プラハ視察   

一条真也です。プラハに来ています。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しているのです。13日、9時にフォーシーズンズ・ホテル・プラハを出発しました。向った先は、ボヘミアングラス工場、プラハ城、カレル橋などでした。


今朝のわが朝食

ボヘミアングラス工場に到着

ボヘミアングラス工場で

ボヘミアングラスの型の前で

ボヘミアングラス工場のようす

ボヘミアングラス工場の中で



「世界一美しい街」と呼ばれるプラハは、チェコ共和国の首都であり、同国最大の都市です。中央ヨーロッパでも有数の世界都市です。人口は、約120万人。英語では「プラーグ」と呼ばれます。『プラーグの大学生』という怪奇幻想小説の名作があり、映画化もされています。作家フランツ・カフカの活躍した街としても有名です。


プラハ市街のようす

プラハ市街のようす



プラハ市内中心部にはヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ)が流れます。古い町並み・建物が数多く現存しており、毎年海外から多くの観光客が訪れます。中欧最古の大学であるカレル大学もあります。また、尖塔が多くあることから「百塔のプラハ」とも呼ばれます。ティコ・ブラーエが天体観測を行った天文塔もその1つです。


ドームのある風景

広島の原爆ドームと設計者が同じです



プラハ市内にはヤン・フスが説教を行ったベツレヘム教会などがあります。ウィーンよりも遥かにドイツ寄りに位置し、ボヘミア王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国皇帝をつとめ、この地を首都にドイツ民族に戴かれていた時期もあることから、独自のスラブ文化と併せて一種の国際性も古くから備えた都市となっています。
Wikipedia「プラハ」の「歴史」には以下のように書かれています。
「6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラト城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達した。973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。しかし、プラハは度重なる戦渦に巻き込まれ、荒廃してしまう。1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。『黄金のプラハ』と形容されるほどだった」


プラハの街を背景に

プラハの街

ランチのメイン料理

デザートのミルフィー



「次代国王ヴァーツラフ4世(ドイツ語名ヴェンツェル)の治世、ヤン・フスによるローマ教皇庁への抗議が行われ、1415年にフスが火刑にされると、フス派によってフス戦争が勃発、ローマ教皇の十字軍を破るが、15世紀後半にハプスブルク家のアルブレヒト2世がボヘミア王になると、フス派はその支配下に入った。16世紀後半、ルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王の下、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めた。しかし、1618年にプラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展。1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハスウェーデン軍に包囲されるが、ヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結した。しかし、王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなる」(Wikipedia「プラハ」


プラハの街

プラハの街を背景に

プラハの街を背景に

プラハ城は修復中でした



「一方で、1784年に4つの市議会に分かれていたプラハは、1つの市議会に統合された。その4区とは『フラッチャニ(城の丘)』(城塞・城塞の北部、および西部地区)、『マラー・ストラナ(小地区)』(下町、城塞の南部地区)、『スタレー・ムニェスト(旧市街)』(城塞の対岸・東側)、『ノヴェー・ムニェスト(新市街)』(その他の南方および東方地区)である。1848年に五区としてユダヤ人街(かつてのゲットー)が編入され、皇帝ヨーゼフ二世にちなんで『ヨゼフォフ』と名づけられた。20世紀初め、スラム化が一層進んだために大規模に再開発された。ユダヤ人墓地、シナゴーク、ユダヤ集会所などがある。 さらに町は1883年に『ヴィシェフラト(「高い城」地区)』を、1850年に有名なユダヤ教徒コミュニティーの『ヨゼフォフ』の併合をし、更なる拡大をする」(Wikipedia「プラハ」


黄金の道(錬金術師の道)にて

カフカの仕事部屋の前で

大聖堂

大聖堂の中で



「18世紀末、フランス革命やドイツ・ロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まる。1848年にはプラハ市民によるオーストリアに対する蜂起がおこるが失敗した。第一次世界大戦終結後の1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、プラハ城に大統領府が置かれ、首都となった。1922年初頭に、37の自治体を合併し、人口は676000人となった。しかし1938年に、アドルフ・ヒトラー率いるドイツ軍によって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまった」」(Wikipedia「プラハ」


プラハの広場にて

プラハの広場にて

旧市街のようす

旧市街を馬車が通る



第二次世界大戦中はここに居住していたユダヤ人約5万人がドイツ人によって殺害された。しかし、プラハは他の東欧中欧の都市のような大規模な戦火に曝されることはなかった。ただし一部で被害はやはり被っており、1945年2月14日にはドイツ軍に対してアメリカ軍爆撃機60機による絨毯爆撃が行われて、1800人を越える死傷者が出、また数百の家屋や歴史的建造物が損なわれた。ソビエト赤軍侵攻時には、旧市街広場にある『天文時計』で有名な『スタレー・ムニェスト旧市庁舎』の建物の一部が、1945年5月7日から8日にかけてのドイツ軍装甲車両や高射砲の砲撃の被害を受け、未だに一部が失われたままである」(Wikipedia「プラハ」


カレル橋を望む

カレル橋

カレル橋にて

橋の上で物想いに耽る



「第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こるが、ワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧された。しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となった。1995年には、アール・ヌーヴォー・タウンの一角に腰をくねらせたように鉄筋とガラスの超モダンビルが出現した」
Wikipedia「プラハ」


カレル橋

カレル橋の上で

カレル橋のイエス

カレル橋の中央のフス像

フス像の下はピカピカ

フス像の下で


「2002年にドイツ東部からチェコを襲った水害では、ヴルタヴァ川が氾濫し、広範に床上浸水し、市の地下鉄が数ヶ月に渡って停止するなどの大きな被害を受けた。プラハは、1000年以上の歴史を持つ都市であり、第一次・第二次世界大戦の被害にも、また、その後の資本主義の高度経済成長にも巻き込まれなかったことで、ロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ『ヨーロッパの建築博物館の街』になり、ユネスコ世界遺産にも登録されている。また2009年4月5日、米オバマ大統領によるプラハ演説が行われた地としても知られる」(Wikipedia「プラハ」


2018年4月13日 一条真也