一条真也です。
13日、羽田空港からスターフライヤーで北九州空港へ帰ってきました。翌14日、博多の西鉄グランドホテルへ向かいました。母校の小倉高校の同窓会である明陵同窓会の福岡支部の総会で記念講演を行うためです。小倉高校は、各界で活躍されているOBが多い名門であります。詳しくは、「福岡県立小倉高校出身有名人」を御覧下さい。
開会前の会場にて
同窓会総会のようす
冒頭に挨拶する首藤幹事長
総会は新幹線人身事故の影響により10分遅れの14時30分から開始されましたが、200名以上が参加して非常に盛会でした。開会宣言の後、物故者への黙とう、当番漢字挨拶、会計報告、支部長挨拶、来賓挨拶などがありました。その後、わたしの記念講演が行われました。演題は「人生の修め方」。これまで何度も話してきたテーマですが、この日は時間が30分以内とあって駆け足の講演となりました。高校の大先輩方の前、しかも高齢の先輩が多い中で「人生の修め方」について話すのは、少々緊張をおぼえました。
わたしが登壇しました
「人生修め方」について講演しました
ウルマンの「青春」を紹介
老いと死があってこそ人生!
冒頭、わたしは「アンチエイジング」という言葉についての異論を唱えました。これは「『老い』を否定する考え方ですが、これは良くありませんね」と述べました。そして、わたしは「老いと死があってこそ人生!」という話をしました。サミュエル・ウルマンの「青春」という詩がありますが、その根底には「青春」「若さ」にこそ価値があり、老いていくことは人生の敗北者であるといった考え方がうかがえます。おそらく「若さ」と「老い」が二元的に対立するものであるという見方に問題があるのでしょう。「若さ」と「老い」は対立するものではなく、またそれぞれ独立したひとつの現象でもなく、人生というフレームの中でとらえる必要があります。
「人生の五計」を紹介
理想の人生を過ごすということでは、南宋の朱新仲が「人生の五計」を説きました。それは「生計」「身計」「家計」「老計」「死計」の5つのライフプランです。朱新仲は見識のある官吏でしたが、南宋の宰相であった秦檜に憎まれて辺地に流され、その地で悠々と自然を愛し、その地の人々に深く慕われながら人生を送ったといいます。そのときに人間として生きるための人生のグランドデザインとでも呼ぶべき「人生の五計」について考えたのでした。
老年期は実りの秋である!
それから、「老年期は実りの秋である!」という話をしました。今年の夏は本当に暑かったですね。わたしはもうすぐ56歳になりますが、若い頃と違って暑さが体にこたえます。昔は夏が好きだったのですが、今では嫌いになりました。四季の中では、秋が好きです。古代中国の思想では人生を四季にたとえ、五行説による色がそれぞれ与えられていました。すなわち、「玄冬」「青春」「朱夏」「白秋」です。
超高齢社会をどうとらえるか
こうして歴史をひもといていくと、人類は「いかに老いを豊かにするか」ということを考えてきたといえます。「老後を豊かにし、充実した時間のなかで死を迎える」ということに、人類はその英知を結集してきたわけです。人生100年時代を迎え、超高齢化社会の現代日本は、人類の目標とでもいうべき「豊かな老後」の実現を目指す先進国になることができるはず。その一員として、実りある人生を考えていきたいものです。
「迷惑」は建前、「面倒」が本音
それから、「終活」についての考えを述べました。
これまでの日本では「死」について考えることはタブーでした。でも、よく言われるように「死」を直視することによって「生」も輝きます。その意味では、自らの死を積極的にプランニングし、デザインしていく「終活」が盛んになるのは良いことだと思います。その一方で、わたしには気になることもあります。「終活」という言葉には何か明るく前向きなイメージがありますが、わたしは「終活」ブームの背景には「迷惑」というキーワードがあるように思えてなりません。
「終活」から「修活」へ
いま、世の中は大変な「終活ブーム」です。ブームの中で、気になることもあります。それは、「終活」という言葉に違和感を抱いている方が多いことです。特に「終」の字が気に入らないという方に何人も会いました。もともと「終活」という言葉は就職活動を意味する「就活」をもじったもので、「終末活動」の略語だとされています。ならば、わたしも「終末」という言葉には違和感を覚えてしまいます。死は終わりなどではなく、「命には続きがある」と信じているからです。
これからは「修活」の時代です!
そこで、わたしは「終末」の代わりに「修生」、「終活」の代わりに「修活」という言葉を提案しました。「修生」とは文字通り、「人生を修める」という意味です。よく考えれば、「就活」も「婚活」も広い意味での「修活」ではないでしょうか。学生時代の自分を修めることが就活であり、独身時代の自分を修めることが婚活です。そして、人生の集大成としての「修生活動」があります。これからは「修活」の時代です。
「修める」という心構え
かつての日本は、たしかに美しい国でした。しかし、いまの日本人は「礼節」という美徳を置き去りし、人間の尊厳や栄辱の何たるかも忘れているように思えてなりません。それは、戦後の日本人が「修行」「修養」「修身」「修学」という言葉で象徴される「修める」という覚悟を忘れてしまったからではないでしょうか。
老いない人間、死なない人間はいません。死とは、人生を卒業することであり、葬儀とは「人生の卒業式」にほかなりません。老い支度、死に支度をして自らの人生を修める。この覚悟が人生をアートのように美しくするのではないでしょうか。
自分の葬儀を想像してみましょう!
続いて、誰でもが実行できる究極の「修活」についてもお話しました。それは、自分自身の理想の葬儀を具体的にイメージすることです。親戚や友人のうち誰が参列してくれるのか。そのとき参列者は自分のことをどう語るのか。理想の葬儀を思い描けば、いま生きているときにすべきことが分かります。参列してほしい人とは日ごろから連絡を取り合い、付き合いのある人には感謝することです。生まれれば死ぬのが人生です。死は人生の総決算。葬儀の想像とは、死を直視して覚悟することです。覚悟してしまえば、生きている実感がわき、心も豊かになります。
死生観の確立を!
盛大な拍手に感激しました
究極の「修活」とは死生観を確立することではないでしょうか。死なない人はいませんし、死は万人に訪れるものですから、死の不安を乗り越え、死を穏やかに迎えられる死生観を持つことが大事だと思います。そんな話をしているうちに終了時間となったので、わたしは「ご清聴、ありがとうございました」と言って拙い講演を終えました。すると、盛大な拍手を頂戴して感激いたしました。錚々たる諸先輩がおられる中で、わたしのような若造が記念講演をさせていただけたのは誠に光栄でした。これも34期の福岡支部の当番幹事長である首藤君をはじめ、重渕君、鳥本君といった当番幹事のみなさんのおかげです。本当に、ありがとうございました。
懇親会での鏡開き
カンパ~イ!
懇親会のようす
カレーが一番美味しかった!
西鉄グランドホテルの前で
講演後は懇親会となり、鏡開きの後、副支部長の音頭による乾杯、ラグビー山田選手のビデオメッセージ、平成30年度次期幹事挨拶、明陵同窓会本部総会幹事挨拶、じゃんけん大会、校歌斉唱、城野副支部長による閉会挨拶および万歳と続きました。わたしは先輩や同級生、後輩たちとお酒を飲みながら、楽しい時間を過ごしました。
料理では、西田さんという同級生の女性が「ここのホテルはカレーが評判なので、わざわざメニューに加えてもらったんですよ」と言いながらテーブルまで持ってきて下さった西鉄グランドホテル特製のカレーが美味しかったです。
34期の当番幹事のみなさん、本当にお疲れ様でした。
「令和」へ改元まで、あと17日です。
2019年4月13日 一条真也拝