プラハ城  

一条真也です。チェコの首都プラハに来ています。
13日、プラハ城を訪れました。かつてボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城です。現在はチェコ共和国(元チェコスロバキア連邦共和国)の大統領府のある場所で、ボヘミア国王の宝冠はここで保管されています。ギネスブックによれば、プラハ城は世界でも最も大きい城だそうです。


現在、プラハ城は修復中

いざ、プラハ城へ!



プラハ城の敷地の広さは東西430メートル、南北70〜140メートルで細長い形をしており、大きさは長さは約570m、平均の幅は約130mです。10世紀には既にこの大きさであったと考えられています。城はフラチャヌィの丘の頂にありますが、その麓にマラー・ストラナという城下町があります。城と麓の高低差は80メートルもあり、城まで続く坂道がネルドヴァ通りです。ここは土産物店やレストランが並び市電も走っていて、にぎやかです。上り詰めると城の正門に突き当たり、石畳のフランチャヌィ広場があります。この広場は、「アマデウス」や「レ・ミゼラブル」などの映画に登場しています。


プラハ城にて

黄金の道で

カフカの仕事場の前で

カフカの仕事部屋を覗くと・・・

書店になっていました

カフカの本を求めました



Wikipedia「プラハ城」の「歴史」には以下のように書かれています。
「築城については史実と伝説(リブシェ伝説など)が混在している。プラハ城の歴史は9世紀(870年)にさかのぼる。考古学の発掘調査ではボジヴォイ1世(在位870−894?)によって創建された。 壁に囲まれた最初の建築物は、聖母マリア教会であった。聖イジーと聖ヴィートのバシリカは、10世紀の前半に建設された。ボヘミアで最初の修道院は城の中、聖イジー教会の隣に建設された。ロマネスク様式の宮殿がここに建てられたのは、12世紀のことである。14世紀には、ボヘミアの黄金時代を築いた神聖ローマ皇帝カール4世(=ボヘミア国王カレル1世)の支配の下、王宮がゴシック様式で再建され、城砦として強化された。聖ヴィートのロトンドとバシリカの代わりに、広大なゴシック教会が建設されたが、完成までにはほぼ6世紀かかった」


錬金術師の家

幻想的なムードが漂っています

拷問部屋のようす

拷問部屋のようす



ボヘミア宗教改革者とされ、ローマ教会によって火刑に処せられたヤン・フスの一派によるフス戦争の間とその後の10年、城は空位のままであった。1485年、ウラースロー2世(ヴラジスラフ・ヤゲロンスキー)が城の再建に着手した。広々としたヴラジスラフ・ホールがベネディクト・レジェによって王宮に建設された。その後、城の北側には新しく防御の塔も建設された。1541年の大火で城は甚大な被害を受け、ハプスブルク家支配下では、いくつか新しくルネサンス様式の建物が建設された。フェルディナント1世はベルヴェデーレを妻アンナのために夏の離宮として建設した」(Wikipedia「プラハ城」


雨が降ってきました・・・

城から眺めたプラハ市街



「ルドルフ2世はプラハ城を主たる居城とした。ルドルフは宮殿の北翼を建設し、そこにスペイン・ホールを作って、自分の貴重な芸術コレクションを展示した。1618年に起きた2度目のプラハ窓外投擲事件は白山の戦いの契機となり、戦闘の間にプラハ城は荒れ果てた。三十年戦争の過程で1648年、ルドルフ2世のコレクションは、多くの作品がスウェーデンによる略奪に遭った」(Wikipedia「プラハ城」


チェコ王室の部屋

黄金の玉座



プラハ城の再建としては、18世紀後半に女帝マリア・テレジアボヘミア女王)が行ったものが最後となる。オーストリア皇帝フェルディナント1世(=ボヘミア王フェルディナント5世)は1848年の退位後、プラハ城を居城とした。1918年、チェコスロバキア共和国の成立とともに、プラハ城には大統領府が置かれた。新王宮と庭園はスロベニアの建築家ジョゼ・プレクニクにより修復された」(Wikipedia「プラハ城」


大聖堂の前で

大聖堂

大聖堂の内部

大聖堂の中で



第二次世界大戦のさなか、ナチスによるチェコスロバキア占有中、プラハ城はラインハルト・ハイドリヒの本拠地となり、『ボヘミアモラヴィアライヒ公安』の本拠地となった。ラインハルトはボヘミアの王冠を頭上に載せたといわれ、彼自身も王のように振舞った。ボヘミアの王冠には、それを頭上に載せた簒奪者には1年以内に死が訪れるという伝説があったが、権力を握って1年も経たぬうちにハイドリヒは暗殺された」(Wikipedia「プラハ城」


大聖堂内のようす

大聖堂内のようす

大聖堂内のようす

大聖堂内のようす



チェコスロバキア解放の後は、プラハ城はチェコスロバキア社会主義共和国の共産主義政府が置かれた。ビロード革命の際、『プラハの春』の指導者だったアレクサンデル・ドゥプチェクはヴァーツラフ広場に面したバルコニーに現れ、『ドゥプチェクを城へ!』と叫ぶ民主化デモの群衆の声を聞いた。彼らの声が、プラハ城にある国家指導者への椅子へとドゥプチェクを導き、彼は民衆にとって民主主義と自由のシンボルとなった」(Wikipedia「プラハ城」


プラハ城の衛兵

素晴らしい世界遺産でした



チェコスロバキアチェコ共和国スロバキア共和国に別れた後、プラハ城には新しくチェコ共和国の大統領府が置かれている。初代大統領トマーシュ・マサリクがプレクニクに依頼したのと同様、ヴァーツラフ・ハヴェル大統領はポスト共産主義建築家としてプラハ城の改修に取り組むようボジェク・シーペクに委託、城のギャラリーの絵も修繕された。2012年9月、トリップアドバイザーの企画『バケットリスト』の『世界の名城25選』に選ばれた」(Wikipedia「プラハ城」



2018年4月13日 一条真也