グレイテスト・アスリート

一条真也です。
17日、早朝から松柏園ホテルの神殿で月次祭が行われました。
神事の後は、恒例の「天道塾」が開催されました。最初にサンレーグループ佐久間進会長が「哲学」について話しました。佐久間会長は、「とにかく結婚したまえ。良妻を持てば幸福になれるし、悪妻を持てば哲学者になれる」という古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉を紹介し、婚活事業に対する考え方を示しました。それから開催中の平昌五輪に触れ、「オリンピックのメダリストたちは、まるで哲学者のようだ」と述べました。


羽生選手が2大会連続の金メダル獲得!



その平昌五輪で、羽生結弦選手がついにやりました!
17日に行われたフィギュアスケート男子フリーのショートプログラム(SP)1位の羽生選手は206.17点をマークし、合計317.85。1952年のディック・バトン氏(米国)以来、66年ぶりの連覇を達成したのです。オリンピック史に伝説を打ち立てたわけですが、今大会の日本勢金メダル第1号にもなりました。また、弟分の宇野昌磨選手も銀メダルを獲得し、日本フィギュア史上初のダブル表彰台となりました。日本のフィギュアスケートのファンにとっては、まさに夢のような出来事だったでしょう。


この日の演技は、とにかく力強く、優雅で、美しかったです。
そして、映画「陰陽師」のテーマ曲「SEIMEI」の曲に合わせた演技は、この世のものではないような妖しささえ漂わせていました。
バトン氏が連覇を達成して以来、半世紀をゆうに超える快挙を目指す王者には、ただならぬ注目が集まっていました。プレッシャーも半端ではなかったはずですが、ましてや怪我から復活してすぐの大舞台での挑戦でした。


118日ぶりにぶっつけで挑んだ前日のSPでは111.68点をマークし、感動の復活劇を演じました。羽生選手は「君は神様からの贈り物だ」などと言われ、世界中に称賛の嵐を巻き起こしました。
19歳だったソチ五輪で金メダルを獲得した2014年2月14日から4年、幾多の苦難を乗り越えた23歳の羽生選手は伝説となりました。
しかも、国際オリンピック委員会(IOC)がフィギュア男子で羽生選手が取った金メダルが、冬季五輪の記念すべき1000個目の金メダルだと発表したというのですから、ちょっと出来すぎですね。


わたしがブログでフィギュアスケートの話題を取り上げるのは、じつに4年ぶり。ブログ「真央ちゃん、ありがとう」以来です。
2014年2月20日、ソチ冬季五輪第14日、フィギュアスケート女子フリーが行われました。前日はSP16位という思わぬ結果に終わった浅田真央選手は、この日は初めて3回転半ジャンプを成功。6種類すべての3回転ジャンプに挑戦する攻めの姿勢を貫き、142・71点の自己ベストをマーク、合計198・22点で、6位に入りました。
これを見て号泣した人も多かったそうですが、わたしも涙が出ました。
16位から6位へという、10人抜きも異例でしたが、何よりも前日の悪夢を振り切って初めて3回転半ジャンプを成功させ、自己ベストの好成績をマークしたことが素晴らしい。その精神力が素晴らしい。この世には、難病に苦しんでいる人、事業がうまくいかず倒産寸前の人、センター試験の成績が不本意だった受験生、さらには大雪で志望校を受験できなかった受験生など、「絶望」の淵にある人々がたくさんいます。浅田選手は、それらすべての「背水の陣」にある人々に絶大な勇気を与えてくれたと思います。



絶望に屈しなかった浅田選手も素晴らしかったし、伝説の高みに駆け上がった羽生選手も素晴らしい! わたしは「オリンピックの選手たちは哲学者のようだ」という佐久間会長の言葉を思い出し、大いに納得しました。
トップアスリートとは言うまでもなく身体のエリートですが、わたしは知性においてもエリートであると思っています。俗に、運動ばかりしている人は脳も筋肉でできていて知性がないなどといわれますが、トップアスリートに頭の悪い人はいません。彼らはあるとき偶然に「これだ!」という優れたパフォーマンスを体験します。しかし、一回きりでは意味がありません。いつでも使える「技」に変えていく必要があります。その手がかりになるのは、最初のときに得た身体感覚だけ。といっても、感覚は完全には言葉に置き換えられませんから、意識化が難しい。非常に知的な作業をしているのです。



いい選手になれるかどうかは、練習や試合のときの意識の明晰さにかかっています。具体的にチェックするには、選手を呼び止めて「いま何を意識しながら練習をしているのか?」と質問するとよいでしょう。いま何のために何をしているのか。目的意識を明確に持っている者ほど上達していきます。
これは必ずしも、彼らが常にすべてを言葉で細かくとらえているということではありません。すべてを言葉にはできなくとも明晰な意識はあり得ます。身体感覚の微妙な違いをそのつど感じ分けている者ほど、反復練習がつらくなりません。そして、定着させようとしている身体感覚を求め続けることで、自然と回数が進んでしまうのです。結果として、身体感覚の敏感な者ほど練習の質と量が高まることになるのです。



意識を鮮明に保つ。しかし、ここぞというときには、意識のコントロールを超えて身体が爆発する。この冷静さと過剰さが、トップアスリートの魅力です。興奮に流されるだけでは勝つことができません。冷静にコントロールしているだけでも不十分です。潜在力を炸裂させつつ、脳はどこかシンと冷えて高速回転を続けている。土壇場まで追い込まれた場面で、この力の開放ができるかどうか。それが大舞台での強さを決めるのです。
そんなトップアスリートたちの敵とは、もはやライバル選手などではなく、自分自身以外にはありません。


現在放映中のNHK大河ドラマ西郷どん」の主人公である西郷隆盛の思想的バックボーンは、吉田松陰と同じく陽明学でした。
その陽明学(心学)を開いた明の王陽明は、本当に知るということは創造することであるとして、「知は行の始めなり。行は知の始めなり」と説きました。「知」というものは行ないの始めであり、「行」というものは「知」の完成です。これが1つの大きな循環関係をなすのです。
陽明が唱えたのが有名な「知行合一」です。わが座右の銘であります。
未来に向かっての行動の決定に対しては、人間が学としてとらえられる、言語化された知だけでは不十分です。禅で教える「不立文字」のごとく、個々の専門家がスペシャリストとしての経験を活かして、人間の能力全体としてとらえた言語化されない知、つまり「暗黙知」を加え、知行合一として奥行きを究めることが重要であるというのです。まさに、トップ・アスリートとは「知行合一」の実現者ではないでしょうか。


「日本最高の知性」とされた評論家の小林秀雄は、かつてロンドン五輪の映画を見たとき、競技する選手たちの顔が大きく映し出される場面がたくさん出てきて、非常に強い印象を受けたそうです。
カメラを意識して愛嬌笑いをしている女性選手の顔が、弾丸を肩に乗せて構えると、突如として聖者のような顔に変わるというのです。どの選手の顔も行動を起こすや、一種異様な美しい表情を現わす。むろん人によりいろいろな表情ですが、闘志というようなものは、どの顔にも少しも現われてはいないことを、小林秀雄は確かめました。闘志などという低級なものでは、到底遂行し得ない仕事を遂行する顔です。相手に向かうのではない。そんなものは既に消えている。それは、緊迫した自己の世界にどこまでも深く入っていこうとする顔です。選手は、自己の砲丸と戦う、自分の肉体と戦う、自分の邪念と戦う、そして遂に自己を征服する。


私の人生観 (角川文庫)

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一方、五輪映画には見物人の顔も大きく映し出されますが、これは選手の顔と異様な対照を示します。そこに雑然と映し出されるものは、不安や落胆や期待や興奮の表情です。「投げるべき砲丸を持たぬばかりに、人間はこのくらい醜い顔を作らねばならぬか。彼等は征服すべき自己を持たぬ動物である」と、小林秀雄は「私の人生観」というエッセイに書いています。砲丸というのはもちろん比喩ですが、私たちも自分なりに投げるべき砲丸を持ち、自己の征服に励みたいものです。スポーツのみならず、どんな仕事においても、わたしたちは聖者のような顔になれるのかもしれません。
ともあれ、羽生結弦選手おめでとうございます!
今夜は、グレイテスト・アスリートに乾杯!!


2018年2月17日 一条真也