首里城   

一条真也です。
めんそーれ! 沖縄に来ています。
12日、全国冠婚葬祭互助会連盟(全互連)の第60回定時総会が行われました。翌13日は8時にホテルを出発して、世界遺産の「首里城」へ向かいました。かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあったグスク(御城)の城趾で、沖縄県那覇市首里にあります。


守礼門の前で

世界遺産碑を発見


Wikipedia「首里城」には、以下のように書かれています。
首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城であった。戦前は正殿などが旧国宝に指定されていたが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されたが、登録は『首里城跡(しゅりじょうあと)』であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう、天女橋)などの文化財がある」


歓会門の前で

素晴らしい晴天でした



また、Wikipedia「首里城」の「歴史・沿革」には、こう書かれています。
首里城の創建年代は明らかではない。尚氏歴代居城の正殿は、かつて百浦添とされ、敬称で御百浦添と称された。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなく、史書に記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失している。消失する度に再建されてきたが毎回木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている」


首里城にて



「一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。一度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ、1456年2月の目撃記録として、首里城は、『外城』『中城』『内城』の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ『閣』があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていたと記述されている。二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。1709年(宝永6年)には三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の『和漢三才図会』(寺島良安・編)には首里城が『琉球国』の項の挿絵(地図)のなかに描かれている」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)


廣福を背に



「1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定された。正殿は県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた(源為朝琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという説がある)。正殿は1925年(大正14年)に特別保護建造物(のち旧国宝)に指定された(指定名称は「沖縄神社拝殿」)。昭和初期(1927年(昭和2年)−1932年(昭和7年))に正殿の改修工事が行われた」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)


正殿を背にして

正殿内部の玉座



「太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。5月27日の日本軍南部撤退の際には、歩行不能の重傷兵約5000名が首里城の地下陣地で自決した。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)


正殿の模型

正殿の遺構



「戦後は首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年(昭和54年)に琉球大学首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)


首里城ジオラマ(その1)



「1989年(平成元年)11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。屋根瓦については色についてさえ記録がなく、当時を知る老人を集めて話を聞いても赤〜黒まで意見がバラバラで難航した。すでに琉球瓦を生産しているのは奥原製陶ただ1軒だけであり、4代目主奥原崇典の尽力によって首里城の瓦が復元された。なお、2014年に米国立公文書館から沖縄戦で焼失前の首里城のカラー映像が発見されており、それによると屋根瓦は赤色では無い事が判明している」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)


首里城ジオラマ(その2)



「1992年(平成4年)11月2日には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年(平成12年)には『首里城跡』(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに『琉球王国のグスク及び関連遺産群』の名称で世界遺産に登録された。2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(100番)に選定された」(Wikipedia「首里城」歴史・沿革)


歴史を語るアカギの大木の下で

2018年6月9日 一条真也