ニニギノミコト尊像

一条真也です。
世界各地、そして日本各地に建立されている聖人や偉人の銅像
わたしは銅像を観るのが三度の飯より好きです。名所旧跡を訪れて銅像を見つけると狂喜乱舞し、一緒に記念撮影をせずにはおれません。銅像が「どーぞー、一緒にお写り下さい!」と誘いかけてくるのです。わたしはさまざまな銅像と対峙しながら、そこに建立せずにはおられなかった先人を慕う人々の熱い想いを感じてしまいます。


ニニギノミコト瓊瓊杵尊)の尊像



今年の1月、宮崎県延岡市を訪れました。この地には天孫降臨の神話で語られる天孫ニニギノミコト瓊瓊杵尊)の終焉地として伝えられる御陵参考地があります。パワースポットを超えた神話スポットとして有名だそうですが、ここにニニギノミコトの尊像が建立されています。


ニニギノミコト御陵参考地」へ向かう



ニニギノミコト御陵参考地は、正式には「北川陵墓参考地」といいます。陵墓参考地とは、古記録・地域伝承・墳丘の形態や規模・出土品などにより、宮内庁によって皇族の墳墓とされたものの、被葬者を特定する資料に欠ける陵墓のことです。2府16県に46箇所が所在。宮崎県延岡市北川町の可愛山陵(えのさんりょう)の麓にある塚は、宮内庁からご陵墓参考地として認定されています。可愛岳の鉾岩をめぐる登山も人気を集めています。


ニニギノミコト御陵参考地(北川陵墓参考地)



さて、この天孫ニニギノミコト瓊瓊杵尊)の終焉地として伝えられる御陵参考地には、今年のNHK大河ドラマ西郷どん」の主人公である西郷隆盛とも縁があるのです。延岡観光協会が運営するWEBサイト「わけあって延岡」には、御陵墓参考地(可愛山陵)について「西郷隆盛天孫ニニギノミコト時空を越えた運命の出会い」と題して、次のように紹介しています。
「明治10年、明治政府に反旗をひるがえした士族たちの反乱『西南戦争』が起こった。同年8月、西郷隆盛率いる薩摩軍は、現在の延岡市和田越にて山縣有朋陸軍中将率いる政府軍と相対し、「和田越の決戦」と呼ばれる激戦を繰り広げるが、善戦むなしく薩摩軍は北川方面へ敗走し、現在の西郷隆盛宿陣跡資料館にあたる児玉熊四郎邸に宿陣する。この児玉邸は天孫ニニギノミコト御陵墓参考地と隣り合うように存在している。


西郷隆盛宿陣跡資料館

南洲翁寓居跡の前で



また、「わけあって延岡」には、以下のように書かれています。
西郷隆盛が宿陣した民家と、天皇家の祖である天孫ニニギノミコトの御陵墓が、こんなにも近くにあったのは一体なぜなのか? 西郷隆盛はこの御陵墓が天孫ニニギノミコトの御陵墓であると知っており、山縣有朋率いる政府軍が、天皇家の祖先神である天孫ニニギノミコト御陵墓に向けて鉄砲や大砲を打つことはできないと考え、ひとときの安息を得た。


参考地のご由緒

可愛山陵の説明板



さらに、「わけあって延岡」には、以下のように書かれています。
西郷隆盛は児玉熊四郎邸で軍議を開き、軍隊に解散布告令を出す。その後、自身の着ていた陸軍大将の軍服を焼き、可愛岳を突囲して祝子川や高千穂を抜けて九州山地を南下し、故郷の鹿児島へと帰っていく。西郷隆盛が何とか鹿児島まで帰り着けたのは、この天孫ニニギノミコトとの『時空を超えた出会い』がもたらした奇跡にほかならない」
まさに「その時、歴史が動いた」瞬間ですね。


さすがに神々しいお顔です



ニニギノミコトの尊像は、造型的にはまずまずという感じですが、台座がないに等しいことに問題があります。
「かけまくもかしこき天孫」に対して不遜ではないかなと考えます。
通常の偉人であってもそうですが、況や天孫をや!
手で尊像に触れられる高さには、やはり問題があります。
台座で一定の高さが確保できないのであれば、「結界」として鉄柵などを設置する必要を感じます。


まことに畏れ多くも、真似をば・・・



さて、北川陵墓参考地は、アマテラスオオミカミ天照大神)の孫であるニニギノミコトの陵墓です。ニニギノミコトは、アマテラスオオミカミの命によって葦原の中つ国を統治するため、三種の神器ととも高天原から日向の高千穂峰に天降ったとされます。コノハナサクヤヒメ(木花開耶姫)を妻とし、「海幸山幸)」の説話に登場する山幸彦として知られるヒコホホデミノミコト彦火火出見尊)を生みましたが、一緒に奉られた姉のイワナガヒメ(磐長姫)は醜かったので嫌って妻にしませんでした。


神様を真似るのは生まれて初めてです!



すると、姉妹の父であるオオヤマツミ大山祇神)が激怒して、「イワナガヒメをお召しになれば、生まれてくる御子の命は岩のように永遠のものとなる。コノハナサクヤヒメをお召しになれば、生まれてくる御子の命は、花が咲きやがて散るように、限りあるものとなるだろう」と呪いをかけました。そのため、代々の天皇の寿命が、岩のように永久ではなく、花のように短くなるようになってしまったといいます。


ここから先は立ち入り禁止でした

門の外からお参りしました



参考地には白い門があって、そこから先は立ち入り禁止でした。
わたしは、門の外から瓊瓊杵尊をお参りいたしました。
お参りを終えると、なんだか清々しい気分になりました。
すると、帰りの列車の中で、サンガの編集者である川島栄作さんからメールが届きました。なんと、台湾の出版社から『唯葬論』(サンガ文庫)を中国語で翻訳出版させてほしいという問い合わせがあったというのです。いやあ、嬉しいですね。わたしの本は3冊がハングル語版になっていますが、中国語版は初めてです。しかも、「美しき礼の島」である台湾で出版されるかもしれないとは! やはり墓参をすると良いことがあります。
ニニギノミコト様、ありがとうございます!


世界中で翻訳出版してほしい!



2018年4月25日 一条真也