ドナウ川クルーズ  

一条真也です。
全互協の創立45周年事業「中欧における冠婚葬祭事情視察研修2018」に参加しています。9日の午後は「ハンガリーにおける葬儀事情視察研修」がありましたが、その夜、オプショナルツアーの「ミシュランディナーとドナウ川クルーズ」に参加しました。


夕食を取ったレストラン

まずはビールでカンパイ!



18時にヒルトン・ブダペストを出発、クルーズ船に乗って、ミシュラン1つ星の少し贅沢なディナーと「ドナウの真珠」と謳われるブダペストの黄金に輝く歴史的建造物のライトアップを楽しみました。


ドナウ川といえば、ヨハン・シュトラウス2世のワルツ「美しく青きドナウ」があまりにも有名です。SF映画史に残る金字塔的作品「2001年宇宙の旅」の冒頭の宇宙ステーションのシーンでも使われました。「2001年宇宙の旅」を初めて観て以来、「美しき青きドナウ」の虜になったわたしは、ずっとドナウ川を訪れるのが夢でした。


ブダペストの夜景

ブダペストの夜景

ブダペストの夜景

ブダペストの夜景



そのドナウ川は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河です。ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川として知られています。


クルーズ船の中で



Wikipedia「ドナウ川」の「歴史」の「古代」には、こう書かれています。
ギリシア人は河口から鉄門までのドナウ川を知っており、イストロス川と呼んだ。ローマ帝国もほぼ同じ地域まで進出し、ヒステール川と呼んだ。
ローマ帝国時代には、ほとんど源流から河口までの全域が、蛮族に対する帝国の北方の防衛線の役割を果たした。ウィーン、ブダペストベオグラード、ソフィアといった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。
ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊には、195年にローマ帝国によって築かれた、ドナウ下流初の橋梁であるトラヤヌス橋の遺構が今も一部残存している。この橋は、皇帝トラヤヌスダキア戦争時に、ドナウ北岸のダキアへ侵攻するために建設されたもので、翌106年にダキアローマ帝国に占領され、属州ダキアとなった。ドナウの両岸がローマ帝国支配下に置かれていたのはこの属州ダキア(現在のルーマニア西部)のみであり、残りはドナウ川をそのまま国境としていた。271年、属州ダキアは放棄され、ローマ帝国は川の南岸へと引き上げた。ローマのダキア統治は165年間と、比較的短いものであったが、この地方はすでにローマ化されており、現在でもルーマニア人はラテン系民族となっている」


非常に風が強かったです



「歴史」の「中世から近代」には以下のように書かれています。
「375年、フン族によって圧迫された西ゴート族ドナウ川を渡り、ここにゲルマン民族の大移動がはじまった。これによりドナウ川ローマ帝国の北部国境としての意味を失い、ゴート族をはじめ、ゲルマン諸民族やフン族などが次々とドナウ南岸へと押し寄せた。
ローマ帝国東西分裂後は、下流東ローマ帝国の北部国境となったものの、やがてブルガール人がこの地域を奪取し、第一次ブルガリア帝国を建てた。中流部のハンガリー平原にはアヴァール人やマジャール人などの遊牧民族が押し寄せ、そこからマジャール人によるハンガリー王国が成立してその領域となる。片や上流域は神聖ローマ帝国領となり、この地におかれたオーストリア辺境伯領が日ならず強大化していった。追ってオスマン帝国が強大化し下流域を版図に組み入れ、中流域も1526年のモハーチの戦いによってハンガリー王国が大部分の領土を喪失すると、大部分がオスマン帝国領となった。更に上流域のウィーンにも1529年(第一次ウィーン包囲)と1683年(第二次ウィーン包囲)の2度に渡って押し寄せるなど、この時期のドナウ川下流域はオスマン帝国の重要な交通路となっていた」(Wikipedia「ドナウ川」


ドナウ川クルーズのようす



「歴史」の「近代」には以下のように書かれています。
「第二次ウィーン包囲の失敗による1699年のカルロヴィッツ条約によって中流域はオーストリアに割譲され、18世紀には大まかに上流・中流部がハプスブルク家オーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。
19世紀に入ると上流・中流部のオーストリア領では民族自決の動きが強まり、1848年にはウィーン三月革命が勃発するなど体制が動揺を続けた。またこの頃、ドイツにおいて統一の動きが高まる中、オーストリア皇帝を戴く『大ドイツ主義』か、プロイセン王を戴く『小ドイツ主義』かで対立が深まり、1866年の普墺戦争により大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最上流部は1870年にドイツ帝国に吸収されることとなった」(Wikipedia「ドナウ川」


ドナウ川クルーズのようす



また、「歴史」の「近代」には以下のようにも書かれています。
「一方、統一ドイツから排除されたオーストリアは東欧・ドナウ志向を強め、1867年にはオーストリア帝国はアウスグライヒマジャール人と結んでオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)へと改組された。ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、この事からその当時のハプスブルク帝国を『ドナウ帝国』と呼ぶこともある。この時期には民族自決の動きが盛んになる中、二重帝国制を更に改組し諸民族が同等の権利を持つ連邦国家、ドナウ連邦の構想がなされた」(Wikipedia「ドナウ川」


ドナウ川沿岸の夜景



「また、この時期は産業革命の進展する時期であり、二重帝国内においては新しく登場した機械や技術を利用してドナウ川の開発・改修がすすめられた。1862年の春の洪水をきっかけにウィーン周辺で行われた河川改修工事は流路の変更を伴う大規模なものであり、10年後に完成したのちはウィーン盆地内の流路は非常に安定したものとなり、また流路の直線化によって得られた土地や水路の拡張・安定化はウィーンやオーストリア経済に多大な恩恵をもたらした.この河川改修工事はハンガリー内においても大規模に行われ、ドナウの流れは直線的に改修され、洪水も激減した。この河川改修により、それまで春などの増水期にはあちこちに湿原のできていたハンガリー平原は乾燥化が進み、各所に乾燥した草原が広がるようになった一方、水利の向上によって農地が拡大し、ハンガリーは農産物の一大輸出国として繁栄した」(Wikipedia「ドナウ川」


「この繁栄を受けてハンガリーの首都であるブダとペストも急速に成長した。1849年にはブダとペストの間にはじめてセーチェーニ鎖橋が架けられ、1873年にはブダとペストが合併してブダペスト市が誕生し、ハンガリーの中心として栄えた。この時期はウィーンではウィンナ・ワルツが隆盛した時期であり、ワルツ王とも呼ばれるヨハン・シュトラウス2世が1867年に作曲した『美しく青きドナウ』など、数々のドナウを題材とした名曲が誕生した。
一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、オスマン支配下の各民族の独立運動が盛んになっていった。1817年にはミロシュ・オブレノヴィッチを公としてオスマン宗主権下のセルビア公国が成立した。1829年には、露土戦争に勝利したロシアがアドリアノープル条約でドナウ・デルタを領有し、ドナウへと進出する足掛かりを得た」(Wikipedia「ドナウ川」


ドナウ川クルーズのようす



「しかし、クリミア戦争講和条約である1856年のパリ条約において、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退する。またこの条約においてはドナウ川国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。1859年にはオスマン宗主権下のワラキア公国とモルダヴィア公国が連合し、1861年にルーマニア公国が成立。セルビアルーマニア両公国は1877年の露土戦争でロシア側に立ってオスマンに宣戦し、その結果サン・ステファノ条約によって両公国は完全独立を承認され、セルビア王国およびルーマニア王国が成立。ブルガリアも大ブルガリア公国としてオスマン宗主権下ではあるが大幅な自治を認められ、オスマン帝国はドナウ沿岸への影響力をほぼ消失した。だが、この条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年のベルリン条約によって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。この結果はブルガリアの不満を招き、後年大ブルガリア主義の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった」(Wikipedia「ドナウ川」


ドナウ川クルーズのようす



「またルーマニアも、黒海に面するドブロジャの領有を認められた代わりに、ロシアに南ベッサラビア(ブジャク)地方の割譲を余儀なくされた。ドブロジャはルーマニア人の多いこれまでの領土とはやや異質な土地であり、またドナウ南岸のシリストラ要塞および南ドブロジャはブルガリアに与えられた為、この条約はルーマニアにも不満を残した。これによりロシア帝国は再びドナウ沿岸に領土を持つこととなった。しばらく安定していたドナウ沿岸の国境線は、1913年の第2次バルカン戦争において再び変化する。この戦争においてブルガリア王国が敗北したため、ブルガリアはシリストラおよび南ドブロジャをルーマニアに割譲した。しかしブルガリアはこの地の奪還を悲願とし、以後30年以上、南ドブロジャはバルカン半島の火種であり続けた」(Wikipedia「ドナウ川」


ドナウ川クルーズのようす



「歴史」の「現代」には以下のように書かれています。
第一次世界大戦によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれ、中央同盟国のドイツ・オーストリアブルガリアと、協商国側のロシア・セルビアルーマニアとの間で激しい戦闘が起きた。結局1919年に中央同盟は敗北し、ブルガリアはヌイイ条約によって南ドブロジャをルーマニアに割譲。ルーマニアソヴィエト連邦からベッサラビアも獲得しており、大ルーマニアが誕生した。オーストリアハンガリー二重帝国は解体し、旧二重帝国領のドナウ沿岸にはオーストリア共和国チェコスロバキアハンガリーユーゴスラヴィア王国の4つの新独立国が誕生した。しかし分割された国境線をめぐって争いが絶えなかった上、それまで統合されていた広大な領域が分割されたために経済圏が崩壊し、ドナウ連邦の考え方はほぼ消滅してしまった。結局この経済・政治的広域圏崩壊の衝撃から立ち直ることが出来ない侭、不安定な国際情勢が続き、結局1938年のアンシュルスによってオーストリアがドイツに併合されたのを皮切りに、沿岸諸国は次々とナチス・ドイツの軍門に下って行くこととなった」(Wikipedia「ドナウ川」


ドナウ川クルーズを堪能しました



第二次世界大戦後、ルーマニアベッサラビアソヴィエト連邦に、南ドブロジャをブルガリアに割譲した。第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが共産主義化し、ソヴィエト連邦の影響下におかれ、西側諸国の航行は困難となった。1972年には鉄門にダムが建設され、下流域と上・中流域との航行がやっと可能になった。冷戦終結後、東欧革命によって政治的障害がなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。東欧革命は沿岸諸国内の動揺を齎し、1991年にはクロアチアユーゴスラビアから、モルドバウクライナソヴィエト連邦から独立し、1993年にはビロード離婚によってチェコスロバキアが解体し、スロバキア共和国が成立。現在のドナウ沿岸の国境線が確定した。1992年にライン川に繋がるライン・マイン・ドナウ運河が完成し、北海から黒海までの水運が可能になった」(Wikipedia「ドナウ川」
翌日は、ブダペストからウィーンへ列車で移動します。



2018年4月10日 一条真也