「終活」の新しいかたち

一条真也です。
大型で強い台風25号が北九州に近づいています。
そんな中、「月刊仏事」10月号が届きました。
同誌は仏教界と供養業界のオピニオン・マガジンです。そこにブログ「エンディング産業展講演」で紹介したイベントの記事が掲載されていました。

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 「月刊仏事」10月号より

 

 8月24日にわたしが東京ビッグサイトで講演した内容のダイジェスト・リポートで、「人生の修め方~「終活」の新しいかたち~ 一条真也氏」のタイトルで、以下のリード文から始まっています。
「大手広告代理店を経て、冠婚葬祭互助会 株式会社サンレーに入社し、後に代表取締役社長に就任。『無縁社会』の具体的解決方法を模索し、活動している。代表を務める傍ら、作家や上智大学客員教授、全互協副会長としても活動。著書は『人生の修め方』『儀式論』等90冊以上。今回の講演では『老い』の思想や『修活』について語った」

 

若さと老いについて
アメリカのサミュエル・ウルマンの「青春」という詩に「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う」「ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある」「霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲歎の氷にとざされるとき、20歳であろうと人は老いる。頭を高く上げ希望の波をとらえる限り、80歳であろうと人は青春にして已む」という言葉があるが、私はこれに違和感を覚えている。まさに老いを否定しているアンチエイジングではないだろうか。老いと死があってこそ人生。若さが老いと対立しているという考え方ではなく、老いはひとつのステージであると考える。東西の様々な思想を交えて人生と老いについて紹介していく。

 

老い」に対する東西の思想

超高齢社会のいま、老いをどうとらえるか。定年や平均寿命が延び、途方もない巨大な「老い」の前に人類は立ち往生している現代。いまの日本は老いを嫌っているように思える。しかし、「老い」を人類にとって「新しい価値」と考えてみてはどうだろうか。古代中国をはじめ、エジプトやローマでは老いを「好老社会」と考えた。

①古代中国

孔子の「論語」では老いることを衰退とせず、一種の人間完成として考える。
朱新仲「人生の五計」
生計・・・人生を元気に生き生きと生きるかを考える
身計・・・いかに身を立て、志を立てるべきか
家計・・・家庭生活をいかに営むか。
     夫婦関係・家族関係はどうあるべきか
老計・・・いかに年をとるべきかを考えて生きること、
     「老い」の価値を生かしていきること
死計・・・いかに死ぬかを考えること
●古代中国には人生を四季にたとえる思想もあった。
「老年期は実りの秋」なのである。
玄冬・・・幼少期
青春・・・青年期
朱夏・・・中年期
白秋・・・老年期

②古代インド

ヒンドゥー教「四往期」老いをテーマにしたライフスタイル
学生期・・・ひたすら学び、厳格な禁欲を守る
家往期・・・親が選んだ相手を結婚し、職業に就き生計をたてる
林往期・・・財産や家族を捨て、社会的な義務からも解放され、人里離れところで暮らす
遊行期・・・この世へのいっさいの執着を捨て去り、乞食となって巡礼して歩き、永遠の自己との同一化に生きようとする

③江戸時代

論語を愛読していた徳川家康は江戸時代に大いなる敬老時代を築いた。老いを最高の地位に据える「大老・中老・家老・年寄」を用いたことで、儒教に基づく「敬老」「尊老」精神が伺える。

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「月刊仏事」10月号より 

 

 ●日本にはもともと「人は老いるほど豊かになる」という思想はあったと考える。
仏教・・・生老病死→四苦
儒教・・・老い=人間的完成
神道・・・老い=神に近づく状態、
     翁=神に最も近い人、
     童=7歳以下の子ども(7歳までは神の内)
アイヌ…老人の認知症→神の言葉と考えた。

 

終活は何のためにするのか
いまの終活には「葬式にお金をかけたくない」「披露宴はやらない」など人に迷惑をかけたくないという考えが根本にある。迷惑というのは建前であり、本音はきっと「迷惑」ではなく「面倒だからやらない」ではないだろうか。しかし、面倒なことをしてはじめて人は記憶に刻まれ幸せを感じると考える。子育てを例にするなら、毎日奮闘した子どもの幼少期は思い返すと一番幸せを感じられた時期であったと思えるように、苦労や面倒は幸せをもたらしてくれる。

 

「終活から修活へ」修めるということ
「修める」という心構え。修活とは人生の集大成である。学生時代の自分を修める就活。独身時代の自分を修める婚活。修活は幅広い視野をもった世界といえる。人生の終い方を考える終末活動(終活)から人生を修める修生活動(修活)という考え方に変えてみてはどうだろうか。そこで、すべての儀式は卒業式であると考えてみる。誕生祝いから始まり、結婚式、葬儀まですべてに意昧があり、通過儀礼=卒業儀礼である。だから儀式を変えてはいけない。
また、儀式を簡素化することは良くない。文化の核である冠婚葬祭を簡素化してしまうと日本の文化が痩せ細り、失われてしまうから。

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「月刊仏事」10月号より 

 

 修活は人生の卒業準備
老いと死を覚悟し、人生の最期を理想的なものにするには何をしなければならないのか。まずは自分のお葬式を具体的にイメージすることが大事。誰が参列して、どんな内容の式なのか。お葬式には故人の歩んできた人生が表れる。「酒飲みだけど良い人だった」など理想的なかたちにするには、今後をどう生きていくか考えることに繋がる。死を意識し、覚悟し、はじめて人は己の生きる意昧を知る。ひとつの方法として入棺体験がある。蓋を閉められると、自然と安らかな気持ちになる。今までの人生が一瞬で思い返され、やり残したことが浮かんだ。私は定期的にこのようなことを行っている。

 

 究極の修活は「死生観の確立」
①修活としての読書
読書にはグリーフケアの機能がある。
愛する人との死別」「この世で最大の悲劇の主人公」のように死を疑似体験することで死生観を養う事ができる。死へのおそれや、悲しみが自分だけではないことを教えてくれる。アンデルセン童話には死の本質を語っているところがある。子どもの話で初めて死を取り入れた「人魚姫」は生あるものには死があることを教えた。「マッチ売りの少女」は死ぬと天国に行く世界観を教えた。「銀河鉄道の夜」は死を魂の宇宙旅行ととらえ、臨死体験の物語である「青い鳥」を法華経の世界観で表した。

 

②修活としての映画
映画は人間の「不死」への憧れであったと考える。
人間の文化の根源には「死者との交流」という目的がある。死んだ人に会える事を実現したのが映画。また、映画はできれば映画館で観るほうが良い。闇の中で観る映画の世界は死者が光(生)を覗き見ている世界と似ている。映画はまさに臨死体験そのものといえる。オープニング映像は神道の世界でいう降神の儀式。始まりと終わりがあり、セレモニーのようだ。読書や映画は「死」への心構えに繋がる。死者の言葉や姿に触れて死の疑似体験をして、無意識のうちに死の不安を乗り越えることができる。

 

冠婚葬祭の儀式を行うにあたって、日本人に広く儀式を提供する冠婚葬祭互助会の社会的役割と使命が問われている。たしかに、互助会というビジネスモデルが大きな過渡期にさしかかっていることは事実である。その上で、互助会の役割とは「良い人間関係づくりのお手伝いをすること」、そして使命とは「冠婚葬祭サービスの提供によって、たくさんの見えない縁を可視化すること」に尽きると考える。そして、「縁って有難いなあ。家族って良いなあ」と思っていただくには、わたしたちのような冠婚葬祭業者が参列者に心からの感動を与えられる素晴らしい結婚式や葬儀を提供していくことが最も重要であるのではないだろうか。

 

冠婚葬祭の「アップデート」について、わたしは以下のように考えている。

■冠婚葬祭1.0
(戦前の村落共同体に代表される旧・有縁社会の冠婚葬祭)

■冠婚葬祭2.0
(戦後の経済成長を背景とした互助会の発展期における冠婚葬祭)

■冠婚葬祭3.0
(無縁社会を乗り越えた新・有縁社会の冠婚葬祭)

互助会が儀式をしっかりと提供し、さらには「隣人祭り」などの新しい社会的価値を創造するイノベーションに取り組めば、無縁社会を克服することもできるはずである。「豊かな人間関係」こそ、冠婚葬祭事業のインフラであり、互助会は「有縁社会」を再構築する力を持っている。これからの時代、互助会の持つ社会的使命はますます大きくなると確信する。

 

そのうえで儀式のイノベーションが必要となる。
いま、七五三も成人式も結婚式も、そして葬儀も大きな曲がり角に来ている。現状の冠婚葬祭が日本人のニーズに合っていない部分もあり、またニーズに合わせすぎて初期設定から大きく逸脱し、「縁」や「絆」を強化し、不安定な「こころ」を安定させる儀式としての機能を果たしていない部分もある。いま、儀式文化の初期設定に戻りつつ、アップデートの実現が求められており、「冠婚葬祭3.0」、さらには「冠婚葬祭4.0」の誕生が待たれている。


これからは「修活」の時代です!

 

2018年10月7日 一条真也