字をとっている。Qは性的少数者の総称を表す「クィア」という意味でも使われている」そうです。「ある少年の告白」は、同性愛の矯正施設に入れられた少年の悲劇が描かれています。わたしはあまりこの問題に詳しくないのですが、現在、『ハートフル・ソサエティ2020』という本を執筆しており、その参考になる予感がして観ました。

 

現在、性的志向ジェンダーアイデンティティに対する理解が浸透してきました。しかし、それらを治療によって変えてしまおうという施設が存在するといいます。驚くべき事実ですが、さらに驚くのは、アメリカでは未だに36州がその施設の存在を禁止していないことです。多くのLGBTQの若者たちが保護者によって無理やり入所させられているのです。「ある少年の告白」の原作者であるガラルド・コンリーもそうでした。ルーカス・ヘッジズ演じる主人公ジャレッドのモデルはガラルド・コンリーその人です。

 

LGBTQを描いた映画といえば、やはり、ブログ「ボヘミアン・ラプソディ」で紹介した映画を連想しますね。「ボヘミアン・ラプソディ」の主人公であるフレディ・マーキュリーは同性愛をはじめ、あらゆる差別と闘ってきました。その情念はクイーンの名曲「伝説のチャンピオン」に最もよく表現されています。この曲のシングルが発売された当時は「歌詞のチャンピオンというのは自分たちのことを指し、自分たちが世界一だと思い上がっているのではないか」と批判されたそうです。

 

しかしながら、後にクイーンのブライアン・メイは「この曲は自分たちをチャンピオンだと歌っているのではなく、世界中の1人ひとりがチャンピオンなのだと歌っている」と反論しています。どんな差別や迫害を受けても、「自分たちこそ勝者である」と高らかに歌い上げるこの曲は、まさに人類讃歌そのものです。「伝説のチャンピオン」が映画の中で流れたとき、わたしは感動のあまり涙が止まりませんでした。

 

「ある少年の告白」のジャレッドの父親はラッセル・クロウが演じていますが、彼はキリスト教福音派の牧師です。この福音派が同性愛を認めません。アメリカ合衆国福音派は、世界教会協議会(WCC)のエキュメニズム自由主義神学(リベラル)、新正統主義を否定しますが、キリスト教根本主義ファンダメンタリズム)にも同意できない福音主義の立場によって形成されました。ローザンヌ誓約において福音派は宣教を福音伝道と社会問題に分けて、伝道の優先性を強調しながらも、救いが全人格的なものであると認めています。2009年には正教会アメリカ正教会など)、カトリック教会、福音派の指導者が共同で、「マンハッタン宣言」を発表し、人工妊娠中絶、同性愛といった罪に抵抗すると宣言しています。

 

アメリカの福音派の問題点を描いた映画としては、現在日本公開中の「魂のゆくえ」(2017年)があります。ミニシアターでしか上映されていないので、わたしはまだ観ていません。監督・脚本は、「タクシードライバー」「レイジング・ブル」「ザ・ヤクザ』などの傑作を手がけた脚本家として知られ、「アメリカン・ジゴロ」も監督したポール・シュレイダーです。彼が構想50年の末に完成させた「魂のゆくえ」は、戦争で失った息子への罪悪感を背負って暮らす福音派の牧師が登場します。彼は、自分の所属する教会が社会的な問題を抱えていることに気づきます。そして徐々に信仰心が揺らぎはじめ、諦念と怒りで満ちていく様子が描かれているそうです。ぜひ観たいですね。

 

宗教といえば、「ある少年の告白」を観て、わたしはブログ「ザ・マスター」で紹介した2012年のアメリカ映画を思い出しました。アメリカの新興宗教であるサイエントロジーの内幕映画ということで話題になりました。「ザ・マスター」に登場する教団のカウンセリングも、「ある少年の告白」に登場する同性愛の矯正施設のカウンセリングも、どちらの場面でも、しつこいぐらいに同じセリフが繰り返されて、観ているこちらの精神までおかしくなりそうでした。一言でいって不快な映像であり、音声でした。論理も一貫しているとは言い難く、まさに「不条理」な場面が延々と続くのです。このような映像を観客に見せることで、監督は人生の不条理さ、人間の不可解さを示したかったのでしょうか。

 

「ある少年の告白」には、LGBTQや信仰の他にも、大きなテーマがあります。それは父と子の対立、つまるところ「父性」の問題です。「ある少年の告白」だけでなく、「ザ・マスター」のテーマも「父性」ですが、サイエントロジーの教師も同性愛の矯正施設の指導官も、信者や患者にとっては自分を救ってくれる父親そのものでした。そして、アメリカ映画の本質とは父親を描くことにあるのです。それはブログ『キネマの神様』で紹介した原田マハ氏の小説に登場する日米の映画ブロガーのやりとりでも、この点が最大の焦点となります。「フィールド・オブ・ドリームス」をはじめとしたアメリカ映画から「父親」というメインテーマを論じる日本人のゴウに対して、恐ろしいくらいに映画を知り尽くしているアメリカ人ローズ・バッドは、「どうやら君たち日本人は、我々アメリカ人の心の奥に柔らかく生えているもっとも敏感で繊細な『父性への憧れ』という綿毛を逆撫でするのが趣味らしい」と書き込みます。

 

キネマの神様 (文春文庫)

キネマの神様 (文春文庫)

 

 

そして、その正体を知れば映画関係者なら誰でも驚くというローズ・バッドは、次のようにアメリカ映画の本質について述べるのです。
アメリカにおける父性の問題は、しばしば製作者の大いなるコンプレックスとしてスクリーンに現れることがある。スティーブン・スピルバーグにとっても、長いあいだ関心を寄せるテーマのひとつだった。彼は、『フィールド・オブ・ドリームス』と同年に公開された『インディ・ジョーンズ 最後の聖戦』においてすら、このやっかいなお題目を取り上げようとした。後年になってからも、『ターミナル』でその片鱗が垣間見られる。トム・ハンクス演じる主人公がなんとしてもアメリカにやってこなければならなかったのは、父親が固執するジャズメンのサインを手にするためという、なんとも荒唐無稽で馬鹿げた理由だった。アメリカ人でもない男が、父親のためにすべてを賭けてアメリカに入国するという理由を捻出したあたり、スピルバーグの父性への執着が垣間見られて滑稽ですらある。ちなみにティム・バートン監督の『ビッグ・フィッシュ』の製作にも『父と息子の和解』を求めてスピルバーグは触手を伸ばしたともいう。『父性』のテーマには大監督すらおろおろと落ち着かなくなってしまうものなのだ」(文春文庫『キネマの神様』p.198~199)

 

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

映画は父を殺すためにある―通過儀礼という見方 (ちくま文庫)

 

 

「父性」といえば、ブログ『映画は父を殺すためにある』で紹介した本を書いた宗教学者島田裕巳氏はアメリカ映画が父と息子との関係を繰り返し描くことを指摘しています。そして「映画とは父殺しの通過儀礼である」という結論に至るのですが、じつは島田氏の専門である宗教学の世界においても新興宗教における教祖と信者の関係はまさに父子の関係であると言えるでしょう。あのオウム真理教にしても同じです。その意味で、キリスト教福音派の牧師の父親と同性愛者の息子との対立を描いた「ある少年の告白」は、まさに「父性」をテーマにしたアメリカ映画の王道的作品なのかもしれません。

 

それにしても、ジャレッドの父親を演じたラッセル・クロウがブクブクに太っているのには驚きました。彼以外にも「ある少年の告白」に登場する教会関係者たちはみな見事な肥満体形でした。監督のジョエル・エドガートンは、何か福音派に対して言いたいことがあったのでしょうか。それに比べて、ニコール・キッドマン演じるジャレッドの母親はスタイルも良く、ファッショナブルで綺麗でした。その美しい母親は、最後は息子を信じて、彼を施設から救い出します。やはり、世間体を気にする父親と違って母親というのは徹底的に子の味方なのですね。いつの時代でも、どこの国でも、母は、自らのお腹を痛めて産んだ子どもを必死で守ろうとするのです。

 

わたしは、プロレタリア文学を代表する『蟹工船』を書いた作家の小林多喜二の母親の話を思い出しました。多喜二が処刑されたとき、母は5分間の面会のために北海道の小樽から駆けつけました。ほとんど文盲であったにもかかわらず、面会の最後に、「おまえの書いたものは1つも間違っておらんぞーッ。お母ちゃんはね、おまえを信じとるよーッ」と叫んだそうです。多喜二は、「母親に信じてもらった人間は天国へ行ける」と言い残して死んでいったといいます。
「ある少年の告白」のエンドロールでは、ジャレッドのモデルである原作者ガラルド・コンリーとその両親の実際の映像が流れるのですが、母親がなんとニコールばりの美人でした。この映画を観て、そのことが一番の驚きだったかもしれません。

 

2019年5月3日 一条真也