一条真也です。
言葉は、人生を変え得る力を持っています。
今回の名言は、江戸時代の陽明学者・熊沢蕃山の言葉です。
彼は、「自分は世の中に何も迹を残さず、名も残さずに終わりたいものだ」と述べました。これは一見、志を持たない者の寂しい人生を示す言葉のように思えます。
しかし、この言葉の持つメッセージを誰よりも理解し、また高く評価した人物がいました。昭和の陽明学者である安岡正篤です。
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1971
- メディア: ?
- この商品を含むブログを見る
何を為すか、何をしたかということと、彼はどういう人間か、如何にあるかということとは別である。運に恵まれなければ、また本人が欲しなければ、本質的に立派な人でも、別に何もしないで終わることもある。そのように考えていた安岡正篤は陽明学の先達である蕃山の「自分は世の中に何も迹を残さず、名も残さずに終わりたいものだ」という晩年の言葉に大いに共鳴したそうです。人間はつまらぬ者や、ピントの外れた者から褒められたり、持ち上げられたりしても、少しも嬉しくない。むしろ迷惑である。世間には苦笑いをするような褒め方をする人もよくいるが、かえって嫌なもの。蕃山のような賢人になると、誹られても、褒められても、さぞかしつまらなかったことだろうと、安岡は推測します。「如何に善を為すか」ということは案外当てにならぬものであり、大事なことはやはり「自分はどういう人間であるか」ということなのだというのです。
先哲が説く指導者の条件 『水雲問答』『熊沢蕃山語録』に学ぶ (PHP文庫)
- 作者: 安岡正篤
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2005/10/03
- メディア: 文庫
- クリック: 5回
- この商品を含むブログ (1件) を見る
それを明らかにすることを「明明徳」(明徳を明らかにする)と言います。蕃山はそれに気がついていました。今まで自分で自分がわからなかった。人生や宇宙というものがまったく暗黒であった。しかし、たまたま学問をすることによって、ちょうど朝の陽光がさして万象が現われてくるのと同じように、蕃山は初めてはっと眼を開いたのです。これが彼の学問の始まりであり、またその追及が彼の生涯の学問でした。
すなわち蕃山は明徳の学問を行ったのです。そしてこの明徳の学において、江戸の当時最も活発で、真実・純真なものを陽明学に見出し、またその学問の偉大な人を中江藤樹において発見したのです。中国の明代に生まれた王陽明の学問は、別名「心学」と呼ばれます。あくまでも「知」を求めた朱子学に対して、「知行合一」を高らかに唱えた陽明の学問こそ「智」そのものに向かっていたと言えるでしょう。
日本に入ってからは、中江藤樹、熊沢蕃山をはじめ、山鹿素行、「忠臣蔵」で有名な浅野内匠頭長直、大石内蔵助良雄、さらには大塩平八郎、春日潜庵、河井継之助、玉木文之進、吉田松陰、西郷隆盛、乃木希典といった巨大な精神の山脈を作りあげていきました。数多くの宰相や大実業家を指導した昭和の碩学・安岡正篤もこの山脈に位置します。なお、今回の熊沢蕃山の名言は、『孔子とドラッカー新装版』(三五館)にも登場します。
- 作者: 一条真也
- 出版社/メーカー: 三五館
- 発売日: 2013/04/01
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (30件) を見る
2019年2月28日 一条真也拝