西郷隆盛宿陣跡資料館

一条真也です。
ブログ「宮崎祝賀会」で紹介したように、10日はサンレー宮崎の新年祝賀会が行われました。終了後、わたしはマリエールオークパイン延岡を後にしました。向かった先は、宮崎県延岡市北川町川内名にある「西郷隆盛宿陣跡資料館」です。NHKの大河ドラマ西郷どん」がいよいよスタートしましたが、延岡こそは西南戦争最後の決戦地だったのです!


西郷隆盛宿陣跡資料館まで、あともう少し!

西郷隆盛宿陣跡資料館に到着しました!

たくさんの幟が翻る

西郷どんのことが知りたい!



西郷隆盛宿陣跡資料館は、「和田越の決戦」に大敗北を喫した西郷隆盛軍が、北川に逃れた際に立ち寄ったゆかりの家です。現在は、資料館として整備され、隆盛愛用の遺品や戦争資料が展示されています。貴重な資料が豊富で、なんと入場が無料!


なんと、神と人が肩を組むとは!

南洲翁寓居跡の前で

案内所の貼り紙

陸軍大将の軍服を焼却したとされる場所



和田越とは、薩摩軍と官軍が戦った最後の激戦地です。
明治10年に西南戦争が勃発し、西郷隆盛率いる薩摩軍約3500人は、山県有朋中将指揮する官軍約50000人に決戦を挑みますが、物量に勝る官軍の攻撃に耐えられず北川方面に敗走しました。


西郷隆盛宿陣跡

西郷隆盛宿陣跡の前で

陸軍大将の軍服の複製

大きな人だったのですね!



北川町の俵野に宿陣をはった西郷は、ついに薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いたと言われます。その後、薩摩軍は高千穂や神門などを経由して鹿児島に戻りましたが、鹿児島に辿り着いた西郷は城山で自決し、西郷軍は崩壊しました。そして、西南の役終結したのです。


最後の軍議場面を人形で再現

「再現された最後の軍議」の説明板

すごい迫力です!

おいどんも、血がたぎるでごわす!


北川町の俵野で解散をし、薩軍最後の宿陣となった児玉熊四郎邸は、昭和8年12月5日に史跡として県指定を受けており、現在も、西郷隆盛宿陣跡資料館として、西郷隆盛の遺品やゆかりの品々を展示しています。


NHK大河ドラマ西郷どん」コーナー

さまざまな資料が展示されています



西郷隆盛という人は、とにかく大人物だったようです。
自身も大物ぶりを存分に発揮したあの坂本龍馬でさえ、「大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響く。馬鹿なら大馬鹿だし、利口なら大利口だ」と西郷を評しています。龍馬の師匠にあたる勝海舟も、「いわゆる天下の大事を負担するのは、はたして西郷ではあるまいかと、ひそかに恐れたよ」とまで述べています。勝海舟はまた、「西郷はどうにも人にわからないところがあった」とも述べています。


二階にも展示室があります

二階の展示室のようす

西南の役陣中日誌

西南戦争の宮崎県関係戦死者の一覧



西郷隆盛は、幕末の儒者である佐藤一斎を尊敬していました。
佐藤一斎といえば、吉田松陰にも大きな影響を与えたことでも知られます。彼は歴史の流れについて、「天の意思も人間世界のあり方も刻一刻と変化している。それゆえ、歴史の必然的な流れをとどめることはできない。しかし、人間の力ではその流れを早めることもできない」と述べています。つねに天を意識していた一斎の思想は西郷隆盛に受け継がれ、西郷は「敬天愛人」を座右の銘としました。さらに現在では、鹿児島出身の名経営者である稲盛和夫氏にその精神が受け継がれているわけです。


和田越血戦配置図

日向延岡大戦争之図

自分もこれで安心して死ねる!



東洋思想を象徴する言葉に「天人合一」があります。天、つまり宇宙と人生とは別のものではなく、一貫しているという意味です。宇宙には「道」という根本的な法則性があって、宇宙の一員である人間も、そこを外れては正しい人生も幸せな人生も歩むことができません。それに対して、西洋では「天」つまり自然と人間とを対立するものととらえてきました。人間は自然の一部というより、自然は人間が征服すべきものという考え方です。その成れの果てが、地球環境の破壊ではないでしょうか。西郷隆盛は明治以後で特に人望のあった日本人でした。わたしたちも、西郷のように、天を相手に正々堂々と生きたいものです。


西郷隆盛の肖像

西郷の本当の顔とは?



西郷は島津斉彬の「忍者」ではなかったかという説があります。
それくらい、彼の生涯は大きな謎に包まれているのです。そもそも、彼の正式な写真が残っておらず、正確な顔がわかりません。一般に西郷の顔については、上野の西郷像でも参考にされたキヨソーネの肖像画が元になっています。しかし、ブログ『西郷の貌』にも書いたように、あれは西郷の本当の顔ではないという説が広く流布しています。



2018年1月10日 一条真也