『天皇メッセージ』

天皇メッセージ

 

一条真也です。
いよいよ「平成」も残すところ、あと1日。
本日4月30日は、今上陛下の「退位の日」です。
万感の思いで、『天皇メッセージ』矢部宏治[著]、矢部慎太郎[写真](小学館)を紹介いたします。著者は1960年、兵庫県生まれ。慶応大学文学部卒業後、株式会社博報堂マーケティング部を経て、1987年より書籍情報社代表。主な著書に、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(ともに集英社インターナショナル))、『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』『知ってはいけない2 日本の主権はこうして失われた』(ともに講談社現代新書)など。

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本書の帯

 

本書の帯には「『戦争をしない国 明仁天皇メッセージ』増補改訂版」「天皇・皇后両陛下がのこされた32の言葉を美しい写真とともに紹介する国民必読の書」「あなたは天皇・皇后両陛下の言葉に耳を傾けたことがありますか?」と書かれ、カバー前そでには「込められた思い。たくされた祈り。」とあります。 

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本書の帯の裏

 

帯の裏には、以下のような言葉が紹介されています。
「石ぐらい投げられてもいい。 そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい」

――明仁皇太子、1975年。沖縄訪問を前に。

「普通の日本人だった経験がないので、 何になりたいと考えたことは一度もありません。 皇室以外の道を選べると思ったことはありません」

――明仁皇太子、1987年。アメリカの報道機関からの質問に対する回答。

「だれもが弱い自分というものを 恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている」
――美智子皇太子妃、1980年。46歳の誕生日会見より。

 

本書の「目次」は、以下のようになっています。

「はじめに」
1章 I Shall  be  Emperor

2章 慰霊の旅・沖縄

3章 国民の苦しみと共に

4章 近隣諸国へのメッセージ

5章 戦争をしない国

6章 美智子皇后と共に

7章 次の世代へ

「あとがき」

 

「はじめに」で、著者は「みなさんは、『偉い人』って、どんな人だと思いますか?」と読者に問いかけ、頭がいい、社会的地位が高い、お金をもっている、家柄が良い、たくさん人を使っているなどの例をあげた後で、自分は長年、本を作るという仕事をしてきたからか、少し違った見方をしているとして、以下のように述べます。
「ちょっとだけ想像してみてください。アメリカ大統領と連続殺人犯が、本屋の店頭でとなりに並んで1対1の勝負をする。それが単行本の世界です。たとえていうと、どんな選手もトランクスひとつでリングにあがるボクシングと同じ。肩書はまったく関係がない。そこで問われているのは、ただただパンチの強さ、つまりその本がもつメッセージの輝きだけなのです」

 

続けて、著者は以下のようにも述べています。
「人間はときに、神のように素晴らしい行動もするが、ケモノに劣るようなふるまいもする。どちらの側面を描いた作品にも、多くの名作が存在します。けれどもそこにはひとつだけ共通した真実がある。それはどんな立場や視点からの作品であれ、読者の心を打つようなすぐれたメッセージは、必ず大きな苦悩の中から生みだされてくるものだという真実です。深い闇を体験し、その中でもがき苦しんだものだけが、長い思索ののち、光のような言葉をつむぎ出すことができる。そのプロセスに例外はない。そうした境地に到達できた人を、私は『偉い人』だと思っています」

 

本書の主人公である明仁(あきひと)天皇は、まさにこれまでそういう人生を歩んでこられた方だと、著者は言います。現在の日本で、明仁天皇美智子皇后ほど大きな闇を体験し、その中でもがき、苦しみ、深い思索を重ねた方は珍しいのではないかと、著者は考えているのです。明仁天皇のメッセージの根底にあるのは「平和国家・日本」という強い思いですが、それは何かの信仰のように、心のなかで願っていればそれで叶うというものではありません。著者は、「ときには我が身を危険にさらしながら、日々くり返される大変な努力の果てに、ようやく実現されるものだということを、それらのメッセージは教えてくれています。そうした長期におよぶ思索と、大変な自己犠牲の中からつむぎ出された『光もつ言葉』の数々を、ひとりでも多くのみなさまに知っていただければと思います」と書いています。

 

本書の32の言葉の中で、最初に紹介されているのは、“I Shall be Emperor”[私は必ず天皇になります]です。これは明仁天皇が15歳の春(1949年4月)、学習院高等科の最初の英語の授業で、「将来、何になりたいかを書きなさい」という課題に対して英語で書いた回答です。40年後に、明仁天皇はこの言葉の真意を次のように説明しています。
「普通の日本人だった経験がないので、何になりたいと考えたことは一度もありません。皇室以外の道を選べると思ったことはありません」(1987年9月/即位の1年4カ月前、アメリカの報道機関からの質問に対する文書での回答/英文)

 

先の戦争でA級戦犯とされた人々への判決は昭和23年(1948年)11月12日に言い渡されています。当時14歳だった正田美智子さんはこのニュースをラジオで聞いて「強い恐怖」を感じたそうです。そのとき7人のA級戦犯が絞首刑を宣告されましたが、実際に処刑されたのは翌月の12月23日でした。その日は明仁皇太子の15歳の誕生日だったのです。著者は述べます。
「もちろん、それは偶然ではありません。なぜなら裁判の始まり、つまり東京裁判A級戦犯たちが起訴されたのは、その2年8カ月前の昭和21年(1946年)4月29日、昭和天皇の誕生日だったからです。そこには、あきらかに占領軍のメッセージがこめられていました。『この裁判と処刑が何を意味するか、天皇とその後継者である皇太子は、絶対に忘れてはならない』」

 

続けて、著者は以下のように述べています。
「7人が処刑された1948年には、すでにドイツをはじめ、イタリア、ハンガリーブルガリアルーマニアなど、ヨーロッパの敗戦国(枢軸国)の王室はすべて廃止されていました。日本にだけ王室が残されたことの意味を、自分はどう考えればよいのか。おそらく明仁天皇は、その後、自分の誕生日を爽やかな気持ちで迎えられたことは一度もなかったでしょう。それはひとりの中学生が背負わされるのは、あまりに重い精神的な十字架でした」
“I Shall be Emperor”という回答を、明仁皇太子が学習院の授業で書いたのは、それからわずか4カ月後のことでした。それは自らの過酷な運命に対する1人の少年の覚悟の言葉だったのです。

 

1975年(昭和50年)にはいわゆる「ひめゆりの塔事件」が起こります。同年7月17日、明仁皇太子は沖縄海洋博の開会式出席のため、美智子妃とともに那覇空港に到着しました。皇太子ご夫妻は、空港を出発し、車で沖縄本島の最南端に向かいました。「ひめゆりの塔」をはじめとする沖縄戦の南部戦跡をめぐり、慰霊の祈りを捧げるための旅でした。沖縄訪問直前、明仁皇太子は「石ぐらい投げられてもいい。 そうしたことに恐れず、県民のなかに入っていきたい」と周囲に語っていましたが、この日、皇太子をめがけて投げられたのは「石ぐらい」ではすみませんでした。

 

ひめゆりの塔事件」とは、皇室としての第二次世界大戦後初の沖縄県訪問に際し、皇太子および同妃に、新左翼党派・沖縄解放同盟準備会(沖解同(準))と共産主義者同盟(西田戦旗派)の各メンバー2人が、潜伏していた洞窟(ひめゆりの壕)や白銀病院から火炎瓶やガラス瓶、スパナ、石を投げつけたテロ事件です。皇太子および同妃や関係者に大きな怪我はありませんでしたが、日本中に大きな衝撃が走りました。

 

この「ひめゆりの塔事件」について、著者は以下のように述べています。
「壕のなかに1週間ひそみ、皇太子ご夫妻に火炎ビンをなげつけた知念功と、もうひとりの小林貢(共産同・戦旗派)ですが、彼らも皇太子を傷つけるようなテロ行為が目的ではなく、昭和天皇や日本政府の戦争責任を問うことが目的だったと著書に書いています。事実、火炎ビンも明仁皇太子と美智子妃に当たらないよう、少し離れた柵の内側に投げつけています」

 

さらに続けて、著者は以下のように述べます。
「この皇太子の沖縄訪問の警備責任者で、事件の2週間後、責任を問われて警察庁警備課長を解任された佐々敦行氏は、事件の翌日、沖縄県に住む有識者300人に対し、緊急世論調査を実施しています。その結果を簡単にまとめると、人びとの感想は①長い間もやもやしていたものが、あの一発でふっきれた、②皇太子ご夫妻に当たらなくてよかった、③過激派はイヤだ、④皇太子ご夫妻には好感を抱いた、というものだったそうです」

 

昭和59年(1984年)4月6日、結婚25周年の記者会見では、明仁天皇は「政治から離れた立場で国民の苦しみに心を寄せたという過去の天皇の話は、象徴という言葉で表すのに最もふさわしいあり方ではないかと思っています。私も日本の皇室のあり方としては、そのようなものでありたいと思っています」と語っています。「国民の苦しみに心を寄せる」という言葉について、著者は「明仁天皇と美智子妃は、おそらくそれを天皇のもっとも重要な仕事と思われているのでしょう。さらにいえばそのなかでも、『声なき人びとの苦しみに寄り添うこと』を最大の責務と考えられているのだと思います」と述べています。

 

そうした明仁天皇の姿勢がいかに徹底したものであるかは、以下の言葉からもよく理解できます。
「日本ではどうしても記憶しなければならないことが4つあると思います。(終戦の日と)広島の原爆の日、長崎の原爆の日、そして6月23日の沖縄の戦いの終結の日、この日には黙とうをささげて、いまのようなことを考えています」(昭和56年[1981年]8月)
「どうしても腑に落ちないのは、広島の(原爆犠牲者の慰霊式の)時はテレビ中継がありますね。それにあわせて黙とうするというわけですが、長崎は中継がないんですね。(略)それから沖縄戦も県では慰霊祭を行なっていますが、それの実況中継はありません。平和を求める日本人の気もちは非常に強いと思うのに、どうして終戦の時と広島の時だけに中継をするのか」(同前)

 

ちなみに明仁天皇ご自身は、必ずこの4つの日には家族で黙とうをささげ、外出も控えて静かに過ごされているそうです。やむをえず海外を訪問中のときなども、公式日程を少しずらしてもらって、その時間に黙とうされているといいます。まさに天皇陛下こそは日本一の「悼む人」であることがわかります。そして、数々の被災地訪問の様子から、天皇陛下こそは日本一の「グリーフケア」の実践者であることもわかります。その想いは世代を超えて、次の徳仁(なるひと)天皇にも受け継がれていくことでしょう。

 

平成27年(2015年)1月1日、新年の感想で明仁天皇はこのように語られました。
「本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。広島、長崎の原爆、東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、いま、極めて大切なことだと思っています」

 

 

この明仁天皇の言葉を受けて、大ベストセラーとなった『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を書いた著者は、以下のように述べています。
「戦後日本とは、とにかく戦争だけはしない、それ一本でやってきた国でした。そのために、どんな矛盾にも目をつぶってきた。沖縄に配備されていた米軍の核兵器にも、本土の基地からベトナムイラクに出撃する米軍の部隊にも、首都圏上空をおおう米軍専用の巨大な空域にも、ずっと見て見ぬふりをしてきたのです」

 

また著者は、以下のようにも述べています。
「『日本はなぜ、第二次世界大戦を止められなかったのか』という巨大な問いについて、ここで本格的に論じることはできませんが、ひとつは戦前の憲法では軍部が天皇に直属し、軍事に関して天皇がすべての権限をもつ立場にあった。そのため軍部が暴走を始めたとき、逆にブレーキをかけられるのが天皇ひとりしかいないという構造的な弱さがあったこと。
もうひとつは、あまり知られていないことですが、とくに満州国建設から国際連永脱退の過程で浮き彫りになる、日本の政治家や軍人たちの『国際法についての理解の欠如』があった。それは現実とはまったく同じ、日本人が伝統的にもつ大きな欠点なのです」

 

2018年12月23日、明仁天皇は在位中最後の「誕生日会見」を行ないました。それは明仁天皇ご自身の皇太子から天皇へのライフ・ヒストリーとともに、戦後日本の歴史と課題が見事に凝縮された素晴らしい内容の会見でした。16分間におよぶ会見の中で、明仁天皇が涙をこらえ、はっきりと言葉を詰まらせたのは、次の5カ所でした。「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」
先の大戦で多くの人命が失われ、また、我が国の最後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のちゅみない努力によって築かれたものであることを忘れず、戦後生まれの人々にもこのことを正しく伝えていくことが大切であると思ってきました」
「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」
「明年4月に結婚60年を迎えます。結婚以来皇后は、常に私と歩みを共にし、私の考えを理解し、私の立場と務めを支えてきてくれました」
天皇としての旅を終えようとしている今、私はこれまで、象徴としての私の立場を受け入れ、私を支え続けてくれた多くの国民に衷心より感謝するとともに、自らも国民の1人であった皇后が、私の人生の旅に加わり、60年という長い年月、皇室と国民の双方への献身を、真心を持って果たしてきたことを、心から労いたく思います」

 

明仁天皇は、象徴天皇としての新しいスタイルを確立されていきました。さらにその天皇としての「平和の旅」は遠く海外まで及びました。天皇皇后両陛下の旅は、平成が一度も戦争のない時代として終わることに大きく貢献したのです。
著者は、以下のように述べています。
「かつて昭和の大歴史小説家、司馬遼太郎は、『およそ人として生まれてきて、優れた人格に出会うこと以上の喜びはない』と語っていましたが、まさにそうした人生の見本といっていいような、明仁天皇の戦後の旅だったといえます。そしてその横には60年間、いつも美智子皇后の励ましの笑顔があった。この最後の会見を聞き終えたあと、私の脳裏にはただ、『戦後日本のベストカップル』という言葉しか、浮かんでこなかったのです」

 

本日をもって退位されたら、明仁天皇はこれからどうされるのでしょうか? おそらくは、慰霊の旅を続けられるのではないかと推測されます。これまで、陛下は各地を慰霊のために訪れられました。戦後50年の95年には「慰霊の旅」として、沖縄、長崎、広島、大空襲で多数の犠牲者が出た東京の下町を巡り、平和を祈念されました。戦後60年の05年には多くの民間人が犠牲になったサイパン島、戦後70年の15年はパラオの激戦地ペリリュー島で海外の戦没者を慰霊されました。また、今年1月には国交正常化60周年の公式行事で、太平洋戦争の激戦地だったフィリピンを訪問。日比両国の戦没者を慰霊されています。天皇陛下がご自身の行動で示された平和への願いは、多くの国民の胸に刻み込まれています。

 

小学校の教科書には天皇の主な仕事として「国会の指名に基づいて内閣総理大臣を任命する」「国会を召集する」「衆議院を解散する」「外国の要人と会う」などと書かれていますが、天皇陛下の最も大切な仕事が書かれていません。それは、「国の平和と国民の安寧を願って祈られる」という仕事です。天皇陛下とは、日本で最も日本人の幸福を祈る方なのです。

 

2011年に東日本大震災が起きたときも、昭和天皇の「終戦詔書」以来となる復興の詔勅としての「平成の玉音放送」を行われました。また、世界史にも他に例がないほどの回数の被災地訪問をなされました。そして、心から被災者の方々を励まされたのです。日本人にとって天皇陛下は、2600年にわたってこの国を、そして日本人を形作るのに欠かせない「扇の要」でした。天皇陛下は、無私になられて日々国民の安寧と世界の平和を祈ってこられました。国民を第一に、そしてご自分は二の次と考えられ、国民のことをお気にかけられてこられました。

 

ブログ「祈る人」にも書きましたが、偉大なブッダ、イエスといった「人類の教師」とされた聖人にはじまって、ガンディー、マザー・テレサダライ・ラマなど、人々の幸福を祈り続けた人はたくさんいます。しかし、日本という国が生まれて以来、ずっと日本人の幸福を祈り続けている「祈る人」の一族があることを忘れてはなりません。それは世界でも類を見ない「聖」なる一族なのです。
最後に、明仁天皇陛下の退位の日に心からの感謝と尊敬の念を込めて、次の道歌をお贈りしたいと思います。

 

聖人は仏陀

 孔子ソクラテス 

  イエスキリスト天皇陛下

         (庸軒)

 

天皇メッセージ

天皇メッセージ

 

 

2019年4月30日 一条真也